第5話 淘蒼仁



 淘江馬とう・こうま劉賢明りゅう・けんめいは、十年前に私塾の裏庭で出会った。江馬は八歳、賢明は十三歳の時だ。


 淘家で当主が亡くなって家督を継ぐために、嫡男の淘蒼仁とう・そうじんが都・新邑からが戻って来て三か月が過ぎていた。葬儀から始まった諸々の行事もほぼ片付いて、淘家の屋敷内も落ち着きを取り戻しつつあった。


 その日、江馬は蒼仁の部屋に呼ばれた。


 江馬が生まれた時には、蒼仁はすでに科挙に受かり宮中で皇帝に仕えるべく都に旅立っていたし、この三か月の慌ただしさもあって、兄と弟が向かい合って顔を合わせたのはこの日が初めてだった。


「おまえが江馬か? 八歳だと聞いたが、間違いないな? 兄として話す必要があると気にはなっていたが、忙しく、ついつい遅くなってしまった。許せ」


 ぎこちなく拱手した両腕の中から上目遣いに、この日初めて、江馬はまじかに兄の顔を見てそして自分に語りかける声を聞いた。


 歳が二十も離れている兄はまだ喪があけていないせいもあって鼠色の地味な着物を着て、肘掛けのある椅子にゆったりと腰をかけていた。屋敷でときおり見かけた父の面影はその顔にはなかった。たぶん、母親似なのだろう。


「まあ、座れ。立っていられては、話もしにくい」


 卓を挟んで置かれている椅子を兄は指し示したが、江馬はその言葉に従わなかった。今まで、淘家の者たちと対等に座って話すなど一度も経験したことがない。


 二人の父であった先代は、淘家の当主として河南の街をあずかる役人として優秀な男ではあったが色を好んだ。妾も多くいたが、容色のよい女であれば下女であれ奴婢であれ誰彼となく手をつけて子を孕ませた。


 江馬もそうやって生まれた子の一人だ。


 だが、彼と彼の母は屋敷にとどめおかれたのは運がよかった。多くの子はその母とともに金子を与えられて屋敷から出されたからだ。


 しかしそれだけのことであって、母は変わることなく下女として働き、江馬はその手伝いをしながら浮浪児寸前として暮らしていた。そのために父が寝込んで数日であっけなく死んだ時も、名前だけは与えてもらったが親らしい思い出のない父の死を悼むという気持ちもなかった。


 かたくなな態度をとる歳の離れた弟を見てか、それとも下僕と変わらぬ粗末な弟の着物を見てか、兄は笑みを浮かべそして言葉を続けた。


「座りたくないのであれば、それでもよい。ところで、江馬。読み書きはできるか? 礼記をそらんじることはできるか?」


 何の話があるのかと思えば、まったく予期していなかったことを兄は問うてきた。

 だが、拱手を解いた江馬は胸を張る。問いには問いで返す。それが世渡りの鉄則だ。


「礼記とはなんだ?」

「ああ、それはな、人が守るべき礼儀作法を説いた書だ」

「そんなこと知らなくても、困っちゃいない。読み書きなど出来なくても、おれは暮らしていける。いまでじゅうぶん満足してる」


 実際にその通りだった。見かけはまだ子どもだが、すばしっこく機転の利いた江馬は、大人たちの使い走りで小遣いを稼いでいた。物置の隅に与えられた部屋で、なんとか飢えぬほどには母と二人でその日暮らしが出来ている。


 だが、兄は笑みを浮かべたまま、弟の言葉を即座に打ち消した。


「いや、そんなものではないぞ。文字を知り礼儀を知れば、また新しい道が開ける」

「道ってなんだ?」

「道か? それはな……。道というものは、人それぞれに違うものであるから、一口で説明するのは難しい」

「難しいことなんか、嫌いだ」


 いちいち突っかかる態度に茶器を投げつけられるかと思ったが、兄は笑みを崩さない。


「おまえの道を知るためには、まずは文字を知り、それから礼儀を学ぶ必要がある。明日から、おまえを私塾に通わせる」

「私塾? なんだ、それは?」

「字と学問を学ぶところだ」

「まっぴらごめんだ。おれは忙しいんだ」


 今度こそ、拳で殴られるか、足で蹴られるか。

 しかし、蒼仁という男はどこまでも笑顔だ。


「そうか、八歳で、銭儲けのために忙しいのか。では、こちらも条件をだそう。おまえが私塾に通うことを承知すれば、おまえとおまえの母を、淘家の者として扱う。それなりの部屋を与え、それなりの待遇で暮らすことを保証する」


「いまの暮しで、なんも困っちゃいない」


「そうかな? おまえの母もいずれは老いる。いつまでも下女の仕事では、体に堪えるだろう。そうは思わないか、江馬」


 言い返そうとして、江馬は口を開いた。

 しかし言葉が出てこなかった。


 確かに最近の母は疲れやすくなっている。体のどこかが悪いのかも知れない。それだけが、江馬の気がかりだったからだ。これまでどんな大人を相手にしても言葉に詰まったことのない彼が、返すべき言葉を思いつかない。


 相手に言うことを聞かせるには殴るか蹴るか、それとも銭を握らすか。その三つしか知らなかった江馬は、このとき初めて、笑みを浮かべて穏やかに話す言葉でも人を思い通りに動かせることを知った。


 ふと思う。

 これが文字を知り礼儀を知って得られる<力>というものなのか。

 であれば、学問というのも悪くはない……。


 弟の無言を承諾ととって、今度は、蒼仁はいかにも楽しそうに声に出してからからと笑った。


「文字を知らず礼記を知らずとも、道理はわかるようだな。なかなかに見どころがある弟だ。将来が楽しみだ」


 そして、奥に向かって手を叩く。

 すぐさま、彼の妻が現れた。都で娶った美しい女だ。


「旦那さま、なんのご用でございましょう?」


「江馬が、李下学堂に通うことになった。明日から行かせる。それから、江馬と母親に、淘家の者としてふさわしい部屋を用意してやってくれ。すべては、家宰と相談しながらやるといい」


 女は江馬をちらりと見やって微笑んだ。美しい顔が大輪の花となって綻んだのかと江馬は思わず見とれた。そして美しい女は声もよい。


「はい、旦那さま。かしこまりました」


 新しい家宰もまた蒼仁が都から連れてきた者のうちの一人だ。慣れない地で妻が苦労しないようにとの蒼仁の配慮だろう。後宮にいた宦官だという噂がある。


 新しい家宰がどんな男か、また宦官についても江馬はよくは知らない。

 だが、蒼仁が解雇した前の家宰は、自分より立場が下の者に威張りくさる嫌味な奴だった。よく殴られそして蹴られた。江馬を産んだあと、当主に見向きもされなくなった母を凌辱しようとしたこともある。


 誰であろう宦官でろうと、あの男よりはましだろう。


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