桜坂の誘惑者たち
舞夢宜人
第1話 期末考査、そして憂鬱な放課後
七月上旬、梅雨明けを思わせるような、灼熱の太陽が降り注ぐ午後。俺たち高校三年生にとっての最後の期末考査が、ついに終わりを告げた。三日間、脳をフル回転させてきた反動だろうか、教室にはまるで春の嵐が過ぎ去った後のような、静かで、しかし活気に満ちた空気が漂っている。級友たちの楽しげな話し声が、窓から差し込む夕日に照らされ、きらきらと舞う埃と共に、どこか遠い世界のように感じられた。俺――朝倉竜馬は、そんな喧騒から少し離れた窓際の席で、ただ一人、机の上に置かれた一枚の紙をじっと見つめていた。
それは、真新しい進路希望調査票。
この紙切れ一枚が、俺の心を重くしている。部活を引退し、受験勉強が本格的に始まる前の、つかの間の休息期間。誰もが未来への希望に胸を膨らませているこの時期に、俺だけが過去に取り残されているような、漠然とした不安に苛まれていた。
「竜馬くん、まだいたの?」
ふと、背後から凛とした、まるで氷を溶かすような透き通った声が聞こえた。その声の主が誰であるか、振り返るまでもなくわかっていた。竜馬の母方の従妹、藤崎凛。学園のアイドル的存在であり、クラス委員長として誰からも慕われる彼女は、制服のブラウスに腕を通し、長い黒髪を揺らしながら、俺の席に近づいてきた。その仕草一つ一つが、絵画のように美しかった。
「ああ、進路希望調査票、どう書くか迷っててさ」
そう答えると、凛はわずかに眉を下げて微笑んだ。
「そうよね。みんな進路に悩んでるわ。でも、竜馬くんは真面目だから、きっと良い道を見つけられるわよ」
その優しい言葉に、俺は少しだけ心が軽くなった。しかし、その安堵は、もう一人の声によってかき消されることになる。
「りーくんは真面目だからねぇ。将来の夢とか、ちゃんと考えなきゃって思ってるんでしょ?」
甘く、耳に絡みつくような、まるで蜜のような声。それは、俺の父方の従妹である佐伯琴音の声だった。ブラウスのボタンを一つ開け、健康的なくびれをわずかに見せながら、テニス部で鍛えられたしなやかな太ももを惜しげもなく露わにしている。茶色く染めたふわふわとした髪と、猫のように大きな瞳は、彼女の小悪魔的な魅力を象徴していた。
"りーくん"というあだ名は、琴音だけが俺を呼ぶときの特別な呼び方だ。その響きと、彼女の甘い声に、俺は心臓が跳ね上がるのを感じた。琴音は俺の正面に立ち、両手を机について身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。彼女のつける、刺激的な香水の匂いが、俺の鼻腔をくすぐった。
「……琴音は、もう書いたのか?」
俺がそう尋ねると、琴音はあっさりとした口調で答えた。
「とっくに。りーくんと一緒の大学に行けたら、楽しいかなーって思って、適当に書いちゃった」
その言葉に、凛がわずかに表情を曇らせた。凛は、琴音の軽薄な態度に、いつも心を痛めているようだった。
「琴音、そういうのは真剣に考えないと。あなたの将来がかかっているんだから」
凛の注意に対し、琴音は肩をすくめてみせる。その仕草は、まるで凛を子ども扱いしているようだった。
「いいじゃない。どうせりーくんのこと、りんだって気になってるくせに」
「なっ……!」
凛の白い頬が、一瞬で赤く染まる。その様子を見て、琴音はさらに面白そうに続けた。
「あーあ、そういう真面目なところがりんのいいところだけど、真面目すぎるからりーくんも誘いにくいよね。そういうところ、男の人って好きじゃないでしょ? りーくん、そうでしょ?」
琴音の挑発的な言葉が、まるで刃物のように凛の心を突き刺す。凛は悔しそうに唇を噛みしめ、反論した。
「琴音は男慣れしてるから、そういうこと言えるのよ。ただの軽い女じゃない」
凛の反論に、琴音は楽しげに笑い返す。その笑い声は、教室の静けさを切り裂くように響いた。
「あら、ただの真面目ちゃんよりはマシじゃない? りーくんはどっちがいい? ただ真面目なだけの凛と、男慣れしてるあたしと、どっちが女として魅力的?」
二人の視線が、俺に突き刺さる。その視線は、まるで天秤にかけられているかのようだった。俺は、突然の口論と、そこに投げかけられた言葉の意味に、心臓が跳ね上がるのを感じた。
(なんだ、この状況は……俺はただの委員長で、童貞で……なんで、二人が俺を巡って……?)
混乱する頭の中、俺は何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。夕日に照らされた教室で、俺の平穏な日常は、音を立てて崩れ去った。この日から始まる、甘く危険なゲームの始まりを、俺はまだ知らなかった。
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