花宮由芽は異世界人になる為に
夜永培足
第一幕 夢の跡地に
花宮由芽は殊更に類まれなる娘であった。文芸、武道、歴史に比類なき才を持つ良家の娘。しかしてその才は生まれ持っての物ではなく、果てが見えない暗がりの生を心を殺して歩き続けた結果の賜物である。
所謂自由といった物は彼女にはなかった。今日という日を迎えるまでは。
「お嬢様…本当によろしいのですね」
長年由芽のそばに仕える執事、鈴村は表情を曇らせる。
「鈴村、言ったでしょう。私は日本を代表する文化人として選ばれた事を光栄に思っていると」
「そう…ですか…」
両者は舞台裏にて言葉を交わす。そこへ抱かれるのは経験が故の確かな疑念。
花宮由芽がこんなことを言う筈がない。
鈴村は由芽の内心がとんでもない暴れ馬であることを十分に知っていた。故に本心は別にあるとあたりが付く。
一方で由芽はそんな鈴村の内心を分かったうえで口にした。明らかな挑発である。
「荷物は?」
「こちらに」
鈴村の後ろからもう一人の従者が登場した。その手には中身がぎっちぎちに詰まっているであろうスーツケースが一つずつと肩かけの旅行かばんが一つ。
「お…お嬢様…結構な重量なのですが…」
「過酷な異世界での生活。それを思えば当然の事…皆の期待を背負う…そんな重みに比べればこれくらいなんだというのです」
演者、花宮由芽。民の為に犠牲になるヒロイン気取りであった。
「花宮様、お時間です」
政府の役人が舞台裏に顔を出す。
「えぇ、それでは依頼の概要を確認いたしましょう。鈴村、荷物を先に運んでおいて」
「承知しました。田中…ちょっといいか…」
「え…はい…」
鈴村は荷物を抱えた従者、田中から荷物を受け取りつつ耳打ちをする。
「お嬢様に妙な動きがあれば後で教えてくれ、何かまだ裏がありそうでならん」
「は、はぁ…分かりました」
顔も返事も冴えない田中。しかめっ面の大先輩、鈴村を前にして一切の動揺はなかった。
「えー、それではですね今回の経緯から…」
「不要です」
由芽は台本を読み上げようとした役人をぴしゃりと制した。
「上位存在に文化交流を持ちかけられた。故に無下には出来ない…それだけのこと」
長ったらしい説明を嫌う花宮由芽。彼女もまた役人から無下にし難い存在であった。
「認識相違なさそうですが…確認は…」
「私が確認したいのは禁則事項についてです。何せ文化が入り混じるという事は戦争の火種になってもおかしくありませんから」
異世界には異世界の。こちらにはこちらの文化がある。風土や歴史、他にも多様な要素から文化という物は脈々と続く物。流石は文化人の花宮由芽、理解は深い。ただのお転婆お嬢様といった訳でもないのである。
「禁則事項…言伝を確認しましたのですが一点、記載が書き換わっており…」
「ほう…先にそれをお聞かせいただけますか?」
「曰く…愛を知りたいと…」
「んっ…!?」
花宮由芽は殊更に類まれなる娘であった。だが、一人の人間でもあった。当然、動揺する。
「ど、どんなお方かご存じありませんが…な、なんですか…?殺戮人形か何かですか?そのお方は」
「あ…まだお伝えできていませんでしたか…創世の統括者…とその存在は口にしていたようです。お会いした方に聞いたところ見た目は巨大な竜だとか」
追求したいことは山ほどある。だが、この役人もそこまで詳しくはないと由芽はそう判断した。確かにすべき事柄は自分の目で観測するほかない。由芽の中でそれは絶対の指針で、謀略渦巻く大人の世界ではそれこそが身を守る術であると知っていた。
「ま、まぁ…それはいいでしょう。他は変わりありませんか?」
「はい、それ以外は特に」
机の時計を見ると、もう数分で開会式が始まる時間だった。由芽は動揺の一切を押し殺し、表情を作り上げる。その立ち振る舞いには絶対的な風格が宿り始めた。役人もその真剣な面持ちに息を吞む。
「それでは、少し早くはありますが行って参ります。依頼の方は必ずや…」
役人に頭を下げ、丁寧に、かつ堂々と歩みを進める由芽。絢爛たる袴がその歩みに合わせて小気味よく揺れる。
「今あの三大文化人の一人、花宮由芽が扉の前に姿を表しました!壇上に一歩!また一歩と登っております!」
沸き立つ観衆。騒音にも似た人の声。肌の色が変わってしまいそうなほど皮膚に焼け付くフラッシュの熱。うんざりだった。
「美しい所作ですねぇ…花宮さんは本当に…」
「それは先生の目から見ても…ですか?」
「えぇ、あの子は本当に…本当に凄い子ですよ。こんな…こんなにも…」
詫びも寂びも…もうこれっきり。彼女は煌々と輝くこの大門を抜けて解き放たれるのだから。
由芽はマイクの前に立ち、視界一杯に広がる衆を見た。もう、この世界には戻らない。そんな意思と昔からの憧れにだけは嘘をつかないように言葉を紡ぐ。
「皆さんお足元の悪い中お集まりいただきありがとうございます。私、花宮由芽は本日をもって異世界へと旅立ちます」
昔、親の言いつけを破ってネットカフェでプレイしたオンラインゲーム、悠久のラトエスク。どこまでも広がる緑の大地とどこまでも自由な世界に胸躍り、救われた記憶が今も鮮明だった。
「異世界文化交流の懸け橋として選ばれた事、心から感謝いたします。皆さまの中にも異世界に興味を抱く方がいらっしゃると思います。私も実を言うとそうでした」
嘘ではない。由芽の腹の底から出た微かに残された清い言葉。
「暖かく、広大で…そして自由…そんな世界なのか、それとも厳しい弱肉強食の世界なのか…それは分かりません。ですが、一つだけ確かなことがあります。それは絶対の未知がそこにはあるという事です」
「未知は恐怖を産みもしますが、同時に確かな刺激にもなります。私はその刺激を選定し、良い方向にこの世界を導くことこそが使命だと考えております。不安が全くないとは言いません。ですが、皆さま方の社会に、世界に。何か大事な何かを持ち帰れるように精一杯取り組ませていただきます」
由芽は衆に向けて目を向けた。これも最後だから。
「以上をもって、私の…締めの言葉とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました」
頭を下げると同時、拍手の音が耳を打つ。けたたましく騒がしい。
「お嬢様、ご用意の方が…」
横から低く、のぶとい声。鈴村だ。
「鈴村…」
目を背けるように鈴村は首を振る。鈴村は分かりやすく目には涙を浮かべていた。青白く光る転移の門を前に鈴村とのこれまでが由芽の脳裏には鮮明に浮かびあがる。
「あ…」
由芽の胸に小さな棘。それを取り去る方法は明確で、だがそれは度し難い。
きっと彼女が花宮由芽でさえ無かったのなら感動的な別れであったことは間違いないだろう。そう、彼女が花宮由芽という箱入り娘でさえなければ。
「鈴村、カメラの前です。こちらへきて、会釈を」
「は…私が…ですか…?」
「あなたは送り人でしょう?当然です。それが礼節という物ですよ」
少し考えて鈴村は頷く。
「分かりました」
促されるまま鈴村は聴衆に向かって頭を下げた。
深く、丁寧な礼。紳士としての風格は確かだった。
頭を下げた鈴村は背後に立つ由芽の方を振り返る。その刹那、鈴村は見た。自分の襟元に手を掛ける由芽の今までにない狂気的で、嬉々とした笑顔を。
「鈴村、ごめんなさいね」
「は…?」
由芽は足を絡ませ、鈴村の体重を崩す。歩き疲れたその足では咄嗟に踏みとどまることなど出来やしない。とはいえ、万全の状態でも防ぐことは叶わなかった筈である。
なにせ由芽はあらゆる武道に精通した天才娘。無論、柔道も黒帯の有段者。
「はぁっ!!」
由芽の柔術が体重65kgほどの鈴村の肉体を軽々と浮かした。なすすべもなく鈴村は扉へと消えた。
「今…あの爺さん吸い込まれてったよな…」
唖然とする聴衆をよそに由芽は残された荷物を手に取った。両手にはスーツケース肩には旅行鞄。もはや重みなど感じない。箱の中ですくすくと育った化け物は今、解き放たれたのだ。
「それではご苦労様でした!!皆さまお元気で~!」
軽やかな足取りで由芽は扉をくぐり抜けた。
今まで背負っていた期待と立場だけを置き去りにして。
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