君の色彩に、僕の名前を

☆ほしい

第1話

がらんとした放課後の美術室は、僕にとって聖域のような場所だった。

西陽が大きな窓から差し込み、床に埃の粒子をきらきらと踊らせる。油彩のツンとした匂いと、乾いた木炭の香り、そして古い木のイーゼルが放つ微かな甘さが混じり合った、独特の空気。そのすべてが、僕の心を穏やかにしてくれる。


そして、この聖域には神様がいる。


僕から斜め向かいの席。一番窓際で、光を一身に浴びる場所に陣取る彼こそが、この美術室の主であり、僕だけの神様だった。


如月海都(きさらagi かいと)。


同じクラスで、同じ美術部。それなのに、彼と僕との間には、天と地ほどの隔たりがある。

色素の薄いサラサラの髪が、キャンバスに向かう彼の動きに合わせて静かに揺れる。長い睫毛に縁取られた瞳は、鋭いほど真剣な光を宿して、目の前の世界だけを捉えている。握られた絵筆の先から生み出されるのは、誰もが息を呑むような色彩の奔流。二年生にして全国のコンクールで何度も金賞を受賞し、若き天才と称されるに相応しい才能の持ち主。


それに比べて、僕は。

水原優輝(みずはら ゆうき)。どこにでもいる、ごく平凡な高校生だ。絵は好きだけど、才能なんてものはない。ただ、この静かな時間が好きで、美術部に籍を置いているだけ。


だから、彼とまともに話したことなんて、ほとんどなかった。クラスでも彼はいつも一人で、誰かと馴れ合う姿を見たことがない。クールで、ストイックで、まるで生きている世界のレイヤーが違うみたいだ。僕なんかが声をかけるなんて、おこがましいにも程がある。


だから、こうして彼の姿を盗み見るのが、僕のささやかな楽しみであり、秘密だった。

彼が時折見せる、集中が途切れた瞬間の小さなため息。新しいキャンバスを前にした時の、ほんの少しだけ和らぐ目元。誰も知らない、僕だけが知っている彼の表情。それを見つけるたびに、心臓が小さく音を立てる。


今日も、彼は大きなキャンバスに向かっていた。どうやら、次のコンクールに出す作品らしい。テーマは「貌(かたち)」。人物画だ。普段、風景画や抽象画を多く手掛ける彼にしては珍しい選択だった。


カン、と硬い音がして、僕は我に返った。

見れば、如月がパレットナイフを床に落としたところだった。彼はそれに気づく様子もなく、苛立たしげに自分のこめかみを押さえている。


「……違う」


絞り出すような、低い声。

彼の周りには、いつも近寄りがたいほどの静寂が漂っているのに、今日に限ってはピリピリとした焦燥感が満ちていた。キャンバスに描かれているのは、一人の少年。モデルはいないようだから、想像で描いているのだろう。技術は、僕なんかが評価するのもおこがましいほど完璧だ。光の捉え方、肌の質感、髪の毛一本一本の繊細な流れ。写真よりもずっとリアルで、美しい。


なのに、何かが足りない。

そう、表情だ。描かれた少年は、驚くほど無表情だった。まるで精巧な人形のように、心が感じられない。如月自身が、そのことに一番苛立っているようだった。


「なんで……描けない……」


ガシャ、と乱暴な音を立てて、彼が傍らの筆立てをなぎ倒した。何本もの絵筆が床に散らばる。普段の彼からは考えられない行動だった。僕は思わず息を呑み、身を固くする。


どうしよう。声を、かけるべきか。

でも、なんて?「大丈夫?」なんて、気安く言える相手じゃない。きっと、「うるさい」と一蹴されて終わりだ。いや、それどころか、無視されるかもしれない。


僕が逡巡している間に、彼はゆっくりと立ち上がった。そして、散らばった筆には目もくれず、僕の方へと歩いてくる。


え。


まっすぐに、僕の席へ。

心臓が喉の奥で跳ね上がった。なんで? 僕、何かしただろうか。彼の集中を邪魔するような音を立ててしまったのかもしれない。頭が真っ白になる。


数歩の距離が、永遠のように長い。

やがて、僕のイーゼルの前で彼の足が止まった。見下ろしてくる灰色の瞳には、何の感情も浮かんでいないように見える。いや、違う。その奥に、追い詰められたような、藁にもすがりたいような、そんな必死の色が揺らめいている気がした。


「……水原」


初めて、彼に名前を呼ばれた。

自分の名前なのに、まるで知らない単語のように聞こえる。


「は、はい」


かろうじて絞り出した声は、情けないほど上ずっていた。


彼は僕の返事を聞いているのかいないのか、視線を僕の顔から、僕が描いている途中のスケッチへと落とした。描いていたのは、美術室の窓辺に置かれた、少し萎びた花。誰かが活けたのだろう。その、盛りを過ぎた健気な姿に惹かれて、何となく描いていただけの、拙い絵だ。


「……笑ってる」


ぽつり、と彼が呟いた。


「え?」


「その花。お前の絵の中だと、笑ってるように見える」


言われて、僕は自分の絵をまじまじと見た。笑っている? そんなつもりはなかった。ただ、萎びてはいるけれど、最後まで光の方を向こうとしている姿が綺麗だと思った。それだけだ。


「なんで」


「え、と……なんでって言われても……」


「なんで、そう描ける? 俺には、描けない。ただの物体にしか見えない。どんなに正確に形を写し取っても、そこに感情が乗らない。心が、ない」


彼の声は、まるで迷子の子供のようだった。いつも自信に満ち溢れ、孤高を保っている天才・如月海都の姿はどこにもない。そこにいたのは、自分の才能の壁にぶつかって、途方に暮れている一人の少年だった。


その姿を見て、僕の中の恐怖が、すうっと潮が引くように消えていった。代わりに、胸の奥から何かがこみ上げてくる。放っておけない、というような、おこがましい感情。


「如月くんは……」


僕は、おそるおそる口を開いた。


「見たままを、完璧に描けるから、じゃないかな。見たまま以上に、正確に。だから、余計なものが入る隙間がないんじゃ……。僕は、へたくそだからさ。見たままなんて描けない。だから、自分が『こうだったらいいな』とか、『こう見えた』っていう気持ちを、ごまかすみたいに乗っけてるだけだよ」


我ながら、何を言っているんだろう。天才に向かって、あまりにも失礼な物言いだ。慌てて口を噤む。

けれど、彼は怒るでもなく、ただじっと僕の顔を見ていた。何かを吟味するように、分析するように。その視線に耐えきれず、僕は顔を俯かせた。


長い、沈黙。

気まずさに、指先が冷たくなっていく。やっぱり、余計なことを言ったんだ。


諦めて、彼が立ち去るのを待とうとした、その時。


「……君、ちょっといい?」


不意に、声が降ってきた。


顔を上げると、彼は僕の目をまっすぐに射抜いていた。その瞳には、さっきまでの迷いは消え、代わりに強い光が宿っている。獲物を見つけた肉食獣のような、鋭い光。


「こ、こっちに来て、座って」


言われるがまま、僕は自分の席を立ち、彼が指さした椅子――彼のイーゼルの正面に置かれた、モデル用の簡素な椅子――に、ぎこちなく腰掛けた。


彼は自分のイーゼルの前に戻ると、新しいキャンバスを乱暴にセットし直した。そして、パレットに新しい絵の具を絞り出す。その一連の動きは、迷いがなく、力強い。


「あの、如月く……」


「動かないで」


有無を言わさぬ、命令。

僕はびくりと肩を揺らし、慌てて背筋を伸ばした。


何が始まるんだろう。

混乱する頭で彼を見つめると、彼は絵筆を手に、じっと僕の顔を観察していた。まるで、僕の肌の下、骨格、血の流れまでも見透かそうとするかのような、恐ろしいほどの集中力。居心地が悪くて、視線をどこにやればいいのか分からなくなる。


「……笑って」


「え?」


「だから、笑えって言ってる」


無茶苦茶だ。

こんな状況で、笑えるわけがない。緊張で顔の筋肉がこわばっているのが、自分でも分かる。


「む、無理だよ。急に言われても……」


「じゃあ、何か面白いこと考えて」


「面白いこと……」


必死に頭を回転させる。昨日のバラエティ番組、友達とのくだらない会話。でも、彼の射抜くような視線の前では、何もかもが色褪せて、少しも面白くなんてなかった。


僕が困り果てていると、彼はちっと舌打ちをして、絵筆を置いた。そして、おもむろに自分のスクールバッグを探り始め、ごそごそと何かを取り出す。


「……これでも見て」


ぶっきらぼうに差し出されたのは、彼のスマートフォンだった。

受け取るのをためらっていると、「早く」と急かされる。おそるおそる受け取った画面に表示されていたのは――。


「……猫?」


画面いっぱいに、丸々とした三毛猫が、へそ天で熟睡している動画だった。時々、ぴくぴくと耳や尻尾が動き、寝言のような「にゃーん」という声が微かに聞こえる。無防備で、安心しきった、幸せそうな寝顔。


思わず、ふっと口元が緩んだ。


「……ぷっ」


なんだこれ。可愛い。

クールでストイックな如月海都のスマートフォンから、こんなにも気の抜けた動画が出てくるなんて。そのギャップに、緊張の糸がぷつりと切れた。


「あはは……なにこれ、如月くんちの猫?」


「……違う。近所の」


ぶっきらぼうに答えながらも、彼の視線は僕の顔に釘付けになっている。そして、その手は猛烈な速さで動き始めていた。木炭を握りしめ、キャンバスの上に迷いなく線を描いていく。


カリ、カリ、という乾いた音だけが、静かな美術室に響く。

僕はまだ少し笑いを堪えながら、彼の描く様をただ見つめていた。


すごい。

さっきまでの、あの無機質な少年とは全く違う。僕の、ほんの僅かな表情の変化を、彼は一切見逃さずに捉え、キャンバスの上に再現していく。それはもう、魔法のようだった。


どれくらいの時間が経っただろう。

彼の動きが、ふと止まった。


「……今日はここまで」


彼はそれだけ言うと、僕に背を向け、道具の片付けを始めてしまった。僕はまだ、状況が飲み込めないまま、椅子に座り続けていた。


「あの……」


「明日も、放課後ここに来て」


振り返らずに、彼は言う。


「でも、僕、別に美術部員として活動してるだけで……」


「モデル代は払う」


「そういうことじゃなくて!」


思わず、声が大きくなる。僕が言いたいのは、そんなことじゃない。なんで僕なのか。どうして、こんなことになっているのか。


僕の言葉に、彼の片付けの手がぴたりと止まった。

ゆっくりと、彼がこちらを振り返る。西陽を背にした彼の表情は、影になってよく見えない。


ただ、その声だけが、やけにクリアに僕の耳に届いた。


「……水原」


静かに、僕の名前を呼ぶ声。


「俺の絵の、モデルになれ」


それは、拒否を許さない、絶対的な響きを持っていた。


「お前じゃなきゃ、駄目だ」


心臓が、大きく、強く、一度だけ跳ねた。

駄目だ、と言われた。僕じゃなきゃ、駄目だと。

天才の彼に。誰のことも必要としなかったはずの彼に。


西陽が彼の輪郭を金色に縁取り、まるで後光が差しているように見える。

僕の聖域にいた神様が、初めて僕の方を見て、手を差し伸べている。


その手を、取ってはいけない。分かっているのに。

僕の口からこぼれたのは、自分でも信じられないような、小さな、小さな声だった。


「……うん」


こうして、僕と神様の、奇妙で、ぎこちない放課後が始まった。

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君の色彩に、僕の名前を ☆ほしい @patvessel

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