夕凪の的、君の横顔

☆ほしい

第1話

乾いた弦音(つるね)が、凛と空気を震わせた。


放たれた矢が風を切り、遠く二十八メートル先の的に吸い込まれる。パァン、と小気味良い音。射位(しゃい)に立つ長身の影は、残心(ざんしん)の姿勢のまま微動だにしない。まるで時が止まったかのような、美しい一連の動作。


その姿を、道場の隅から盗み見るのが俺、佐々木湊の日常だった。


高校に入学して早二ヶ月。なんとなくで入部した弓道部で、俺は完全に落ちこぼれていた。中学時代は帰宅部。運動神経が特段良いわけでもなく、かといって文化的な才能があるわけでもない。そんな俺が弓道部を選んだのは、ただ新入生歓迎会で見た演武の、あの静謐な美しさに目を奪われたからだ。


だが現実は、そんな甘いものじゃない。


「佐々木、肘が上がってる。もっと肩を落とせ」


指導役の二年生の先輩から、何度目かの注意が飛ぶ。汗ばんだ手の中で、弓がやけに重く感じた。言われた通りにしようとすればするほど、身体はぎこちなく強張っていく。同期の連中はもうそれなりに様になっているというのに、俺だけがいつまでも雛鳥のようにおぼつかない。


「……はい」


か細い返事をして、再び弓を構え直す。視線の先、安土(あづち)に並んだ的がやけに遠い。俺の矢は、まだあそこに届くことすら稀だ。大半は的の手前で力なく落ちるか、とんでもない方向に飛んでいってしまう。


才能、という言葉が頭をよぎる。俺には、それがないのだろう。


溜め息を吐きかけた、その時。


再び、高く澄んだ弦音が響いた。寸分の狂いもなく的の中心――星を射抜いたのは、部長の五十嵐海斗先輩。三年生の、この弓道部の絶対的なエースだ。


長い睫毛に縁取られた涼やかな目元。すっと通った鼻筋。引き結ばれた薄い唇。陽光を弾くさらさらの黒髪。少女漫画から抜け出してきた、なんて陳腐な表現が、この人に関しては真実味を帯びてしまう。その上、成績は常に学年トップで、全国大会常連の実力者。神は二物も三物も与えるのだと、その存在が証明していた。


五十嵐先輩が弓を下ろし、ゆっくりとこちらを振り返る。その視線が、一瞬だけ俺を捉えたような気がして、心臓が跳ねた。慌てて目を逸らす。自意識過剰だ。あの人が、俺みたいな無名の新入部員を意識するはずがない。


五十嵐先輩は、俺たち下級生にとっては雲の上の存在だ。口数も少なく、必要最低限のことしか話さない。そのストイックさが、さらに神格化に拍車をかけていた。憧れ、というにはあまりに遠い。畏怖、と呼ぶ方が近いかもしれない。


「……よし、今日の練習はここまで。各自片付けと清掃を」


五十嵐先輩の静かな声が、道場に響き渡る。その一言で、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。皆が一斉に「お疲れ様でした」と声を上げ、片付けに取り掛かる。


俺もほっと息をつき、弓を置いた。今日も一本も的に当てられなかった。焦りと劣等感で、胸の奥がずしりと重い。


「湊、この後カラオケ行かね? 駅前に新しいとこできたんだって」


声をかけてきたのは、同じ一年生の田中だ。人懐っこい笑顔を浮かべる、クラスでも人気者のムードメーカー。落ちこぼれの俺にも分け隔てなく接してくれる、有り難い友人だ。


「ごめん、田中。俺、もうちょっと練習してく」


「えー、真面目かよ。まあ、ほどほどにしとけよな」


じゃあな、と軽く手を振って、田中は他の仲間たちと賑やかに道場を後にしていく。あっという間に静寂が戻ってきた。残っているのは、自主練をする数人の熱心な部員と、そして俺だけ。


本当は、このまま逃げるように帰りたかった。でも、このままじゃダメだという焦りが、俺の足を縫い付けていた。せめて一本、せめて一度だけでもいい。あの、的を射抜く快感を味わってみたい。


誰もいなくなった射位に、もう一度立つ。見様見真似で、さっき見た五十嵐先輩の射形を頭の中で反芻する。


足踏み(あしぶみ)、胴造り(どうづくり)、弓構え(ゆがまえ)……。


一つ一つの動作を確認しながら、ゆっくりと弓を引き絞っていく。ぎりぎりと弦が軋む。腕が、肩が、背中が悲鳴を上げる。五十嵐先輩は、あんなにも滑らかに、軽々と引いていたのに。


「……っ」


息を止め、狙いを定める。だが、照準が定まらない。腕がぷるぷると震え、視界が滲む。ダメだ、このままじゃ。


そう思った瞬間、指先の力が抜けた。


放たれた矢は、しかし弦音を立てることもなく、へなへなと頼りない軌道を描いて、数メートル先の床にことりと落ちた。


「…………はぁ」


深い、深いため息が漏れた。全身から力が抜けて、その場にへたり込みたくなる。情けなくて、悔しくて、涙が出そうだった。


どうして、こんな簡単なことすらできないんだろう。


「――酷い射だ」


背後から、凍てつくような声がした。


びくりと肩が跳ねる。恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、とっくに帰ったと思っていた五十嵐先輩だった。いつからそこに? まさか、今の無様な姿を全部見られていた……?


顔から一気に血の気が引いていく。冷や汗が背中を伝った。


「す、すみません! お先に失礼します!」


パニックになって、弓を放り出すようにして逃げようとした。みっともない姿を見られた恥ずかしさで、もう一秒たりともここにいたくなかった。


「待て」


だが、短い制止の声と同時に、腕を掴まれた。驚いて振り返ると、すぐ目の前に五十嵐先輩の整った顔がある。色素の薄い瞳が、俺を真っ直ぐに見つめていた。心臓が、さっきとは違う意味で早鐘を打ち始める。


「……離してください」

「なぜ残っている」

「それは……」


練習です、と答えようとして、言葉に詰まる。こんなの、練習と呼ぶのもおこがましい。


「お前、いつもそうだ。力みすぎている。弓は力で引くものじゃない」


先輩の指が、俺の腕を掴んだまま、するりと手首の方へ滑る。そして、俺の手を取り、弓の握り方を正すように添えられた。ひんやりとした指先の感触に、身体が強張る。


「手首の力を抜け。もっと柔らかく」

「は、はい……」

「肩を落とせと言われただろう。背中の筋肉を意識しろ。こうだ」


空いている方の手が、俺の背中にそっと触れた。シャツ越しに伝わる、大きな手のひらの熱。びく、と身体が震える。近い。あまりにも、近すぎる。先輩の吐息が、耳にかかるのを感じた。


「……っ」


もう、何も考えられない。頭が真っ白になる。五十嵐先輩の低い声、背中に触れる手の熱、ふわりと香る、石鹸のような清潔な匂い。全ての感覚が、この人に支配されていく。


「いいか、引くんじゃない。開くんだ。左右均等に、身体全体で……」


そう言って、先輩が俺の身体を支えながら、ゆっくりと正しいフォームに導いていく。その時だった。


先輩が何かを説明しようと一歩踏み出した、まさにその瞬間。


「わっ……!?」


短い悲鳴。先輩の足が、床に無造作に置かれていた俺のスポーツバッグに絡まった。完璧だったはずのその身体が、ぐらりと大きく傾ぐ。


「え」


俺が反応するより早く、五十嵐先輩の身体はバランスを失い、派手な音を立てて床に倒れ込んだ。手から離れた矢が、カシャンカシャンと虚しい音を立ててあたりに散らばる。


一瞬の静寂。


何が起きたのか、理解が追いつかなかった。


床に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない先輩。まさか、頭でも打ったんじゃ……!?


「せ、先輩!? だ、大丈夫ですか!?」


慌てて駆け寄って、その肩を揺する。すると、うめき声と共に、ゆっくりと顔が上がった。


そこに現れたのは、俺が今まで一度も見たことのない五十嵐海斗の姿だった。


頬は林檎のように真っ赤に染まり、潤んだ瞳は羞恥と混乱で揺れに揺れている。完璧なはずの髪は乱れ、額には汗が滲んでいた。


「……い、今の、見てたか?」


か細い、裏返った声。


「え、あ、はい……」


俺が正直に頷くと、先輩は「あう……」と呻いて、再び顔を床に突っ伏してしまった。耳まで真っ赤だ。


あの、クールでストイックで、氷の彫刻のようだった五十嵐先輩が。


俺のバッグに足を引っ掛けて、盛大にすっ転んだ。


そして、今、顔を真っ赤にして、子犬のようにプルプル震えている。


「…………」


衝撃的すぎた。あまりのギャップに、言葉を失う。これが、あの五十嵐先輩? 嘘だろ?


しばらくして、おずおずと顔を上げた先輩は、まだ赤い顔のまま、必死の形相で俺に詰め寄ってきた。


「頼む! 今のことは誰にも言わないでくれ!」

「え……」

「俺、昔からこうなんだ! 一つのことに集中すると周りが見えなくなって、よく転んだり、ぶつけたり……! 弓をやってる時だけは、なぜか大丈夫なんだが……!」


必死に弁解するその姿は、もはや威厳の欠片もなかった。ただの、ドジで慌てん坊な、年相応の男の子だ。


「頼む! この通りだ!」


そう言って、あの五十嵐先輩が、俺に向かって深々と頭を下げた。


心臓が、どくん、と大きく鳴った。


それは、憧れの人の意外な一面を見てしまった衝撃か。それとも、秘密を共有してしまったことへの戸惑いか。


「……わ、わかりました。言いません」


俺がそう答えると、先輩はぱっと顔を上げた。その表情は、安堵に満ちていて、少しだけ幼く見えた。


「本当か? 助かる……」


ほっと息をついた先輩は、少し考えてから、何かを決意したように俺を真っ直ぐに見つめ直した。


「……礼、というわけじゃないが」


その真剣な眼差しに、ごくりと喉が鳴る。


「お前が誰にも言わないでいてくれるなら……練習、見てやる。毎日、皆が帰った後で」


「え……?」


「一対一で、だ。だから……頼む。このことは、絶対に秘密にしてくれ」


夕陽が差し込む静かな道場。散らばった矢。そして、目の前で必死に俺に懇願する、真っ赤な顔の先輩。


俺の高校生活は、この日、予想もしなかった方向へと、大きく舵を切ったのだった。

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