翼を折られた天使と鏡に映る君
鴻上ヒロ
翼を折られた天使たち
「鏡とはなんだと思う?」
鏡越しの君が、語りかけてきた。僕と同じようでありながら、僕とは違う格好をして、僕とは違う表情をした君が、柔和な笑みを浮かべている。
僕は、こんな表情しないのにな。
「なんだよ急に」
「いや別に、ただ君はいつも他人事だと思ってね」
「他人事もなにも……他人みたいなもんだろ」
「ふっ、そうかもしれない」
どこかの誰かが発明したらしい現し世の鏡。僕の部屋の中で、唯一と言っていい高級品だ。この鏡は別世界を映すらしく、人によっては異世界の風景を見たり異世界の想い人を見たりするらしいけど、僕の鏡に映るのは常に君だ。
ジョークグッズにしては高級で、酔っ払った勢いで面白がって買ってしまったけれど、鏡の中の僕を名乗る誰かは、ずっと小難しいことばかり喋ってくる。
これが本当に異世界の自分だと信じているわけではないけれど、なんだか不思議な気分だ。自分と似た顔をした別人が、自分よりも頭が良さそうに振る舞っているのを見るのは。
それに、この人はいつも自由で楽しそうに見える。
ここにあるのは、四方を囲む白い壁と、適当に用意されたノートパソコン。冷蔵庫には数日分の食材が入れられていて、キッチンはあるけれど、そこにあるのは最低限の調理器具と食器だけ。
なぜか冷蔵庫に入れられた酒以外の嗜好品など一つもないこの部屋に、ただ鏡が存在している。なぜ許されたのか、なぜ届いたのか、何もわからないが。
思わず、ため息が出てしまった。
「君は退屈かい?」
「どうだろうね、やることがないからさ」
「僕とこうして喋っているじゃないか」
「やることがないからね」
「酒もあり、話し相手もいて、ネットもできる。好きな仕事も飽きるまでできる。十分だろう?」
鏡の中の僕を名乗る誰かが、相変わらず柔和な笑みを浮かべながら、だが淡々とした声色で言った。
ため息を吐いてノートパソコンに向き合う僕の前には、文字列が表示されている。最早自分でも何を書いているのかわからず、文章というよりただの奇天烈な文字列に見えてしまったが、小説というものだ。
この世界における物語というのは、何者かの栄養になるらしく、作家や研究者などの創造性を持った人間も最早貴重らしい。
ただ、好き勝手に自己満足で、ただ書いていれば満足だったのにな。
思い出すのは、昔のことだ。
あそこにいたときは、誰もが笑顔だった。
「おいお前の書いたこれ! 最高だな!」
「イジュン、君に褒められると変な心地がするね。君はいつも小難しい話ばかり書いてるじゃないか」
「いやでも本当に面白いよ~特にこのギャグシーンなんて超最高!」
「まさかポルノばかり書いているイレーネまで褒めてくれるなんて。濡れ場一つもないよ?」
「ちょっと、あんた私のことなんだと思ってるのよ!」
あはは、と顔を合わせながら笑い合う。出身も経歴も関係なく、ただ同じ創作趣味の人間同士でのこの集まりが、僕にはとても居心地が良かった。
小難しいレトリックと小粋なジョークで煙に巻きながら、中身は本格派ミステリを書くことが多いイジュン。ポルノ小説ばかり書いているが、ただ性的な描写が刺激的なだけじゃなく、必ず泣きポイントを作ってくる意外と技巧派のイレーネ。
僕と彼女は、内緒で付き合っていたけれど、彼女の書評は僕に対していつも辛口だったから、このときは本当に驚いたんだった。
そして……。
「うん、相変わらずうまくはないけど、叙情的でいいね。乱雑で、不格好で、だけど情熱的で、人間にしか書けない話だ」
褒めているのか貶しているのかわからないことばかり言ってくるソウタ。彼はいつも書評家のように、僕らの話を読んで色々と言ってくれた。
本人も書いていたけれど、いつも恥ずかしがって、この書評会に出すのは決まって最後だった。彼の書く物語は基本的には残酷で、だけどどこか童話のような雰囲気もあって、僕は好きだった。
この日、書評会の後に彼は僕だけを捕まえて、一瞬寂しそうな顔をしてから、意を決したようにこう言ったっけ。
「知ってるかい? 翼を折られた天使はただ墜落するんじゃないんだよ」
「また童話か?」
「そう、僕のオリジナル童話。翼を折られた天使はね、天界で孤独に苦しみ戦い、だけど好きなことだけをして生きながらとことん悩みに悩んだ末、自ら地上に堕ちるのさ」
「どうして?」
「天界で好きなことだけをして生きていた翼を折られた天使には、地上のほうが自由に見えたんじゃないかい?」
それを聞いて、僕は悲しい気持ちになった。地上も地上で、別に自由とは言い難いからだ。
それから数日後、アマチュアの創作活動が認められなくなって、それからまたしばらくして集まりは解散。イレーネはポルノを書いていたこともあって管制局から逃げて、どこに行ったかわからない。
他の二人も、今となってはどうしているのか……。
僕だけ、僕だけが認可を受けたプロ作家になってしまった。別に、認可を得ようとして動いたわけでもないにも関わらず。
ノートパソコンを睨みつけながら在りし日を思い返すと、無性に酒が飲みたくなってきた。
冷蔵庫を開けてみると、ちょうど3本のビールが入れられている。この食材もビールも、全て、一体誰がいつの間に補充しているのだろうか。
「また酒かい?」
「そうだよ、悪い?」
「創作に支障があるんじゃないかい?」
「酔わなきゃ書いてられないんだ。酔って現実から自分の意識を切り離さないと、物語なんて書けやしない」
「君も十分、小難しい人間だと思うね」
彼の言葉を聞きながらビールを煽り、眼の前の原稿に向かう。書いていたのは、そうか、童話か。翼を折られ粉々に砕け散った男が、再び翼を手にして舞い上がり、夜空に瞬く星の一つになる物語。
最初の砕け散った男の哀れな独白はすんなりと書けたのに、再び翼を手にするまでの展開が思い浮かばなくて、止まっていたんだった。
「君は過去に戻りたいのかい?」
突然、彼がぐさりと刺すようなことを言ってきた。これまでこんなことはなかったから、驚きに振り返ってしまうと、彼の表情が微笑みではなくなっていることに気がついた。
気がついてしまった。
彼が今、眉根を下げて今にも泣き出しそうな顔をしていることに。
「昔は楽しかっただろう? ただ好きに書いて、ただ仲間内で読みあって感想を言い合って、それで満足していた」
「僕はそれで満足だったよ」
「だが、満足できない者もいたはずだ。気が付かなかったかい? 綻びに」
言われて、心の奥底に仕舞い込んでいた記憶が引っ張り出されてしまった。僕の許可を得ることもなく、ただ理不尽に。
創作活動が認可制になっても、しばらくは大丈夫だった。もともと、故郷から逃げてきた者達の集まりだ。市民証もないようなゴロツキの集まりで、ただひっそりと暮らし、こっそりと物語を紡いでいたから。
だけど、ある日突然、管制局の人間がぞろぞろと口笛を吹きながらやってきた。脳に楔を打ち込まれ、翼を鎖で雁字搦めにされたような者共が、ズカズカと僕らの領域に踏み込み、皆をバラバラにし、僕だけがここへと連れてこられた。
あのとき、確か一人、とても悲しそうな顔をしていたっけ。
他のみんなは叫びながら、僕に手を伸ばしていたのに。イレーネなんか、自分が逃げることを後回しにして、僕を助けようとしてくれていたのに。
「ソウタが、連れて行かれる僕を見て、ただ一人、手を伸ばすこともなく泣きそうな顔をしてたっけ。ちょうど今の君みたいに」
「そうだね、彼は満足できなかったのさ。あの場で彼だけ、ただ彼一人がプロ作家を目指していたんだよ」
なぜ、この人はそんなことを知っているのだろうか。本当に異世界の自分だとでも言うのだろうか。自由な翼を広げて、好きな研究に熱中しているように見えるこの人が。
僕からコンタクトを取ろうとするときに限っていなくて、「ごめんごめんフィールドワークで遊んでいたよ」と言っていたこの人が、僕のわけがない。
「知ってるかい? 鏡は本来自分を映すものなんだ」
「バカにしているのか?」
「君はなぜ、ここから出ないんだい?」
「出られないだろ」
「本当にそうかい? 扉を開けようと試みたことはないんじゃないかい? 自由を望みながらも君は怖がって、ここにいて、誰かの望む通りに物語を書くだけじゃないか」
何も、言い返せない。
四角いこの箱の中で、ただCPUのコアのように作業をして、生きるだけ。CPUに搭載されたAI処理のような人生を送るのに、いつしか慣れてしまっていた。
いや、最初は、望んでいた気がする。
だってもう、生きる希望も意味も見いだせなかったから。
「君の書く物語は、いつからか人間味を失ったよ」
「……」
「そうだ、そこのパソコンの鍵付きフォルダに一つテキストファイルがあるだろう? そのパスワードを教えてあげるよ」
「どうしてそんなこと――」
一文字ずつ教えてくれたパスワードを、言われるがままに打ち込んでみた。
W I T H B R O K E N W I N G S
With Broken Wings……主語がないじゃないか。思わず笑ってしまうそのパスワードのセンスには、覚えがあった。
パスワードを打ち込むと、本当に一つだけテキストファイルがあった。中に入っていたのは、物語だ。
翼が折れた天使が、地上を目指す物語。いつしか、ソウタが語っていた童話だった。
天使は、禁忌を犯した。散りゆく運命だった命を一つ、助けてしまったのだ。助けた彼と天使は地上で恋に落ちていて、天使は私情で人の運命を自分の都合のいいように捻じ曲げた。
神様は罰として彼を殺し、魂を地獄に落としてしまう。すると天使の翼が粉々に砕け散った。神は天使にも罰を与えた。天界に閉じ込めて、ワインと少しの食糧を与えて、延々と天使の好きな音楽だけを奏で続けるという罰だ。
彼女の音楽は、3年間、天界に鳴り響き続けた。
だけど天使はある日、声を聞く。地獄に堕ちたはずの彼の声だ。彼女はワインを飲み食事をするのを2日だけ我慢しろと言われて、その通りにした。
すると、天界のどこかの隔離部屋だと思っていた場所は、実際には自室だったのだ。
幻から覚めた彼女は、地上を眺めた。そこに暮らす人々は、どこか自由に見えた。自分の考えで歩き、自分の考えで物を言い、自分の意志で道を選択する。
彼女は意を決して、天界から身を投げた。もう二度と、そこには戻れないと知りながら。
物語は、そこで終わりだ。
そんな物語の最後、こう記されていた。
――君が、この物語に結末を付けてくれないかい? 僕の遺作は、君と僕との合作がいいんだ。
その言葉を見て、涙が溢れてきた。胸中から言葉にならない想いの言霊が溢れ、僕の指先を勝手に動かしていた。
そうか、ソウタは……。
僕は……。
ふと鏡を見ると、鏡の中の僕を名乗る彼が、今にも泣きそうな顔で手を伸ばしていた。あのとき見た、あの顔とそっくりだった。
「書けたみたいだね」
言われて指先を見つめると、確かに指は止まっている。眼の前のテキストを見ても、確かに物語は完結していた。
「良かった、これで彼の行動も無駄じゃなかったんだろう」
「君は……」
「鏡は本来、自分を映すものだよ。僕が自由に見えると、出会ったとき言ってくれたね?」
「う、うん」
「だったら、わかるだろう? 君も、元から自由なんだ。いつでも飛び立てる」
鏡の中の君は、ただ微笑んでいる。今にも涙を流しそうな顔をしているのに、目は乾いていた。
僕は書き上げたテキストファイルを、いつも通り僕を連れ去った何者かに送信して、立ち上がる。
「ソウタはね、許せなかったんだ。君の物語が、自分の物語がただ仲間内だけで消費されることが」
床に置いたままにしてしまっていた空き缶を蹴ってしまい、カランと音を立てて転がった。
「だけど同時に、居心地がいいとも感じていたんだ。彼は君とよく似ているよ」
鏡の前に立ち、改めて君と対面する。
「言っただろう? 鏡は自分を映すものだって。だけどこの鏡は」
「異世界を映すものじゃなく、ただ、別の場所からの中継映像を映しているだけなんだろう?」
「そうだよ。だけど君と僕は似た者同士だ。君も本当は、心の何処かで、願っていたんじゃないかい?」
言われてみれば、確かにそうだったかもしれない。ここに連れて来られても、最初は自分の書く物語が多くの人に届いて、誰かが楽しんでくれることに喜びを感じていたかもしれない。
だって、その頃はまだ、無意味な文字列には見えなかったから。
「だけど、君が見たかったのは生の反応だった」
「僕はただ、自分の物語で誰かが笑ったり泣いたりしてるのが好きだったんだ」
「君を捕まえた彼らは貴重な物語を逃したくなくて、だけど彼は君に自由でいて欲しかったんだ」
「……あの童話と同じか」
思わず、笑みがこぼれた。
ああ、久しぶりだな。忘れていたよ。涙を流しながら笑うと、口端から涙が口の中に入ってきて、しょっぱいんだった。
「僕は確かに君じゃないけれど、僕が自由に見えた君は、最初から翼を持っていたんだよ」
「一度折れた翼でも、また羽ばたけると思う?」
「もちろん、だって今は折れてないじゃないか」
ぷっと吹き出してしまった。
ああ、そういうところも、そっくりだ。
デスクの前の椅子にかけておいた上着を手に取り、久しぶりに羽織る。これまでは、必要なかったから。
「飛び立つんだ、もう一度」
「ああ、もう物語は書かないと思うけど、見に行くよ。これまでここで書いた物語を楽しむ人々の顔を」
ここを出れば、もう二度と、物語は書けないだろう。実際、僕はもうこれ以上、書ける気がしないし、書ききってしまったようにも思うから。
ここに来て、何十もの物語を書いてしまった。もう、何も出ないさ。最後に書こうとしていたのだって、ソウタの童話のアレンジだったから。
あの合作で、最後だ。
「さようなら、異世界の僕を名乗る誰かさん」
「ああさようならだ、僕達の最高の作家さん」
僕は玄関に向けて、歩いた。思えばどうして、一度も開けようとしたことがなかったのか。笑えてしまう。あの鏡だって、きっと、彼が用意したものだろうに。
ソウタはもうこの世界にはいないんだろうけど、そうだな、人々の顔を見ながら、かつての仲間でも探しに行くか。
扉に手をかけると、すんなりと開いた。
白く長い廊下が続いている。
僕は、思わず小走りになっていた。
外に出ると、そこは相変わらず汚い空と地面が広がっている見知った街の中で、夜の街を歩くときに感じていた顔を突き刺すような寒さがあって、笑みがこぼれてしまった。
「さて、彼らはどうしてるかな」
なんとなく、さっき書いたばかりの物語の結末を思い出して、自然と足が動いた。
◇◇◇◇◇◇
翼を折られた天使は地上に降り立ち、空を見上げました。自分が来た空は、とても澄んでいて、遠くに感じてしまいました。地上の誰よりも空を知っている天使なのに、不思議なことに、知らない空がそこにあったのです。
彼女はただ、歩き出しました。
彼はもう居ないけれど、この世界にきっといる、これから仲間になれる誰かを探しに。
翼を折られた天使は、一人ではありません。だってこの世界には、彼女の知らない、彼女のことを知らない人達が、大勢いるではありませんか。
翼を折られた天使は、かつて想い人と一緒に訪れた丘の上に吸い寄せられるように辿り着きました。
そこにいたのは、彼と瓜二つの男の子。驚きのあまり固まってしまった天使に、彼は歩み寄ります。
「地獄から抜け出してきちゃったよ」
「え……?」
「実を言うとね、地獄の追っ手から逃げてたんだ。最近は全然追っ手も来てなくてさ、もしよかったら一緒に暮らさない?」
天使は、思わず吹き出してしまいました。
そして、彼の手を握り、力強く頷きました。
「うん、もちろん」
唐突に感じるかもしれません。都合よく感じるかもしれません。
ですが、物語はいつだって、優しくハッピーエンドでありたいのです。
そして、願わくば――。
◇◇◇◇◇◇
いつの日か、みんなと過ごした隠れ家は、あの日のまま在った。あの日、管制局の人に荒らされたまま、傷だらけの外壁に、建付けの悪くなってしまった扉。
その見るからに軽そうな扉を開けるとギィギィ音がして、だけど音の割にはやっぱり軽く、すんなりと開いた。
目が合った。
いつもみんなで物語を広げて読み合っていたテーブルで、イレーネが、パンを一つ齧りながら僕を見ている。
こうだったらいいなと思って書いた、物語の結末通りに。
「本当にいるなんて思わなかったよ」
彼女はパンを慌てて飲み込んで、喉に引っかかったのか慌てて水を飲み、トントンと胸を拳で叩いている。
「なんで!? 連れてかれたんじゃないの!?」
「もう書けなくなったからね、抜け出してきたんだ。君はもう逃げなくていいの?」
「今月から追っ手がいなくなったんだよね~なんでだろ?」
首をちょこんと傾げながら首の裏を掻く彼女を見て、僕は扉を閉めた。そしていつも座っていた彼女の隣に腰をかけ、ふうと息を吐く。
きっと、彼が手を回したのだろう。
自己矛盾の末に死んでいった彼の意志を継いだ彼は、これで満足しているだろうか。そんなことを思いながら、僕は彼女のパンを一口大にちぎって、口の中に放り込んだ。
「あ! ちょっと~、人のパンでしょ~」
いつもの調子で笑いながらも、薄っすらと涙を流す彼女の顔を見ながら、パンをごくりと飲み込む。
「また一緒に暮らさない?」
「何言ってんの、当たり前でしょ~夢の印税生活しようよ」
「あはは、そうだね」
僕はもう物語は書けないけれど、これからも僕が書いたさまざまな物語を誰かが買って、読んでくれることだろう。脳に楔を打たれた者達が支配するこの世界で、物語は貴重なんだ。
僕は上着に入っていた端末を開いて、ウォレットアプリを見てみた。
その金額を見て、二人で笑い合う。
「あいつも探しに行くか」
「もちろん、また三人で集まろうよ」
僕らはまた、どこへでも飛んでいける。以前のようにとはいかないだろうけど、それでいいじゃないか。世界は絶えず移ろう。僕たちもまた、移ろうのだ。
翼を折られた天使のように。
翼を折られた天使と鏡に映る君 鴻上ヒロ @asamesikaijumedamayaki
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