(2)アヤメとハナショウブ
あれからひと月が過ぎた。
この屋敷を訪れるたび、ショウタは、ピリッと背筋が伸びる気がする。
あのお嬢様が、格子窓から手を振るんじゃないか。
パタパタと駆け寄ってくるんじゃないだろうか。
そんなことを期待してしまっている己に気づいて、愕然とする。
(オレは一体、何を考えているんだ?)
梅雨明けを間近に控えた庭。
庭のタチアオイは、その茎のてっぺん近くまで花を咲かせている。
花びらの鮮やかな桃色や白色は、お嬢様の着物を思い出させる。
落ちんばかりに開き切った花は、こぼれんばかりの彼女の笑顔のようだ。
(またじゃないか……。オレはどうしちまったんだ?)
振り払っても振り払っても。
己の頭がお嬢様のことを考えるのをやめてくれない。
己から彼女の影を追い出そうとするかのように大きく、頭を振った。
それからショウタは、手ぬぐいを頭にきつく締め直して、庭木へと向かう。
「池のほとりに咲いているのは、なんの花かしら?」
(蒸し暑さってやつは、幻聴まで聞かせてきやがる)
昨夜までの雨をたっぷりと含んだ土と濡れた草に囲まれた裏庭。
作業に没頭していると、たまに頭がくらくらして酔っ払ったようになる。
(こいつは、マズイ)
一旦、作業をやめようと道具を置いて、立ち上がる。
軽い目眩を覚えて、額に手をやったまま、それが治るのを目を閉じて待つ。
「あなた、大丈夫?」
「ええ、ええ。大丈夫ですよ、体はね」
「それじゃあ、どこが大丈夫じゃないの?」
「そりゃあ、頭でしょうよ。変な声が聞こえるくらいには」
「そうなの? 暑い日は、やっぱり帽子をかぶらなきゃダメね」
「ははは。そんなハイカラなもんは、持っちゃいないんでね」
幻聴と喋ってしまっている己に呆れて、ため息とともに目を開ける。
目の前には、タチアオイが、いや、お嬢様が立っていた。
「具合が良くないの?」
「いえ……、大丈夫ですよ……」
「あら、さっきみたいに話してくださればいいのに」
「失礼しました。いらっしゃるとは思ってませんで」
「ふふふ。面白いかたね。じゃあ、どなたと話していたの?」
「いや……、ひとりごとみたいなもんで」
「そう。そうだわ! 池のほとりのお花!」
「ああ。はい」
「もう枯れちゃったわね。あれは、アヤメじゃないの?」
「ええ。よく似ちゃいますが、違います」
「それじゃあ、なんのお花かしら?」
「あっちは、ショウブ。ハナショウブですね」
「そうなのね。なにが違うの?」
「まぁ、水辺に咲くのがハナショウブ。陸に咲くのがアヤメ」
「知らなかったわ!」
「花びらの付け根に黄色が見えるのがハナショウブ」
「アヤメは?」
「付け根に網目模様が見えます。アヤメって言葉もそっからで」
「よく知っているのね」
「花のことだけですよ」
「賢くなったわ! ありがとう」
「お礼なんぞは……」
「あら! 人にはお礼をするわ」
「そう……ですか」
「ええ! また、お花のこと、教えてくださいな」
ショウタの返事を待つことなく、お嬢様は屋敷へと駆け戻っていく。
軽やかな洋装もよく似合う。
白いブラウスにふんわりとした空色のスカート。
靴で駆ける飛び石は、ポンポンと弾んでいるようにさえ見える。
腰に手を当てて、背中を伸ばしながらショウタは空を見上げる。
(これから空を見るたびに、思い出しちまいそうだな)
はぁ〜っと、大きなため息をついたショウタは、再び仕事へと戻るのだった。
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