親愛なるホームズへ。
愚図。
名推理。
桜の木が青葉をつける季節にも関わらず、繁華街の路地裏は、まるで曇天のように薄暗かった。その薄暗い路地の中に渦巻く獣の呼吸がひとつ。そして、それに被さるようにして息を潜める呼吸は、レム睡眠のそれであった。
「まぁ、どうやって見つけたんだみたいな顔してますねぇ。こういうのを、鳩が豆鉄砲食らった顔と言うんでしょうね。」
探偵を殺すか。ここから逃げるか。その場しのぎの思考をまるで踏みにじるみたいに、探偵の声が横入りしてきた。
「だんまりですか?」
探偵の手が、俺の肩を這い、凶器を構える手に伸びる。
「ほら、気にせずおやりになればいいじゃありませんか。いつもみたいに。」
世からしたら、萌えるシチュエーションであろうが、鼠となった俺からは、ただ死を告げる死神の口説きに聞こえた。
「バレなきゃ犯罪じゃない。なんて都合の良いことありませんよ。」
うるさい。
はぁ。はぁ。はぁ。はぁ。
俺の荒い息とは真反対に、探偵の呼吸は、まるでノンレム睡眠の真っ只中のように静まり返っていた。
予定にない殺人を犯すことは、連続殺人よりもはるかに酷く、罪深く思えた。俺の手に握りしめたまま微動だにしない凶器は、深々と、彼の脇腹に突き刺さっている。
人とは、脇腹を刺されても、アニメのように吐血はしないらしい。
口を開かないでくれ。黙れ。やめてくれ。黙れ黙れ黙れ。
「悪とは、いつかばれるのですから。」
凶器から手が離れ、その場に座り込んだ。
事実から目を逸らしたくて、全てを見ないようにしたいのに、俺の影で黒く染ったコンクリートに、彼の赤が入り込んでくる。
それは、膝を着いた俺のズボンにシミを作り、腿を這い上がった。
カラン。と、かわいた音が鼓膜を蹂躙した。赤に溺れ、白昼を反射させる光が、俺の瞳を焼き尽くした。
「ねぇ、ジョォカァさん?」
あぁ、ごめんなさい。
┅┅┅┅┅┅┅┅┅┅┅
どうやらハイは終わってしまったようだ。
件の犯人は、力尽きたらしい。その場に座り込んでいる。
脇腹刺してるくせに君が放心しているのはお門違いじゃないのかな。
一式で、高スペックPCが買えるくらいには高級なスーツが、じわじわと赤に侵食されていく。
ミルクティー色のグレンチェックが、だんだんと醜く変色していく。洗濯で落ちるのだろうか血は。
こんな時でも、路地裏の汚い壁は触りたくはなくて、背を向けてずるずると座り込んだ。
押さえつけていた手をほんの少しだけ浮かせ、そちらを覗く。
その手は、まるで油絵具に手を突っ込んだかのように、真っ赤であった。
傷口というのを見てしまえば、怪我という事実をまざまざと受け止めてしまった。
犯人の背の向こうに、よく見る空色と紺色の人影が見えた。
どうなら優秀な助手が警察を呼んでくれていたらしい。
我ながら良い子だ。
わんわんを引き連れ、こにらに歩いてくる。
警察の方々には、助手の彼がうまく説明をしてくれていたらしい。
まだ固いローファーをカタカタ言わせて、僕の前に座り込んだ。柄に似合わず子供らしい顔が酷く歪んでいた。まるで最愛の人の死をまじかにしたかのように、眉を歪めていた。
どうしたのかと問おうと口を開けても、出てくるのは僕の荒い息だけであった。
「先生、お見事です。」
「いやぁ、猫の手も借りたいね。というわけで。」
パトカーの方に顔を向けていた彼の目線がこちらを見る。
「救急車呼んでくれるかい…多分僕死ぬ。」
はぁっ?!?
血が足りない鼓膜に、その罵声はよく響いた。
君の声で犯人の鼓膜を破ってやればよかったのに。いやそれはやめよう。彼が刺されたらたまったもんじゃない。
こぼれ落ちそうな程に大きな瞳をさらに潤ませて、パトカーに待機している警察達にかけ出す。
彼が状況説明をしている背中を見つめていると、脇腹が、ふつふつと湧き上がるような感覚に襲われた。
熱い。熱い。熱い。
だが、その熱は次第に鋭痛と変わっていった。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。
あぁ痛い。無理だ死んでしまう。
目の前がちかちかと点滅する。
死の淵に追いやられた僕は、きっとかつてないほどに絶頂に押し付けられているのだろう。
救急車の声すらもかき消すような耳鳴りが轟いた後、僕は溢れる血と共に思考を押し流して行った。
┅┅┅┅┅┅┅┅┅
クリーニングに出していたスーツを取りに、事務所を出た。助手に車を使わないのかと問われたが、曖昧に濁し、彼の歩幅に合わせて歩いた。退院したといえど、運動は控えるようにの姑のように告げる彼の心境は、一体どんなのだろうか。僕には、到底わかりっこないだろう。
久しぶりに袖を通した僕の相棒の着心地は、やはり良いものであった。手の甲が隠れるほどの袖丈。靴に被るくらいの裾。そして何より、肩パットがギチギチに詰まったこの動きにくさこそが、僕の愛するスーツの姿であった。
パン屋で僕のフランスパンと、助手のチョココロネを2つ買い、帰路に着いた時。
パンの紙袋が軽く思える。普段よりもはるかに軽いそれのgはどのくらいなのかと、思考をそちらに向けていると、助手が僕のコートを引いた。
彼の指さす方向に顔を向ければ、それは、先日僕が突き止めた連続殺人鬼の裁判が終わり、パトカーに乗り込むところであった。
そのまわりに、やれレポーターやらやれカメラやらがわんさかと群がっている。
まるで、街灯に集まる蝿のように。
いや、ようにではないか。自社にとって有益なものに飛びつく。彼らは、蝿ではないか。
法律を破った態度で、あれほど見ず知らずのレンズやらマイクやらに囲まれる彼の心境とは如何なものか。
彼の動機も踏みにじり、ただ格好の餌として貪る。それは愛か。哀か。
「真実とは、残酷なものだね。なぁワトソンくん。」
「僕はナイトウ タケルです。」
「…そんなんだから君は見習いのままなんだよ。」
訳の分からないというような顔をする相棒に目を細め、裁判所に背を向けた。
家に帰ったら、助手に紅茶を入れてもらおう。アフターヌーンティーモドキを楽しもうではないか。
親愛なるホームズへ。 愚図。 @nihilism_0605
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