週末、パパはダンジョンに潜る〜家族に内緒で健康のために始めたら、Sランク探索者になっていた案件~

いぬがみとうま

第1章:メタボなおっさんの週末DIY革命

Ep.1:健康診断と洗濯物(日常の絶望)

 二条にじょう賢志郎けんしろう、四十二歳。彼の人生は、日本の大多数を占める中年サラリーマンのそれと、寸分違わぬものだった。


 朝はぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に揺られ、日中はパソコンの画面と睨めっこ。上司の機嫌をうかがい、部下の愚痴を聞き流し、取引先には頭を下げる。夜は安売りの発泡酒でささやかな晩酌。そんな一般的なおっさんを版画で刷ったような毎日が、もう二十年近く続いている。


 若い頃は、それなりに夢もあった。結婚して、娘が生まれて、三十五年ローンで家を買って。いつしか夢は現実という名の分厚い地層の下に埋もれてしまい、今では掘り起こす気力すら湧いてこない。


 最近の悩みは、三つ。

 一つは、階段を上るだけで切れる息。

 二つ目は、スーツのズボンに重くのしかかる、ぽっこりとせり出した腹。

 そして三つ目は、高校生になった一人娘・りんとの、絶妙に気まずい距離感だ。


「あなた、また溜息ついて。幸せが逃げるわよ」


 食卓で向かいに座る妻・友里ゆりが、味噌汁をすすりながら言った。彼女とは大学時代からの付き合いで、賢志郎のことは何でもお見通しだ。


「いや、ちょっとな……」

「どうせ、凛のことでしょ。あの子も年頃なのよ。それに、人のことより自分の心配したら? そのお腹、本当にすごいことになってるわよ」


 友里の視線が、容赦なく賢志郎の腹部に突き刺さる。否定できない事実だった。ベルトの上に乗った肉は、もはや威厳ではなく、ただのだらしなさの象徴だ。



          ◇



 病院の待合室というのは、どうしてこうも人を不安にさせる匂いがするのだろうか。

 鼻を突く消毒液と、古びた雑誌のインク、そして他人の吐き出す憂鬱な溜息。それらが混じり合った独特の淀んだ空気は、四十二年間生きてきても未だに慣れることがない。

 無機質な長椅子に腰掛けながら、俺は手元の封筒を忌々しげに見下ろした。

 封筒の隅に押された赤字のスタンプ。『要再検査』。

 会社で突き返された稟議書に押された『否認』の烙印のようだ。俺という人間の品質管理に、不合格の刻印を押された気分になる。


「二条さん、二条賢志郎さん。診察室へお入りください」


 看護師の事務的な声に、重い腰を上げる。

 立ち上がる瞬間、腹の肉がベルトの上に重くのしかかり、重力という物理法則を嫌というほど主張してくる。


 かつて大学時代、ラグビーサークルで走り回っていた頃の軽やかな肉体は、度重なる残業と接待、そしてストレスによる暴飲暴食という名の経年劣化によって、見る影もなく変貌していた。

 膝がきしむ。この音は、俺の人生がきしむ音だ。



「二条さん、単刀直入に言いますね」


 医師は、パソコンの画面から視線を外さずに言った。


「このままだと、死にますよ」


 あまりに淡々とした宣告に、俺は「はあ」と間の抜けた声を漏らすことしかできなかった。

 死ぬ。その言葉の響きは重いが、今の俺にはどこか他人事のように聞こえた。毎日が同じことの繰り返しで、生きている実感自体が希薄だからかもしれない。


内臓脂肪ないぞうしぼう皮下脂肪ひかしぼうともに危険水準です。血圧、血糖値、尿酸値……どれもこれも、悪い数値ですね。特にこのお腹」


 医師が指し棒で指したのは、レントゲン写真に写る見事な太鼓腹だった。白い脂肪の影が、内臓を圧迫しているのが素人目にも分かる。俺の内臓たちは、この脂肪の牢獄の中で悲鳴を上げているわけだ。


「痩せてください。これは提案ではなく、業務命令だと思ってください。さもなくば、数年以内に脳か心臓が悲鳴を上げます」


「……運動、ですか」


「食事制限と運動です。一番いいのは、専門のトレーナーについてもらって、ジムに通うことですね。徹底的な管理が必要です」


 ジム。その単語を聞いた瞬間、俺の脳内電卓が高速で弾き出す。

 入会金、月会費、ウェア代、シューズ代……。

 俺の小遣いは月三万円だ。ここから昼食代も出している。残るのは微々たる小銭だけだ。


 昨今の物価高騰の波は、しがない中間管理職の懐を直撃している。ワンコインランチすら絶滅危惧種となりつつある今、ジムに通う余裕など、我が社の設備投資予算並みに存在しない。

 いや、金だけの問題じゃない。俺自身が、自分という人間に数万円の投資をする価値を見出せないのだ。この下り坂の人生に、今さら金をかけたところで何になる?


「……なるべく、歩くようにします」


 精一杯の対案を出したが、医師は鼻で笑った。


「散歩程度でどうにかなる段階は過ぎていますよ。まあ、命と小銭、どちらが大事かという話ですがね」


 医師の言葉は正論だ。ぐうの音も出ない。

 診察室を出た俺の背中は、来る時よりも三割増しで丸まっていたと思う。

 廊下の窓ガラスに映る自分を見る。

 だらしなく突き出た腹、安物のスーツ。そこには、どこにでもいる、誰からも必要とされていないような、典型的な「くたびれたおっさん」が立っていた。


 八十八キロ。体脂肪率三十二パーセント。

 それが、四十二年間生きてきた俺の、現在のスペックだった。

 俺はガラスに映る自分と目が合うのが嫌で、すぐに視線を逸らした。



          ◇



 重い足取りで帰宅したのは、夜の七時を回った頃だった。

 築十五年、三十五年ローンの我が家。まだローンは半分以上残っている。俺が死んだら保険金が下りて借金は消えるが、今の俺は借金を返すためだけに生きている装置のようなものだ。


 玄関のドアを開けると、微かに柔軟剤の香りがした。


「ただいま」


 靴を脱ぎながら声をかけるが、返事はない。

 リビングのドアを開けると、テレビの音だけが聞こえてくる。友里はキッチンで洗い物をしており、水の音で俺の声がかき消された……ということにしておこう。そう思わないと、俺の精神が持たない。


「ご飯、チンしてね」


 友里が背中越しに言った。その声色に悪意はないが、温かみもない。必要最低限のコミュニケーション。


 俺は「ああ」と短く答え、ネクタイを緩める。首元が苦しい。このネクタイは、俺を社会に繋ぎ止める鎖なのか、それとも首を絞めるロープなのか。

 ソファには、凛が座っていた。かつては「パパと結婚する」と言って俺の膝の上を独占していた天使は、今やスマホという名の聖域に没頭している。


「ただいま、凛」


 努めて明るく声をかける。父親としての威厳なんてものはとうに捨てた。媚びを含んだ情けない声だと自分でも思う。

 凛はスマホの画面から一瞬だけ目を離し、俺を一瞥した。


 その視線。


 ゴミを見るような目、ではない。

 もっと根源的な、生理的な拒絶反応。まるで這い回る害虫を見つけた時のような、反射的な嫌悪。

 彼女は無言で鼻を少し動かし、あからさまに眉をひそめた。


「……パパ」

「ん、なんだ?」

「言ったよね?私の体操着とかタオルとか、パパの洗濯物と一緒に洗わないでって」


 心臓に、冷たい杭を打ち込まれたような衝撃が走った。


 その話か。

 先日、俺がうっかり自分のシャツと彼女の部活のTシャツを一緒に洗濯カゴに入れてしまった件だ。あれ以来、我が家には厳重な境界線が引かれている。


「あ、ああ。ごめん。気をつけてるつもりなんだが」

「気をつけてるじゃなくて、徹底してよ。菌が移るから」


 菌。

 実の父親に向かって、菌。


 反論しようとしたが、言葉が喉に詰まる。

 怒りよりも先に、深い悲しみが押し寄せてくる。俺は菌なのか。毎日満員電車に揺られ、上司に頭を下げて稼いできた結果が、これなのか。


 汗ばんだシャツ、加齢臭の予兆、そしてこのメタボ腹。彼女の目には、俺という存在自体が不衛生な「汚染源」として映っているのだろう。清潔な彼女の世界に、俺という異物が入り込むことが許せないのだ。


「……悪かった。次からは別々にするよ」

「次はないよ。今度やったら、パパの服全部捨てるから」


 凛はそれだけ言うと、再びスマホの世界へと没入していった。画面にはキラキラしたイケメンアイドルの動画が映っているのが見えた。あの中には、腹の出た中年なんて存在しないのだろう。


 俺は逃げるように洗面所へ向かい、自分の服を脱ぐ。

 洗濯カゴは二つ並んでいる。白いカゴは家族用。黒いカゴは、俺専用。

 まるで、危険廃棄物の分別ボックスだ。


 黒いカゴにシャツを放り込む時、俺は自分の情けなさに泣きそうになった。会社では窓際族として若手社員に疎まれ、家庭では粗大ゴミとして娘に嫌われる。

 俺の居場所は、どこにあるんだ?

 鏡に映る自分を見る。白髪混じりの髪、たるんだ頬、そして妊婦のように膨らんだ腹。


 これが、一生懸命働いてきた男の成れの果てかよ。

 鏡の中の男は、疲れ切った目で俺を見返していた。お前なんかに生きる価値があるのか、と問われている気がした。


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