構造的類縁性の底でおやすみ

神流みもね

プロローグ

『論理とは、真実を浮かび上がらせるための道具ではない。

 ときにそれは、真実の輪郭を塗りつぶすために使われる』

(新城聡士のメモより)





 かすかな埃の匂いが漂う地下書庫には、明かりのひとつも点いていなかった。

 それでも、その空間にはどこか人の温もりが残されていた。まるで、ほんの一瞬前まで、誰かがそこにいたかのように。


 建物の最下層、既に登録記録すら抹消された旧閲覧室。部屋の大部分は書庫だが、その片隅には机と椅子が置かれ、隠れ家的な書斎として使用されていた。

 新城しんじょう聡士さとし、かつて構造情報工学の第一人者とされ、ある種の構造論的連関に於ける独自な仮説を提唱していた稀代の天才。

 換気の止まった静かな部屋で、彼は椅子に腰掛けたまま、穏やかな表情で息を引き取っていた。

 部屋に乱れはなく、暴れた跡もない。机上には、ノートパソコン、万年筆、コーヒーカップ。背後の本棚には、彼の著作が整然と並んでいた。


 後に発見されたメモ帳の最後のページには、たった一行だけ、こんな言葉が記されていた。


『この構造は、美しい。だが、美しすぎる』





 第一発見者は、事務補佐の女性だった。

 和泉いずみ真奈まな、二十八歳。勤務歴は三年。几帳面な性格で、日々の記録も欠かさない。備品の在庫管理表には、ほとんど誤差がないほどだった。

 同僚たちの証言では、「静かな人」「真面目で、感情を表に出さない」「困っている人を放っておけない性格」など、彼女の評価は概ね好意的だ。残業を進んで引き受けることもあり、周囲からの信頼も厚かった。

 九月十三日、午後七時三十五分。

 和泉真奈は退勤の確認作業の際、鍵の返却がないことに気がついた。最下層の旧閲覧室を確認に向かった彼女は、ドアをノックした。

 呼びかけても返答はなく、寝ているのかとも思ったが、念のため警備員へ報告。報告を受けた警備員が開錠を行ったが、内側からチェーンロックがかかっており、大声で声掛けを行ったが返答もなかったため、対応した警備員により緊急開錠の手配が行われた。

 同日午後八時一分。通報を受けた救急隊が到着した時、新城聡士はすでに心肺停止状態だった。搬送後、医師により死亡が確認され、死因は急性心不全とされた。

 遺体に外傷はなく、毒物の反応も見つからない。アレルギー反応や脳血管の異常もない。睡眠中の心臓突然死、そう仮定する他になかった。

 けれど、違和感はあった。

 あまりに整いすぎていたのだ。

 発見当時の部屋は、まるで見本のように清潔で、無駄のない配置が成されていた。デスクの上に置かれたコーヒーカップには、中身は残っておらず、ノートパソコンは閉じられていた。座ったまま崩れたその姿勢も、不思議なことに、乱れていない。

 その静謐せいひつな死にざまに、最初に現場へ足を踏み入れた者たちは、むしろ、安らかな眠り、という印象を抱いたという。

 新城聡士、七十九歳。構造理論の俊英しゅんえい。目立つ賞歴こそなかったが、その思考は一部の研究者にとって脅威であり、奇跡でもあった。

 彼の著作は難解を極め、一般にはほとんどかえりみられなかったが、その断章のような言葉を切り取り、後年の学者たちが自らの理論の礎石そせきとしてきたことも少なくなかった。

 そして彼の周囲には、常に"理解者"ではなく、"解読者"がいた。彼の論文やメモは、解釈を誤ればただの難解な寓話にすぎなかったが、正しく読む者にとっては、未来の構造そのものを予告するもののように見えた。

 その男が、唐突に死んだ。

 しかも、その空間は、まるでひとつの論文、あるいは論理式のように、無駄なく整っていた。

 そして、彼の死は、あまりにあっさりと片づけられた。

「自然死で間違いないでしょう」

 そう言った初動捜査の刑事の声は、録音記録に残っている。

「まあ、研究者はストレスも多いですし、疲れてたんじゃないですかね」

「歳も歳だしな」

 その後も、緊迫した雰囲気とはおよそ程遠い現場の会話は続いていた。


 だがその記録を、数週間後に再生していた男は、別のことを考えていた。

 秋庭あきばとおる。構造分析官。警察ではなく、科学者でもない。ただ、構造を見ることを専門とする、やや異質な調査員。

 静かに再生を止め、イヤホンを外しながら窓の外を見やった。夜のとばりは下り、都市の灯がきらめいている。

「整いすぎている。あまりにも完璧に、すべてが在るべき場所にある」

 記録の中では、新城聡士を囲む室内の配置が、まるでひとつの数式のように完結していた。

 その異様な均衡が、かえって違和感を強めている。


 それは、生の構造ではなく、死の構造だった。





『真実とは、検出されるものではなく、設計されるものだ。

 そして、設計者が誰であったかを、人が問うことはない』

(新城聡士のメモより)

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