構造的類縁性の底でおやすみ
神流みもね
プロローグ
『論理とは、真実を浮かび上がらせるための道具ではない。
ときにそれは、真実の輪郭を塗りつぶすために使われる』
(新城聡士のメモより)
■
かすかな埃の匂いが漂う地下書庫には、明かりのひとつも点いていなかった。
それでも、その空間にはどこか人の温もりが残されていた。まるで、ほんの一瞬前まで、誰かがそこにいたかのように。
建物の最下層、既に登録記録すら抹消された旧閲覧室。部屋の大部分は書庫だが、その片隅には机と椅子が置かれ、隠れ家的な書斎として使用されていた。
換気の止まった静かな部屋で、彼は椅子に腰掛けたまま、穏やかな表情で息を引き取っていた。
部屋に乱れはなく、暴れた跡もない。机上には、ノートパソコン、万年筆、コーヒーカップ。背後の本棚には、彼の著作が整然と並んでいた。
後に発見されたメモ帳の最後のページには、たった一行だけ、こんな言葉が記されていた。
『この構造は、美しい。だが、美しすぎる』
■
第一発見者は、事務補佐の女性だった。
同僚たちの証言では、「静かな人」「真面目で、感情を表に出さない」「困っている人を放っておけない性格」など、彼女の評価は概ね好意的だ。残業を進んで引き受けることもあり、周囲からの信頼も厚かった。
九月十三日、午後七時三十五分。
和泉真奈は退勤の確認作業の際、鍵の返却がないことに気がついた。最下層の旧閲覧室を確認に向かった彼女は、ドアをノックした。
呼びかけても返答はなく、寝ているのかとも思ったが、念のため警備員へ報告。報告を受けた警備員が開錠を行ったが、内側からチェーンロックがかかっており、大声で声掛けを行ったが返答もなかったため、対応した警備員により緊急開錠の手配が行われた。
同日午後八時一分。通報を受けた救急隊が到着した時、新城聡士はすでに心肺停止状態だった。搬送後、医師により死亡が確認され、死因は急性心不全とされた。
遺体に外傷はなく、毒物の反応も見つからない。アレルギー反応や脳血管の異常もない。睡眠中の心臓突然死、そう仮定する他になかった。
けれど、違和感はあった。
あまりに整いすぎていたのだ。
発見当時の部屋は、まるで見本のように清潔で、無駄のない配置が成されていた。デスクの上に置かれたコーヒーカップには、中身は残っておらず、ノートパソコンは閉じられていた。座ったまま崩れたその姿勢も、不思議なことに、乱れていない。
その
新城聡士、七十九歳。構造理論の
彼の著作は難解を極め、一般にはほとんど
そして彼の周囲には、常に"理解者"ではなく、"解読者"がいた。彼の論文やメモは、解釈を誤ればただの難解な寓話にすぎなかったが、正しく読む者にとっては、未来の構造そのものを予告するもののように見えた。
その男が、唐突に死んだ。
しかも、その空間は、まるでひとつの論文、あるいは論理式のように、無駄なく整っていた。
そして、彼の死は、あまりにあっさりと片づけられた。
「自然死で間違いないでしょう」
そう言った初動捜査の刑事の声は、録音記録に残っている。
「まあ、研究者はストレスも多いですし、疲れてたんじゃないですかね」
「歳も歳だしな」
その後も、緊迫した雰囲気とはおよそ程遠い現場の会話は続いていた。
だがその記録を、数週間後に再生していた男は、別のことを考えていた。
静かに再生を止め、イヤホンを外しながら窓の外を見やった。夜の
「整いすぎている。あまりにも完璧に、すべてが在るべき場所にある」
記録の中では、新城聡士を囲む室内の配置が、まるでひとつの数式のように完結していた。
その異様な均衡が、かえって違和感を強めている。
それは、生の構造ではなく、死の構造だった。
■
『真実とは、検出されるものではなく、設計されるものだ。
そして、設計者が誰であったかを、人が問うことはない』
(新城聡士のメモより)
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