訂正可能性

これを強く意識して自らの行動を内省しなければならないと思っている。今の自分の被害者性を強く主張し、他者を攻撃しようとしている風潮はやはりおかしい。

東さんの訂正可能性の哲学をパラパラめくって放置していたが、なんとなく言いたいことが頭に浮かんできた。カントはルールについてあれこれ言っていた気がするが、ルールを超えた人間の想像力のようなものがそもそもの前提であってそれを失ってしまってはどうにもならないみたいなこと。独断論的な傲慢さとか言っていた気がする。

こういうのを自覚し徐々に訂正していくことが知識を欲するものとして自然ではないか。糞の垂れ流しのように自分の被害だけを主張し、状況を全体として理解しようとしない愚かしさははっきり言ってゴミなのでそういう傾向があったとしても無視していこう。

単線的な主張はつまらないとも思うようになった。なにかに配慮しなければならない、金によって権利は守られる、常に成長しなければならない、道徳はすでに用意されている、人の代わりはいくらでもいる、バカは無視しろ、人権は大事などなど。

フレーズで語られるのは広告会社が作ったよくわからない広告だけでいい。それですらお腹いっぱいだ。

結局自らに何かを包摂するような基盤を作らなければ不寛容と同じなのだ。後付の屁理屈にはもう飽きた。自己肯定感というよくわからない装置もいらない。


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