17.アレスの剣
アレスは、振るう剣は一太刀のみという拘りを捨て、一介の剣士と成り果てた。
とはいえ、そう劇的に変わった訳ではない。
投擲武器が捨てられ、毒武器による牽制が剣に置き換わり、暗器の類に頼らくなった。
寧ろ先程よりも弱体化、戦いやすくなったと言っていい。
投擲がなくなったことで間合いは白兵戦のそれへと移行し、致命傷でも受けない限り戦闘不能に至る恐れもなく、暗器という小細工も警戒しなくていい。
それだけ、起きた変化はたったそれだけの筈、だというのに。
牽制、踏み込み、後退、あらゆる立ち回りに剣が組み込まれただけの、筈なのに。
(これ程か!? これ程まで、変わるものなのか!?)
アレスの剣は、まるで、不可視の剣だ。
気がつけばアレスは眼前にいて、剣を振る直前の姿勢で現れる。
次いで間断なく、白刃の軌跡が閃く。
(そして、これだ! 見えん、太刀筋が目で追いきれぬ!)
達人の境地に至った影武者ですら、残像を捉えるのがやっとと言う、凄まじい剣速。
単純な速度だけで言えば、影武者のそれと同等か、それ以上。
(解けたぞ。お主の不可視の絡繰り)
まず不可視の踏み込みだが、これは膝抜き、あるいは無拍子と呼ばれる技術の応用だ。
起こり、詰まり予備動作を消し、隠すための技術全般を指す技術。
立ち合いにおいて、起こりの見切りは重要なファクターだ。
なにせ熟達した武人は、敵の起こりで相手の行動を見切り、返し技を見舞う。
詰まり敵の起こりは次の行動を考える時間であり、己が返し技を構える時間なのだ。
起こりを隠されることは、反撃の準備時間を奪われたのに等しい。
そして次の行動が隠蔽されたことで、反応が一瞬遅れ、意識の外の行動となる。
詰まり、正面から不意打ちを喰らっているようなものだ。
故に初動の差が生まれ、後手に回され、防戦一方へと陥るのだ。
まあこれは主観の話で、傍から見れば影武者は一瞬呆けているように見える事だろう。
何はともあれ、一見すれば影武者は窮地に追い込まれている、ように思える、が。
(このまま耐え続けていれば、勝機はこちらに流れ込んでくる)
相手の行動が読めぬことが問題なら、必要なのは敵の行動を認識する術。
アレスのやっていることは、言ってしまえば手品のようなものだ。
種や仕掛けが見えないだけであって、ない訳ではない。
この状況を打開する手段は、二つ。
一つは、アレスの無拍子を見破る。
もう一つは、経験則からアレスの攻撃パターンを見い出し、それを基に反撃に転じる。
問題はどちらの策を取るかなのだが……
(前者は不可能。こやつの無拍子は、気が遠くなる程の鍛錬の結晶だ。一朝一夕で見切れるような生温いものではない)
詰まり、取れる策は後者のみであり、影武者は既にそれに専念している。
とは言えこの方策は、言うは易く行うは難し。
ひたすら回避に徹するのは集中力を削り、ストレスを強いられる。
攻撃を予測して、カウンターを叩き込みたくなるが……
(姿勢が前のめり過ぎる。カウンターに対する警戒が皆無だ。恐らく、受ければ敗れるな)
防御の上から敵を仕留める術を持っているのだろう。
でなければ、ここまで攻めに意識を割く説明がつかない。
これ程の技術を身につけ、更に敵を仕留めるための手札を用意している。
(なんと凄まじき技量か。この境地に至るまでに、どれだけの努力を積み重ねてきた)
同じ剣の道を歩む者として、その過酷、察するに余りある。
その努力を思うと、本当に、不憫でならない。
戦い方の創意工夫と幅の狭さ、新たな物を産み出す想像力と独創性の乏しさなど、そう言った粗が見て取れた。
詰まり何が言いたいかと言うと、だ。
(この少年には、剣の才がない。凡夫だ)
推し量ることすらできない研鑽、澄み渡る技の冴え、十代半ばの少年にあるまじき絶技を披露することで影武者を圧倒するアレス。
そんなアレスの内心はと言うと……
(全っ然、守りを崩せねぇ! 負けるぅ! 俺、このままだと負けて死ぬゥ!!)
本来、アレスと影武者の実力差は大きい。
経験値、剣技、観察眼に勝負勘など、劣っている部分を挙げればキリがない。
今はそれらを小手先の技術で、なんとか誤魔化しているに過ぎない。
これが通用しなくなったら最後、あっと言う間に斬り殺される。
(てか、なんで一度も防御しねぇんだよ! 防御と回避なら回避のがぜってぇ楽だよな⁉ だってのに受けねぇってことは、俺の狙いバレたか⁉)
アレスは打撃を加えることで特性を把握し、あらゆる物体を確実に斬ることができる。
故に影武者の刀と一度打ち合えさえすれば、次の斬撃で防御ごと叩き斬る、つもりだったのだが……
(狙いは看破されてる。とはいえ、あっちが無拍子を見切ること自体は無理なはず。てことは、あいつの狙いは俺の攻めのパターンを把握して、山勘でカウンターか)
故に、これはアレスが有利を保って逃げ切るのが先か、影武者がアレスの癖を読み切る
のが先かという勝負だ。
そしてアレスが思うに……
(うん、無理、勝てない。真っ向勝負で、こいつに勝ち目一つもねぇわ)
半分搦め手のような無拍子を使っても、勝ちきれない。
ならばもう、アレスにできることは一つしかない。
奥の手を使うことを、アレスは決断した。
「タイム! ターイム!!」
そんなふざけたことを叫びながら、アレスは全力で跳び退った。
アレスがそういう人間だということを、影武者は理解しているため、心底呆れたと言わんばかりの顔をしながら、ため息を吐く。
「今度はどうした? 勝てそうにないと見て、命乞いでもするつもりか?」
影武者は呑気な事に、アレスの要求に応えた。
他人からすれば慢心と評されかねない行為だが、影武者に言わせれば、これは余裕だ。
アレスの剣士としての実力も、大体わかった。
時間はかかるが、負けることは、奇跡でも起きない限りあり得ない。
故に影武者は、己の好奇心を優先した。
まだここから、何か逆転のための一手があるというのなら、見てみたかったのだ。
影武者は剣が、剣士が好きだ。
優れた剣士との立ち合いは楽しく、叶うならば全てを出し切らせ、勝利したい。
故に引き出しがまだあると言うのなら、是非見たい。
そんな期待を胸に、言葉を待っていると、アレスは笑みを作る。
「いいや? ちょっと、あんたのご趣味を尋ねたくてな」
「なんだそれは。見合いでもするつもりか?」
変化球な質問に困惑する影武者に対して、アレスは笑みを崩さない。
「いやぁ、これから俺がやることさ、端的に言っちまうと、理不尽なんだよな」
「と、言うと?」
「まぁ、これから俺が取る構えを見ればわかるよ」
アレスはそう言って、剣を頭上に掲げて、大上段の構えを取る。
それを目にした影武者は、驚愕に目を見開いた。
「な、んだ、それは!?」
大上段の構えは、珍しい構えではない。
最速の斬撃を繰り出すことができるが、両手と武器を頭上に掲げるため即座に防御も回避もできなくなる、捨て身の構え。
実戦に不向きな構えの一つと言え、命懸けの実戦で取るような構えではない、という意味では驚愕する理由と言えなくもない。
だが影武者が、驚いた理由は、そこではない。
「侍、ギャンブルは好きか?」
信じられない。
本当に何なんだ、この少年は。
(先程までとは逆だ! 全身が起こりに塗れている!)
アレスが先程まで行ってきたのは、相手に次の行動を徹底して隠し、不意を突く暗殺者のような立ち回りだった。
今やっているのは、その逆。
全身であらゆる起こりを作ることで、相手に複数の選択肢の中から正解のものを選べ、という運試しを強いる。
成程、ギャンブルというのは的を射ている。
複数の攻撃の内、どれが正解なのか考えなければならない、という思考も枷となり、結果的に相手の行動を鈍らせることもあるだろう。
格上相手にも、勝ちの目を拾う可能性こともあるだろう。
一見すると、便利な技に思えるが、これはそんな良いなものではない。
「何故そんな道を歩んでいる!? お主は、一体何を目指している!?」
影武者と名乗る侍は、掛け値なしに剣の道の達人だ。
だからこそ、アレスが歩んできた道がわかった、いや、わかってしまった。
この技術は、言ってしまえば悪あがきなのだ。
使う相手は真っ当にやって勝つことが難しい、同格か格上に限られるだろう。
そんな手練れが相手なのだ。
前提として、博打に勝ったとしても攻撃が半端なものでは敵に届かないため、放つのは後先考えない最高にして最速の斬撃でなければならない。
本来の腕から鑑みて、速すぎると評さざるを得ないアレスの剣速、それも最速の一太刀となると回避は非常に困難故に、受け手は最適な防御を強いる。
ではもし、敵がアレスの攻撃の対処を完璧に行ったら?
決まっている、返し技で殺される。
アレスは攻め一辺倒の攻撃をしているので、防御も回避もできない状態だ。
その攻めが防がれたのだから、彼は何もできない。
影武者に言わせれば、これは分の悪い特攻だ。
「その若さで! それ程の剣腕を誇りながら、何故そんな技術を求めた!?」
余りに効率が悪すぎる。
ただでさえ才能がないのに、限られた鍛錬のリソースを剣技以外に割くなど。
そんなことをする位ならば、剣のみに絞った方が強くなれるに決まっている。
影武者に言われずとも、わかっているはずだ、己が茨の道を歩んでいることを。
茨の道だとわかっていて、愚直に努力するだけでは至れぬと自覚し、それでも努力する。
それは、狂気だ。
(その狂気の熱はどこからくる? 夢? 野望? 憧憬? 復讐? 検討もつかん)
影武者の中で、初めてアレスに対して恐怖が生まれる。
何度も死にかけ、感嘆すべき技術を幾つも見た。
だがそれでも、恐怖など抱かなかった。
そんな彼の内心など露知らず、アレスは不思議そうな顔すらして、首を傾げる。
「いや、なんで求めたって言われても……必要だと思ったから?」
「その理由を問うている! そんなものなくとも、剣の鍛錬のみに打ち込めばよかろう!」
そこでようやく、アレスは納得したように頷いた。
「あぁ、成程。そら、真っ当な意見だ。けどさ、俺は身の程を弁えてるつもりなんだよ。剣だけで、あの人に勝てるとは思ってない」
「あの人?」
「俺の剣の師匠だよ。弟子ができる最大の孝行って、一般的には師匠超えることだろ?」
これまでの言動からは考えられない、殊勝な考えだ。
影武者は感心しつつ、不意にアレスの師匠に興味が湧いた。
才なき凡人を、これ程の剣士に育て上げ、外道に堕ちるまで追い込んだ剣士。
尋常な剣士ではあるまい。
「お主の師は、誰だ?」
質問をされたアレスは、何故か苦笑した。
そして端的に問いに答える。
「『剣王』ノンナ・エッスベルテ」
「……………………………は?」
影武者はアレスの答えの意味を理解するのに、数秒の時を要した。
彼の中で、これまでアレスと行ってきた問答の解釈が、一変する。
アレス程剣に打ち込んだ者が、『剣王』の絶対性を理解していないはずがない。
そんな相手を、超える? 馬鹿げている、いや、不可能だ。
成程、先の苦笑の意味は、そういうことか。
余人に理解を示される筈がない、そんな夢だという自覚は、誰よりもあるのだろう。
(……いや、だからこそ、なのか?)
だからこそ、格上にも勝ちうる手段を模索し、小手先の技術を習得したのか?
目標が絵空事だと認識し、それでも達成するため、現実的な手段を講じていると?
「老婆心から言うが、そんなものを習得せず、真っ当に鍛錬した方が、強くなれたぞ?」
「承知の上だ」
「組織で謀殺紛いではなく、個人の武で超えるなぞ、無謀、いや狂気の沙汰だ」
「かもしれない」
影武者に言われ、アレスは言葉を返す。
「けどさ、そういう、傍から見たら狂気の沙汰をやってた奴らを、俺は知ってるぜ?」
「……何?」
それは、未だ『剣王』、いや『五英傑』の強さが正しく認識される前に、彼らに挑んだ者たちのことであろうか?
確かに、そういう者たちは一定数存在した。
だが、早計ではあったかもしれないが、常識で考えれば根も葉もない噂だと断じるのも仕方ない状況でもあった。
誤りではあっても、無謀や狂気という程ではない。
「民草や国を護るため、相手が何であろうと刀一本で策もなしに特攻をしかけ、なし崩し的に護国という望んだ結果を引き寄せる武装集団」
影武者の思考が、空白で埋め尽くされた。
「戦略的観点から見れば、ありえないし、狂気の沙汰だろう?」
思い起こすのは、ひたすら努力すれば追いつけると無根拠に信じていた、先達の背中。
「人間のために真っ先に矢面に立ち、敵を蹂躙し続け、そして最後の一兵卒まで五英傑の『魔王』に滅ぼされるまで戦い続けたって聞いたぜ?」
いつか、いつかと夢想している内に、なることができなくなってしまった。
「師匠が言ってたよ」
成れぬというなら、せめて彼らが滅んだ元凶に挑もう、なんて楽な道を選んだ。
「侍は無謀で愚かだったが、在り方は気持ちよく、散り様は潔くて、美しかったってさ」
無意味な敗北はしたくないと、先達の無念を晴らすためと、女々しい言い訳を並べて、テロリストに身をやつした。
「あんたは、そんな侍の、一人じゃないのか?」
そんな男を、侍と呼んでくれるというのか。
「…………」
知れず、影武者はアレスの言葉を嚙み締めるように、目を閉じていた。
致命的な隙であることはわかっていた。
だが不思議と、この語らいの最中は斬りかかってこないであろうという、確信があった。
「道は違えど、『五英傑』打倒という無謀な夢を持つ同志と思ったのは、思い違いか?」
もしもアレスが、本心から言っているのだとすれば。
(負けたくないなぁ)
同じ道を進み、競う敵手だからこそ、負けたくない。
「ああ、そうだ」
もう、名乗る資格も、機会もないと思っていた。
だが今は、この少年の前でだけは。
「儂は誇り高き、侍の一人だとも」
侍へとなろう。
先達に恥をかかせぬため。
「侍は、なにより剣が達者だ」
侍を見習うと言ってくれた、この少年に報いるために。
「故に我らは、剣では負けん」
正面から、アレスの勝負に乗り、堂々と切り伏せて勝ってくれる。
――――――――
アレス「いざ勝負」
影武者「これ程滾ったのは、いつぶりか」
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