第13話 土曜日の事件前(6) 一条晁生の焦燥
――提督室に『ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番』が流れていた。
アキオは目を閉じた。彼は腕を組むと、椅子に身を沈めた。アームチェアの軋む音がした。革の冷たい肌触りが彼を包んだ。彼は大きく息を吸った。葉巻とブランデーの香りがした。――焙煎したアーモンドとヘーゼルナッツ……豊潤な葡萄の匂い。
天井には、ホログラフが明滅していた。ホログラフは、ノクター・リムの戦況報告をしていた。
<<セレオル宙域:停滞……カレイル皇子再編中……順調>>
ホログラフが告げると、彼が目を開いた。ホログラフは停止し、彼の指示を待った。彼は再び目を閉じて、頷いた。
――ホログラフは報告を続けた。
「戦況図……左翼……イグナス宙域」
アキオは上体を起こしながら、ホログラフに命じた。天井の映像がフェードアウトすると、幾何学模様が浮かび上がった。彼が目を凝らすと……明滅する光点が見えた。隣に『ワープゲート』と表示され、それらの名称が並んだ。インディゴ、ウルトラマリン、アイボリー……。
「敵旗艦セレノス級の位置と……旗艦艦隊のベクトル表示を頼む」
ホログラフに、赤い図形が浮かび、セレノスと表示された。大小の赤い点から、青い線が伸びていた。
「ん……動いているな? ベクトル方向にゲートはあるのか?」
アキオが言うと、ホログラフが答えた。
<<バーミリオン・ゲート 2AU……ターコイズ・ゲート10.5AU……>>
「もういい。バーミリオンは閉じて100年になる……だとすると、ターコイズか?」
アキオは、ホログラフの音声を制止すると、独り言ちた。
――ラフマニノフは佳境に差し掛かっていた。
デスクのホログラフが、少女の走る姿を映していた。少女が振り向いて、何か叫んでいた。彼女は、また背を向けて走り去っていった。アキオは、ホログラフに指を伸ばして、少女に触れた。――映像が消えてアイコン表示に変わった。
<<アオイ・イチジョウ 14歳の夏――羽根野森林公園>>
アキオは静かに頷くと、呟くように言った。
「随分あってないなあ。あの子も……もう高校生か……早いもんだ」
アキオは、よいしょと言って立ち上がると、バスルームへ向かって歩いた。彼は歩きながら、上着をほうり投げた。軍服が漂って、壁に貼り付くのが見えた。
――煌びやかな勲章が、虹色に輝いていた。
バスルームから出ると、濡れた足を絨毯がくすぐった。冷気が心地よく、肌を刺した。アキオは、バスタオルを腰に巻き、濡れた髪まま……冷蔵庫へ歩いた。白いホログラフが見えた。アキオが手を伸ばすと、ペットボトルが並んだ。緑色のボトルを指さすと、ボトルが浮き上がり、空中に漂った。
「いかんな。目がかすむ。疲れると老眼が進む。気を付けないと」
アキオは、そう言って目頭を抑えた。ボトルはアキオの前に浮いていた。彼はボトルを掴んで、蓋を押した。ストローが飛び出した。一口含む……炭酸が舌を焼いて、ライムの苦味が広がった。爽やかな甘みが残った。――一気に飲み干した。
――デスクに、ホログラフが立ち上がっていた。
彼は、ホログラフに向かって歩いた。デスクに手をついて、顔を寄せる。ホログラフは、秘書官からのメッセージだった。
<<カイ=ナイリス中将が、ご訪問を希望されております――15:00予約>>
アキオはメッセージに頷いて、クローゼットに向かった。バスタオルを投げると……タオルが、はためいて広がり、折り畳まれるのが見えた。――バスルームへ漂っていった。
彼は、木目調のホログラフまで歩いた。
「部屋着にしてくれ。この後は、寝るつもりだ」
アキオは言って両手を広げた。ホログラフから白い煙が吹きあがり、冷たい霧がアキオの体を包んだ。煙が止むと、アキオは白い寝巻を着ていた。
「ふん、まあいいか。カイ中将だしな」
アキオは呟いて、中央のソファまで歩いた。彼はソファに腰を掛けて、テーブルの葉巻を取った。灰皿に押し付けると、煙が立ち昇った。彼はソファに寝そべり、葉巻の匂いを嗅いだ。焙煎したアーモンドの香りがした。口にくわえて煙を含んだ。――辛い……心地よい眩暈がした。
――提督室のドアに、グリーンのメッセージが表示された。
「お休みのところ、失礼いたします」
デスクのスピーカーから、しゃがれた声が聞こえた。
「入れ……」
アキオが言うと、中年の男性がドアから入ってきた。カイ中将は、入り口で立ち止まると、右手を挙げて敬礼した。カイ中将は左脇に瓶を抱え、手にグラスを二つ持っていた。カイはテーブルまで歩くと、笑みを浮かべながら、瓶、グラスと並べていった。末広がりのガラス瓶は、暗紅色の光沢を湛えていた。金のラベルに、銀の王冠のホログラフが浮いていた。
「オルダージュ産のブランデー……特級か? グラスは……まさか?」
とアキオが聞くと、
「エル=ノヴァです。切子細工の名品です……うちの家宝ですよ」
とカイが答えた。アキオは息を飲んだ。カイは目を細めて頷き、言葉を続けた。
「ご栄転される前に、ささやかながら、お祝いをと思いまして。妻に頼んで取り寄せておきました」
――ピアノの音した。ショパンの別れのエチュードが流れていた。
カイは口上を整えながら、遠い目をしていた。
「思い出すのは、35年前のあの出会い。あの戦場でしょう。あの空は、今でも忘れられません……濁った沼のような色でした。――セトリウス残存防衛戦。そこは正に地獄でした」
カイは天井を見上げた。ホログラフが茶色の惑星を映し出した。カイは口を歪めて続けた。
「私達少年兵は、絶望の中で天を仰ぎ、横たわっていました。来るはずのない……友軍。言葉もなく、ただ待っていました。そう……そんな中で貴方は……たった一人で現れた。貴方は、私たちを立ち上がらせた。戦わせ、落ち延びさせ、生き残らせた。貴方は、私たちの意思だった。正に、英雄でした。」
彼の口上は続いた。
「そして、脱出作戦でのシャトル奪還戦。正直言うと、私は、あの時……もうだめだと思った。しかし、あなたは……ただ笑って、最後の水を分けてくれた。あの水の味……今も忘れておりません」
カイは、眉を寄せて目を閉じた。 言葉に詰まって、下を向いた。顔をあげて、こちらを見た時、彼の目には涙が溢れていた……彼はアキオを見ながら続けた。
「この35年間、私は貴方と共にあるのなら、何も怖くなかった。共に死ねるのを光栄に思っておりました。それは……今も変わりませんよ。隊長」
カイの言葉に、アキオは黙って頷いた。――唇が震えた。
「隊長……今宵は、昔話に花を咲かせましょう! 新しい門出に、倒れるまで飲みあかしましょうぞ!」
カイの言葉に、アキオは目が熱くなるのを感じた。彼は、睫毛を濡らし、擦れた声で言った。
「ああ、そうだな! 35年分の思い出だ……長いぞ、はは!」
カイがボトルを開けた。葡萄の芳醇な香りが溢れた。アキオは、エル=ノヴァを見つめた。暗紅色の瓶が近づいて、琥珀色の液体が注がれた。切子細工のグラスが、紫色の散乱光を放ち、テーブルを万華鏡に変えた。
――提督室に笑い声が響き、静かな声が途切れなく続いた。
アキオは重たい眼をあげて、テーブルを一瞥した。オルダージュは空になっていた。スコッチの名品がテーブルに並んでいた。肉の焼ける匂い、油と醤油の匂いが漂っていた。――肉と野菜の料理が見えた。
カイが思い出したように言った。
「ところで、新しい赴任地はどこなんですか?」
アキオは、口をへの字に曲げて、吐き出すように言った。
「俺も、知らないんだ。まだ、何の話も来ていない。カレイル皇子から直接あるとは……思うんだがね」
カイはアキオの話を聞いて、口を開け……ゆっくりと口を閉じた。
アキオは、スコッチを一口含んで、口の中で洗った。木の香りがして、舌が焼けた。飲み込むと、熱いものが食道を下った。
「それは……流石に可笑しな話ですな。実は、妻にも話が来ておりませんで……」
カイが言うと、アキオも目を丸くして言った。
「……貴族院人事じゃないのか。まさか……皇室人事か? 嫌な予感がする」
カイは眉を寄せて、アキオに頷き、アキオのグラスにスコッチを注ぎ足した。
「そういえば、皇室人事でセラフィナ様が……星団将に昇格されます。これは妻からの情報なので、ご内密にお願いします」
とカイが告げると、アキオはハッと息を飲んで、立ち上がった。
「それか……! それが本当ならば、皇女はカレイル様に働きかけた事になる。そして、俺の人事が……皇室人事であるかもしれない……と来た。嫌な勘が働いて、堪らんよ」
アキオの言葉を聞いて、カイは考え込んだ。カイは天を仰いで、ソファに寝そべって、目を閉じた。カイはアキオの言葉に答えた。
「ありそうですな……男は軍事、女は政治と言いますが、セラフィナ様は、軍事にも興味がある方ですからな。隊長を……望んでいるやもしれませんな」
アキオはカイの言葉を聞いて、目を閉じた。ソファに体を預けて、悪態をついた。そして、思い直したように起き上がると、葉巻に火をつけた。彼は、煙を含んで口を焼き、しばらく葉巻をふかしていた。
アキオは、小さく呟いた。
「アメイジア……だと? ホログラフ……さっきの戦況図を出してくれ」
アキオが言うと、カイが目を開いて天井を見つめた。
「敵艦隊ベクトルの先にある、ワープゲートを列挙せよ」
アキオが命じると、ホログラフが応じた。
<<バーミリオン・ゲート 2AU……ターコイズ・ゲート10.5AU……>>
「バーミリオン……? バーミリオン……か! 100年前に閉じた……アメイジアの第一ゲートだ」
アキオの言葉を聞いて、カイは眉を寄せた。カイは口をすぼめて、アキオの顔を見つめた。彼は、しばらく酒をすすっていたが、首を振って立ち上がり、アキオに声を掛けた。
「そろそろ暇の時間ですかな。名残り惜しくもありますが、お先に失礼つかまつります」
カイは深々と挨拶をして、自室に戻っていった。
アキオは一人、ソファに取り残された。提督室には、葉巻の香りとアルコールの匂いが満ちていた。
アキオは跳ね起きると、デスクに向かった。
――『ホルストの惑星』から火星の演奏が始まった。数多の縁が結ばれた。あるべき者が、進むべき道に進んだ。終わりのない物語が、いま始まろうとしていた。
―― 一条晁生の焦燥(了)――
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