第11話 土曜日の事件前(4) イシュラ・マールⅢ 

――背後に巨大な輝きが生じた。


 アイスミントとスズランの香りがした。透明な威厳を湛えた空気に包まれた……。


「なんてことかしら! 味方を攻撃するなんて!――これは……軍法会議ものね」


 イシュラとヴァルクが振り返ると、長身のアイギスが立っていた。


 白い制服に、金のボタンが見えた。彼女から、白い靄が立ち昇り……黄金の光を放っていた。――背には大きな翼を広げていた。翼は光の粒子を舞いあげて、金の巻き毛を揺らしていた。


 リアナは口元に手をやり、眉を寄せて……こちらを見ていた。


「リアナ……これは違うのだ……」


 とヴァルクが言うと、リアナは笑い声を漏らし、手をひらひらと振りながら、言った。


「もういいわ。さあ、帰りましょう……冷たいビールが待っているわ!」


 リアナは背を向けると、翼を揺らしながら、歩いて行った。彼女の向かう先に、ナディラのヴァル=セリオンが見えた。ミナがこちらを見ていた。ミナは、3人のアイギスが乗り込むのを確認すると、イシュラに手を振りながら、運転席に滑り込んだ。


「追いつかれてしまったな。こちらも急ごう……」


 とヴァルクはイシュラに声を掛けた。彼女は、兵員輸送用ハッチに手をかけた。イシュラは胸のボタンに触れて、呟いた。――ドアのロックが外れた。

 

 ヴァルクは、ゆっくりとドアをスライドさせた。彼女は、イシュラを一瞥して飛びこみ、ハッチを閉じた。


 中からヴァルクの声が聞こえた……。


「急げ……。負けたら破産するぞ。アイツの酒量を知っているか? 正に悪魔だ……そして酒乱だ。エイリシア本部長の……次くらいに酷い!」


 ヴァルクの話を聞いて、イシュラは溜息をついた。シートに滑り込んで、後ろを振り返る……黒のアイギスたちが見つめ返した。前を向いて、ハンドル下に指を伸ばす。始動ボタンに触れると、ホログラフが浮き上がり、『認証:イシュラ』と表示した。


――エンジンの振動が彼女たちを包んだ……。


 運転席のホログラフが開き、メッセージが流れた。


<<右舷…後部…破損…小。高速走行時は、注意されたし>>


 車体を伝わる振動を感じ、イシュラは息を吐いた。エアコンの風が顔にあたった。大きく息を吸い込むと、ソーダ水の香りがした。仄かに、油と埃の匂いがした。フロントガラスに、イシュラの顔が映り込んでいた。表情は無く、人形のように見えた。


――サファイヤの瞳が輝いていた。


「負けるって……誰が……誰に?」


 イシュラの声が静かに響いた。


 イシュラの口の端がゆっくりと上がった。ハンドルの中心に触れる。フロントガラスに『セルフ・パイロットモード』と表示された。彼女は目を輝かせて、親指を再度押し付けた。


<<警告:バトル・モード>>


 表示は、赤い字に変わり……車内に警告音が響いた。


 ブーンと言う音がして、室内灯が赤く点灯した。後部座席から、息を飲む声が聞こえた。シートベルトを掛けなおす音がした。


 「エリダ……行け」


 ヴァルクの声がした。助手席に、エリダが乗り込んできた。――シダーウッドの香り。


「イシュラ……秒読みは、私がするからね。スタートに集中して!」


 エリダはそう言うと、窓から身を乗り出した。イシュラが右を見ると、もう一台のヴァル=セリオンが見えた。助手席から、白のアイギスが腕を出し、指を広げていた。


 エリダが言った。


「カウントは……5から見たいね……まだよ。まだ……まだ」


 イシュラは目を閉じると、右手を心臓にあてた。左手は軽くハンドルを握る。彼女の体から、白い炎が立ち昇った。誰かが、イシュラの肩を叩いた。イシュラが目を開けると、エリダの指が目の前にあった。――3本……2本……1本。


「Go! イシュラ! Go!!」


 イシュラの目が青く光った。音が消えた……視界は、三つの像を結んだ……赤と緑の残像が……棚引く様に揺れていた。エリダの凍り付いた顔が見えた。大きな目で彼女を見ていた……。


――全てがスローモーションだった。


 イシュラがアクセルを蹴ると、ヴァル=セリオンが沈み込んだ。ゆっくりと……跳ね返るように車体が浮いた。後方から、アスファルトが削られる音がした。――石の焼ける匂いがする。イシュラがハンドルを回すと、車体は滑るように回頭し、ハイウェイの入り口を向いた。エリダがすうっと空中を飛び、肩をドアにぶつけた。後ろから、間延びした声が聞こえた。――悲鳴だろうか?


 視界の左に影が見えた。影は……赤と緑の尾を引きながら……徐々に接近してきた。


「ミナ……」


 イシュラが呟いて間もなく、視界が塞がれた。彼女が目を凝らすと、敵のヴァル=セリオンが揺れながら……前を走っていた。


――滑っている……左に交わす。


 イシュラの視界が開けると、ガードレールが……目の前に迫ってきた。彼女はシフト・バーを叩き、ハンドルを切った。エンジンが唸り声を上げ、車体を前に傾けた……ヴァル=セリオンは、勢いよく右に旋回した。


 右から圧力を感じた。ミナの車体がノーズを向けていた。ミナは、ハイウェイの入り口に向けて加速していた。イシュラには、緑と赤の線が揺れて見えた。


――ミラの車体は、撥ねてるのかな……ほら音がする……トン……トン……。


 イシュラは目を閉じて、耳を澄ませた。ミナのヴァル=セリオンは、ゆっくりと路面に沈んだ。


「はい……じゃあ、ここだ……トーン」


 とイシュラは言って……僅かに……車体を右に寄せた。軽い振動があった。ミナのヴァル=セリオンは、勢いよく右の方に消えた。イシュラの車体は、左にスライドを始めた。――反動が少し残った。


――闇が訪れ……オレンジの電灯が流れた。


 イシュラは、トンネルに突入した。背後で、爆発音がした。バックミラーを見ると、炎と煙が映っていた。イシュラが左を見ると、エリダが口を開けて……外を見ていた。オレンジの光が、エリダの顔を横切って行く。――壁が迫って来ていた……当たる!


「左に流れてた……」


 イシュラは、シフト・バーに触れ……アクセルを僅かに緩めた。


――壁が遠ざかっていった。


 イシュラは目を閉じて、息を吸うと……ゆっくりと吐き出した。彼女が目を開けると、青い目は輝きを失い、徐々に元に戻っていった。排気口が音を立てると、焦げた匂いが吐き出され……清浄な空気が満ちた。――ソーダ水の香りがした。

 

 静かなエンジン音が流れていた。エリダがこちらを見ていた。


「死ぬかと思った……」


 エリダが言うと、イシュラは頷いた。


 後部座席の方から歓声があがった。イシュラはハンドルを握り直し、額の汗をぬぐった。エアコンに左手をあてた。冷気が彼女を包んだ。ダッシュボードを開けようと手を伸ばすと、ヴァルクの声がした。


「油断するな。リアナが……これで終わるはずが無い。エリダ……後方の確認を継続!」


 エリダが返事をしながら、窓から顔を出した。外気が流れ込み、湿った空気を運んできた。イシュラの髪が揺れて、額の汗が冷気に変わった。イシュラは右手でハンドルを握り、左手でダッシュボードを開いた。


「今のところ……大丈夫よ」


 エリダが呟くのが聞こえた。


 イシュラは、冷蔵庫を開けた。ペットボトルを取り出して、キャップを押した。ストローが飛び出した。彼女は前を見つめた。直線が続いていた。ストローを顔に近づけて口に含むと……爽やかな葡萄の酸味と、甘い香りが彼女を満たした。イシュラは、はぁと息を吐きだして言った。


「やっぱり、これよねぇ」


――ヴェル=セリオンに『Blue in Green』が流れていた。


「なんだ……あれ。おい……そこまで、するか!」


 エリダの突然の声に、イシュラは跳ね起きた。ペットボトルをエリダに投げて、ダッシュボードの上部パネルに触れた。――フロント・ガラスの左半分に映像が映った。


「白の悪魔……か」


 ヴァルクの声が、後ろから聞こえた。


 トンネルの中を、2人のアイギスが飛んでいた。二人のアイギスは、黄金の羽を広げ……周囲を輝きで満たしていた。彼女たちは、ヴァル=セリオンを運んでいた。左右から窓枠に手を入れて……釣りあげていた。映像の下部には『時速 350.8 km 加速中…』と表示された。


「追いつかれるぞ……」


 とエリダが言った。


 イシュラは頷いて、アクセルを踏み込んだ。速度メーターが赤くなり、『時速 410.8 km』と表示された。――白のアイギスは遠ざかって行った。


「見えなくなった……再加速の兆候はなし」


 しばらくすると、エリダが窓から顔を引っ込めて、後ろの座席に向かって言った。


「隊長……まだ監視しますか?」


 すると、ヴァルクが告げた。


「いや、まて……リアナから、メッセージが来た」


 彼女は言いながら口の端を上げた。満面の笑みを浮かべた。


「良し! 喜べ!……うちの勝ちだ……破産しないで済むぞ!」


 黒のアイギスたちが歓声を上げた。彼女たちは身を乗り出して、イシュラを称賛した。イシュラは、ただ頷き……震える手で、ハンドルの中央に触れた。フロントガラスが曇り、オート・パイロットと表示された。――エンジン音が消えていった。


「しばらく、オートパイロットで走行しますね」


 イシュラが言うと、後ろから小さく返事が返ってきた。


 車窓から古代樹が見えた。緑の木々は飛ぶように後ろに流れた。黒いハイウェイがまっすぐ伸び、彼方の地平に巨大な塔が見えた。ずっと、上り坂が続いた。


 イシュラが助手席を見ると、エリダが寝ていた。イシュラは指を鳴らした。ホログラフが立ち上がり、交通情報が流れた。


<<リュミナ・ポルタ港 105.3km … ヒエリオン台地 ヴァル・レムナント柱 セラフィナ基地 212.3km …>>


「設定、セラフィナ基地……到着の5分前に起こして……」


 と呟いて、イシュラは意識を失った。――『Blue in Green』が心地よく響いていた。


――イシュラ・マールⅢ(了)――

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