第9話 土曜日の事件前(2) イシュラ・マールⅠ 

――イシュラ=マールは、睡魔と闘っていた。


 フロントガラスは、眩しかった。手をかざして影を作った。木々が風のように流れていた。ヒーターの暖気が足に触れた。ハイウェイの消失点が揺れていた。路面からリズミカルな振動が届いた……白線が迫り、車の下を通った。――こつんという音を立てた。


 イシュラは、兵員輸送車ヴァル=セリオンを伴い、リュミナ・ポルタ港へ向かっていた……。


「ねっむい……やっと…ヒエリオン台地を抜けたかな。あと半分くらいだなぁ」


――背を伸ばすと、ソーダ水の香りがした。


 イシュラは、ノクシア樹海を抜けようとしていた。ヴァル=セリオンが、下りの直線に入った。凍るような晴天の下に、新緑の樹海が広がっていた……黒い直線が地平を貫いていた。――デジタル・メーターが赤く点滅していた。


「時速 402km……ちょっと危ないかなぁ」


 彼女がメーターから目を離すと、体がすうっと浮いた。――ハンドルが軽い。

 

 音が消えた。スッと息を止めて……目を細めた。小さな揺れと共に、彼女の体が沈んだ。つま先でアクセルを踏んで、耳を澄ませると、僅かな手ごたえを感じた。ゆっくりとアクセルを戻す。――焦げたタイヤの匂いがした。


――デジタル・メーターが白く輝いた。


「危なかった……グリップを無くしてたな」


 景色が霞んでいた。指で髪を梳いて、汗をぬぐうと、遠くにカーブが見えた。排気ファンが鳴ると、甘酸っぱい香りが広がっていった……。


 イシュラは、ハンドルの中央に触れた。フロントガラスが曇り、オート・パイロットと表示された。――徐々にエンジン音が消えていく。彼女が指を鳴らすと、ホログラフが立ち上がり、交通情報が流れた。


<<リュミナ・ポルタ港 105.3km … ヒエリオン台地 ヴァル・レムナント柱 セラフィナ基地 212.3km …>>


 彼女が「リュミナ」と言うと、


<<当車両 時速 200.0km 到着予定時刻 PM13:20>>


 と表示された。


 彼女は、ハンドルから手を放した。屈んで左に手を伸ばす。冷蔵庫の扉が開いて、小さなボトルが飛び出してきた。彼女はボトルを一つ取ると、シートに背を預け、体を伸ばした。


「やっぱり、これよねぇ」


 と言って彼女は、ボトルの蓋を押した。――ストローが出た。


 彼女はストローを咥えて、口をすぼめた……。甘く冷たい液体が、彼女の口に流れ込んだ。凍った葡萄の果汁とミルクの味が広がった。イシュラが一気に飲み干すと、ズルズルという音が響いた……。


「美味しかった。生き返るわぁ」


――空は水色で、雲一つなかった。


 イシュラは、窓の外を眺めた。森の木々が洪水のように流れていた。手もとに目をやると、空のボトルがあった。彼女は、ボトルをダッシュボードにいれ……大きな欠伸をした。背伸びをして、シートにもたれ掛かかった。――冷たい空気が舞い降りた。

 

 「ん、……寝ますかぁ……少しだけならぁ」


と言って目を閉じた。彼女は、シートに沈んでいった……。


――アラームで目を覚ました。


『お時間です。ビーッ…ビーッ…ビーッ…』


 イシュラは飛び起きた。霞む目で、ハンドルに手を伸ばす。中央の制御盤に指を滑らせた。――警告音が消えた……。彼女は、フロント・ガラスを見つめた。


<<目的地到着 04:20経過>>


 と表示されていた。


「ここは……どこでしょう?」


 イシュラは辺りを見渡した。上体を起こして振り返ると、量子フラックス機関砲と兵員用のシートが8つあった。――ヴァル=セリオン。


「まずいわ……到着って……何時だったかしらぁ……」


 彼女は目をこすりながら、ダッシュボードを開けた。葡萄の香りがした。小さな超電導プレートが見つかった……タブレットだ。彼女はタブレットを取り出して、表面を撫でた。虹色のホログラフが浮き上がった。――指に果汁の雫がついていた。


<<輸送指令リスト>>


 イシュラは、指を舐めた。リストを見て最初の行を指さした。すると、青い制服を着たアイギスが映し出された。


<<輸送部門長 ナディラ=ヴェラスト>>


 と表示されていた。


「おはよう、イシュラ少尉……こんな朝早くに、ごめんなさいね。早速で申し訳ないのだけれど……リュミナ・ポルタ港まで、お出迎えに行って欲しいの」


――映像が切り替わり、4名の女性の顔が映った。


「お出迎えの部隊は、ヴァルク=ノイアス隊ね。隊長以下4名です」


――リュミナ・ポルタの地図が表示された。


「『海底列車 ノクティス・エスカ駅』の改札口に、PM13:30までに待機してください。彼らを拾ったら、セラフィナ基地本部まで運んであげてね……。詳細は、タブレットに送っておきますね。じゃあ、宜しくお願い致します……」


 ホログラフ映像は、静かに再生を停止した。――プレートの時刻表示を見た。


「んん……これはいけない、急ぎましょう!」


 彼女は、プレートをポケットに入れると、ヴァル=セリオンから降りた。強い風が吹いて、青い制服と金髪を揺らした。潮の香りがする。彼女は右手を額にあて、目を細めた。――空は水色だった。


「駐車場の北側かなぁ……あっちが降り口かなぁ」


 振り返えって、ドアに手をかけた。


「あっつ……」


 彼女は顔をしかめた。手が赤く腫れていた。ドアから離れようとしたが、そのまま崩れ落ちた。――足が動かない?


 彼女が尻もちをついて、右手を見ていると、後ろから声がした。


「アイギスが……転ぶところを始めて見ましたわ……」


 イシュラが振り返ると、白の制服が見えた。金のボタンと虹色の階級章がみえた。――白い顔に黒髪の女性が立っていた。


 イシュラは頬を赤くして言った。


「あの…できれば、ご内密に……」


 白のアイギスは、口元に手を運ぶと笑った――鈴の音のようだった。


 イシュラは、アイギスの震える睫毛を見ながら、お尻を叩いて、埃を掃った。


「あの……ヴァルク=ノイアス隊の方ですか?」


 と彼女が聞くと、


「リアナ=エルステア隊のミナ=レイク少尉よ。私もお出迎えなのよ……聞いてないのかしら?」


 と白のアイギスが言った。


「いえ……ヴァルク隊に……と言われただけなのでぇ……」


 イシュラの言葉を聞いて、ミナは首を振った。


「私もナディラさんから頼まれましたの。彼女の代わりに、うちの隊長を迎えに行けと――…そしてあれは……ナディラさんから、借りてますの。部門長仕様……? なんですってね?」


 ミナの向いた方を見ると、もう一台のヴァル=セリオンが停車していた。彼女は頷いた。――ナディラ・バージョン。


「そうでしたか……。あの……良ければ、私の方で運びましょうか?……まだ定員に余裕があるので」


 とイシュラが言うと、ミナは目を大きくして、イシュラを見つめた。


「へぇ……」


 小さな風が吹いて、花の香りを届けた。


「貴方、白と黒が一緒だと、どうなるのか知らないのかしら? それとも……見たいの!?」


 と目を輝かせてミナが言った。


「いえいえ、滅相もないです……」


イシュラが言うと、ミナはクスリと笑った。


「冗談よ。もう時間が無いわ……あなた、飛べる?」


――遠くで鐘の音がした……パンの匂いがした。


イシュラは首を振った。


「じゃあ、送ってあげるわ」


ミナの言葉に、イシュラは後ずさった。


ミナから白い光が噴き出し、二人を包んだ。


「マナ……!? ちょ……と待って下さい」


 イシュラが止める間もなく……ミナは両手を広げた……背後に光の翼が現れていた。――ミナの姿が霞み……目の前に現れて、イシュラの顔を覗き込んでいた。アメジストの瞳が輝く。イシュラ目は閉じて、小さな悲鳴を上げた。


――フルーティー・ジャスミンの香りがした。


「あの……あの……」


 イシュラが呟いて、そっと目を開けると、ミナの顔が近くにあった。白い顎が見えた。紫の瞳が煌めいていた。背中に手のぬくもりを感じた。ミナが上を向いた。彼女の口の端が、ゆっくりと上がっていった――イシュラは瞼を閉じた。


「いやぁ~~………」


 イシュラは自分の悲鳴を聞いた。体の重さが消えた。髪が激しくはためいて、頭の皮を引っ張った。耳には……膜が張っているようだった。


――音が消えて、太陽を感じた。


 イシュラが目を開けると、空が近くにあった……。ミナがイシュラに顔を寄せて言った。


「ああ、下は……見ない方が良いわよ」


イシュラは震えながら頷いて、もう一度瞼を閉じた。


彼女の睫毛は濡れていた。


――イシュラ・マールⅠ(了)――

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