さっきまで悪魔が、

鏖(みなごろし)

光抱く扉

20xx年 5月1日

14時32分


朝から小雨が降る、蒸し暑い日だった。

教団本部の細い廊下は、窓もなく、人気ひとけもなく、いつも陰気だ。しかし蛍光灯の白い灯りが異常に明るく、まるで全てをあぶり出すかのようで、ここを歩く時は決まっていたたまれない、そぞろな気持ちになる。


 俺は教団の倉橋と一緒に、ヨガをするため「無我の間」へ向かって廊下を歩いていた。倉橋とは入信した時期がほぼ一緒で年齢も近く、見てきたもの、聞いてきたものなどが一緒の世代で話しが合った。しかし教団の『教え』でそういった世間一般のいわゆる「世迷言よまいごと」はタブーとされているので、お互い二人だけで誰も使用しない時間を見計らって、ヨガをしながら『教え』以外の昔好きだった女性の話しや、よく通った食べ物屋の話し、サッカー、野球、音楽の話しなんかをして楽しんでいた。教団側も俺たちのこの行為を知ってはいたが、さほど五月蝿うるさいことは言わなかった。昨今の若者事情もあってか、『教え』のタブーと言っても俺たちの行為がそれほど抵触するわけでもない。「若い」し毎日の厳しい修行の間のほんの些細な息抜きぐらいはいいだろう、と目を瞑っていた。何より、『あの事件』以来、教団を去る者が増えていて、教団幹部側も昔のように厳しく吊し上げることは無くなった、らしい。


 午後3時、世間ではお茶の時間にあたるが、教団『光抱く扉ひかりだくとびら』もその世間にならいお茶の時間にあたる。「普賢の間」に皆が集まり、リラックスして教団特製のハーブティーを飲む。あぐらをかく者、寝そべっている者、我が子を膝に座らせている者、皆、談笑している。毎日、朝から始まる厳しい修行と『教え』の唱和、肉体労働、3回の食事もしゃべってはならないのが決まりだ。緊張感が途切れるこの時間を信者たちは皆、心から楽しんでいる。この時ばかりは無礼講とまでは言わないが、ある程度のレクリエーションなどは許される。俺と倉橋はハーブティーを一気飲みすると二人でヨガをするために「無我の間」に向かった。決まって40代くらいの女性信者の林さんが「いつも仲がいいわね」と言って送り出す。そして、その辺にいる信者たちが皆、優しい笑顔を見せてくれる。


「普賢の間」を出て廊下を歩きながらも、俺と倉橋は学生の様におしゃべりをした。


「最近、入った樋口さんてさ、カワイイと思わないか?」俺はいつもの調子で倉橋に話しかける。


「うん、とても清楚だし、熱心にウチの『教え』を身につけようとしているよね」


倉橋は下世話な人間ではない。俺とどんなに仲良くなっても言葉遣いがいつも丁寧で教団の子供達にでさえ子供扱いなどせず、尊厳の心を忘れない。それは容姿にも現れていて、教団で身に着けるヴェールはいつも純白で美しく、髪の毛もいさぎ剃髪ていはつしている。俺の二つ下の25歳だが、17歳くらいの高校生に見える。目が丸くまつ毛が長くチタンフレームの丸い眼鏡をかけている。品と心根の穏やかさをいつも醸し出している。


俺たちはいつもの様に部屋に入ると電気を点けずに部屋に入った。


「晴れましたね」と倉橋が言った。


朝の機嫌の悪そうな雨模様は去って、光が差していた。オレンジがかった光が、何故か不安を覚えさせた。


俺たちは部屋の窓から入る陽の光の方を向いて、合掌をした。教団の『教え』の合掌は両手を胸の位置で合わせるまでは仏教のそれと違わないが、『光抱く扉』は左手を右手より少しだけ上に挙げる。それから俺たちは一旦、あぐらをかき、呼吸を整えた。


二人で思い思いに好きなポーズをとって楽しみながらヨガを始めた。ルールもなく、自分の好きな、得意なポーズから始める、それから難易度の高いポーズに挑戦してみる。怠け癖の強い俺はレパートリーが少ない。倉橋は熱心に日々成長している。


「倉橋はスゴイな、もう『道示教様どうしきょうさま』になれる」と俺は言った。


「何を言ってるんですか、牧野さん、僕たちの『道』はまだまだです。一緒に修行して頑張りましょう!」


「でもな、俺はやっぱりあのカワイイ樋口さんがいつも頭に浮かんじゃうんだよね〜」


「…実を言うと、僕も少し…、」と照れくさそうに倉橋は言った。


俺たちはお互い顔を見合わせてククククっと小さく笑った。


その時、ガチャリと音がした。


俺たちが入ってきた入り口は室内の引き戸だが、今の音は外に通じるドアの音だ。この部屋は外に出られるようにドアが一つついている。俺たちが合掌をした方に窓が4つあって、その右端にドアがある。ドアが開かれると、椎名、野間、そして高見が現れた。3人とも教祖を警護する組織【マシャルヴァ】の幹部たちだ。


同じ教団内でも滅多に見ることはない武闘派の連中だ。それに、3人とも教団の純白のヴェールではなく農作業の格好をしている。


イヤな予感がする。


心臓の鼓動が、壊れたピアノの鍵盤のハンマーの様に乱れ打つ。


吐き気がしてきた。


ヨガのポーズをとっていた倉橋がゆっくり立ち上がり、俺を見下ろした。


倉橋はあの穏やかな表情を崩さずに俺にこう言った。


「牧野さん、あなた、最近ヘンですよ」


そしてリーダーの高見がやはり無表情で「牧野さん」としわがれた声で言うと、顎をしゃくって見せて、外へ出ろという合図をした。


俺は大人しく従った。


黒のSUVが用意されていてた。倉橋は純白のヴェールを脱いでSUVの運転席を開くと農作業服を取り出し着替えた。そしてもう1セットの作業服を地べたに無造作に投げた。皆、無言だったが、俺に着替えろと言うことらしい、俺は少し黄ばんだ教団のヴェールを脱いで着替えた。運転席に倉橋、助手席には見たことのない男がやはり農作業姿でじっと前を見つめて座っている。そしてその後ろで俺を真ん中に進行方向に向かって、右に野間、左に椎名が俺を挟んで座った。さらにその後ろの席にはすでにリーダーの高見がいた。倉橋がエンジンをかけた。SUVはエンジン音も立てずに静かに走り出した。


誰も何も言わなかった。


そして、


俺は、


『潜入捜査に失敗した』


続く。

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