9ボタン すり抜けていく、リング

カフェからの帰り道、すっかり夜の帳も下りて、街灯がぽつぽつと道を照らしている。

澄んだ夜気は胸いっぱいに広がるのに、吐き出す息は苦く、重たい。

もし、あの時、あの手を掴む勇気があったなら──

きっと今頃…。


そんな情けない妄想をしながら、家に着いた。

玄関の扉を開けると、真っ直ぐ自分の部屋へ。

階段の軋む音まで俺を嘲笑っているよう。

カバンもスマホも放り投げ、ベッドに身を沈める。

柔らかい感触すら、今の俺には馴染まない。

目を閉じれば、絢音の寂しそうな笑みが焼きついたままだ。

拳を振り下ろしてみても、残るのは自分への苛立ちだけだった。


真っ白な天井が何も映さない鏡のように、ただ俺の空虚さだけを写し返してくる。


ぼーっと天井を眺めていると、突然、ドアが勢いよく開いた。

「お兄ちゃん!週末は何の日か覚えてる!?」

肩まである黒い髪を弾ませながら、麻以が部屋に飛び込んできた。

「ノックをしろ……何かあるのか?」

「こんなに可愛い妹の誕生日を忘れるなんて、罪だねぇ〜、お兄ちゃん」

腰に手を当てて、あざとく指差す。


「そっか、おめでと」

「週末なんだよっ!」

「で、何がお望みなんだ?」

「プ・レ・ゼ・ン・ト!」

わざとらしく一文字ずつ区切って、期待感をアピールしている。

けれど、その大きな瞳の奥には、これまでの不満を滲ませるような、ちょっと生意気な光が混ざっていた。


「欲しい物、決まってるのか?」

「おまかせ!」

「でも、お兄ちゃんはセンスが皆無なので…今年は芽衣ちゃんにお願いしておきました!」

「一緒に買ってきてね、よろしく〜」

言いたいことだけ言って、ドアをバタンと閉めて、部屋から出ていった。


スマホを拾い上げ、芽衣に連絡する。

入力する指先に上手く力が入らない。

『明日の放課後、時間あるか?』

既読もつかず、すぐに返信はこない。


一時間ほどたった頃、リメリメ♡チャンネルのゲーセン巡り動画を見ていると、通知が来た。

『うん、大丈夫だよ』

あっさりとした返事だったが、ホッと胸を撫で下ろした。

『じゃあ、校門で待ってる』

『わかった』

淡々としたやり取り。

だけど、感じていた距離がほんの少し戻った気がした。


放課後、校門で芽衣を待つ。

下校する生徒たちの笑い声、充実してそうな響きが少し羨ましい。

なんとなく目に入った門柱は、何度も塗り直されたようで、錆がところどころ顔を出して、積み重ねた年月を物語っている。


伸びていく門柱の影をぼんやり見ていると、

「お待たせ!」

芽衣はいつもの調子で明るく声をかけてきた。

でも、笑顔にほんのり照れが滲んでいて、そわそわしている。

「突然呼び出して悪いな」

「ううん、大丈夫…何か用事?」

赤らんだ頬を誤魔化すように、髪の毛をくるくると指に巻いている。

「何って、麻以の誕生日プレゼントなんだけど…麻以からお願いされてるよな?」

「なにも聞いてないよ?」

キョトンとした顔で答える。

どうやら、本当に何も聞いてないらしい。

…これじゃあ、まるで俺がデートに誘ったみたいじゃないか。

あいつ、一体何を考えてるんだ?


「その…麻以の誕生日プレゼント、一緒に選んでくれないか?」

「なんだぁ、デートだと思ったのにー」

口先を尖らせて、不満を伝えている。

「いいよ!わくた、センスないからね」

からかうように笑う。だけど、その目は優しかった。

「うるせ」

面と向かっても、普段通りのやり取りができている気がして、少し救われる。

相談の末、近所のショッピングモールへ向かうことにした。



二人で雑貨屋に入った。

「それで、何が良いんだ?」

「丸投げ…」

芽衣は呆れたように眉をひそめる。

「だって、わからんし」

「最近、ハマってる物とか興味ある物とか、知らないの?」

「全くわからん」

「もっと興味持ちなよ、麻以ちゃんかわいそ」

文句を言いながらも、芽衣は真剣に棚の中を探していた。


「これとか?麻以ちゃん、今年受験だよね?」

手にしたのは猫のブッククリップ。

教科書を開いておくのに便利だし、良いかもしれない。

「じゃあ、これにするか」

「少しは自分で探しなよ…麻以ちゃんが可哀想だよ」

「いや、これがいい。さすが芽衣だ」

「まったく、調子良いんだから」

ちょっとのため息。

でも、その横顔はどこか嬉しそうだった。


「わくた、これ見て!懐かしー!」

昔やっていたアニメのキャラクター。

小学生の時はよく見てたっけ。

「小3の頃、あたしにキーホルダーくれたよね」

「…すまん、それは覚えてない」

「本っ当、あたしとのこと何も覚えてないね」

「ごめんなさい」

「わくたが、クレーンゲームで取ってくれたんだよ」

「そうだ!ここにゲーセンあったよな!?」

「あるけど…ゲームセンター、行くの?」

「この店舗限定のフィギュアがあるんだ、行こうぜ」

「仕方ないなぁ」

芽衣は渋々着いてきてくれた。

少し前は、俺の真剣な表情を見れるとか言ってたのに。

それでも、何気ない会話が続くことに、ふと安心する自分がいた。

昔から変わらない空気が今もここにある。



「ペラ輪設定かよ…」

ペラ輪設定とは、フィギュアの箱に穴の空いた薄いプラスチック製の輪っかにアームを引っ掛けて、景品をじわじわと獲得口に近づける厄介な設定だ。

コツは二つ、アームをできるだけ寄せて、干渉する時間を長くすること。

もう一つは、ある程度、箱が獲得口に近いたら、箱の角をアームで突いてみること。

重心次第では、箱が回転し、一気にゲットに近づく。

正直、あまりやりたくはないが…


しかし、輪っかにいくらアームを通しても、するりと抜けていく。

まるで触れたくても触れられない誰かの心みたいだった。

何度試しても結果は同じ。

ただ撫でるだけで、何も届かない──勇気のない今の俺みたいに。


諦めて振り返ると、芽衣の姿は、そこになかった。

さっきまで隣にいた気がしたが、その気配はどこかに消えていた。

慌てて電話をかける。

けれど、呼び出し音が聞こえるだけで繋がらない。



フロアを探し回ると、芽衣は片隅にあるベンチで、うつむいて座っていた。

「やっと、見つけた」

近づくと、芽衣の目には涙が浮かんでいた。


「…ごめん、わくたの後ろ姿見てたら、絢音ちゃんのこと思い浮かんじゃって」

「あたし、どうしたら良いかわからなくなっちゃった…」

その声はかすれて、今にも消えてしまいそうだった。

ただハンカチを差し出すことしかできない。


芽衣はハンカチを受け取り、目元を抑える。

俺たちは並んで座り、喋るわけでも何をするわけでもなく、ただ時間だけが過ぎた。

芽衣にかける言葉を探しても、何も出てこない。


ふと、芽衣が小さな声で話し始めた。

「…絢音ちゃん、話してみるとすごくいい子だった」

「だから、余計に苦しいの」

「二人の関係も壊したくないし…」

少し間を置いて、震える声が続く。

「わくたが絢音ちゃんを見てるとき、すごく優しい顔してて…」

「そんな顔を見てると、どうしても胸がぎゅってなっちゃうんだよ」

「あたしには見せたことない顔…あたしにも振り返ってくれないかなって」

「でも、そう思うだけで何もできない自分が嫌になる」

ショッピングモールのBGMがやけに遠くに聞こえた。


芽衣の言葉が胸に残って、しばらく何も言えなかった。

何か言いたいのに、うまく言葉にできない。

それでも、今だけは逃げたくなかった。

「うまく言えないけど、今日、芽衣といると自然体でいれると思ったんだ」

「なんか、無理しなくていいって思える」


「…それに俺も何も踏み出せてない」

言葉にしてみても、これが精一杯で。


芽衣はハンカチで目を拭いながら、しばらく黙っていた。

そして、ぽつりと笑った。

「誰に励まされてるの、あたし…」

「でも、なんか元気出た気がする」

すっと立ち上がると、何か振り切ったのか泣き顔の跡はもう隠れていて。


惹かれているのは絢音──そのはずなのに。

目の前で笑う芽衣を見ると、どうしようもなく胸の奥が軋む。

この痛みは確かに本物だった。

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