8ボタン 勇気はグラスの中に

休み明けの学校は、どこかだるい青さを漂わせる。

廊下の窓から差す光に照らされて、宙に舞う塵が、目的の教室までの道を導いているように見えた。

俺は、梢にフィギュアを渡すため、スポーツ科の教室まで向かっていた。


スポーツ科の教室に行くのは初めてで、普通科の教室からは距離がある。

辿り着いた教室は、同じ作りのはずなのに、匂いは違って、不思議な感じがした。

「すいませーん…」

信じられないほど弱気な声。

梢を呼んでもらったが、教室にはいなかった。

席を案内してもらい、机の上にしっかりとヒーローを鎮座させる。


案内してくれた女子たちは、噂話が好きなようで、梢の噂を好き勝手に話していた。

バッシュを買えないほど貧乏だの、そのくせプライドは高いだの、そんなことを言われる理由を知る由もないが、腹立たしいことに変わりはない。

そんな苛立ちを抱えて、次の教室へ向かった。



隣の教室に入ると、笑心歌は窓際でぼーっと黄昏れている。

「ほら、フィギュア取ってきたぞ」

箱で小突いて現実に返す。

「…痛っ、おぉ、ありがと!あれ?なんか怒ってない?」

相変わらず変に察しが良い。

「別に普通だ、ついでにチョコもやるよ」

「ウチにも!?サンキュー!」


ふと、ハニーベージュの隙間に絆創膏が貼られていることに気がついた。

「おでこ、怪我でもしたのか?」

「…ああ、これ?ほ、ほら、アタシ兄弟多いじゃん?喧嘩して弟にかまされちゃった」

笑って誤魔化していたが、おでこを抑えた手は、震えていた。


笑心歌は、何かを思い出したかのように話題を変える。

「そういえば、今日、転校生くるみたいだね!」

「あんま、興味ないな」

「可愛い子が来るといいね〜」

何かを含んで意味ありげに、ニヤリと笑う。

「だから、興味ねぇよ」


教室に戻ると、転校生の話題で持ちきりだった。

誰が流した噂か知らないが、みんな浮き足だっている。

自分の席で、一限を待つ。

昨日までの雨も上がり、グラウンドの水溜まりに光が反射して煌めいている。

その眩しさが鬱陶しく、クラスの賑やかな雰囲気も苦手で、机に伏せた。


しばらくすると、チャイムと共に担任が入ってくる。

「はい、席に着けー。今日は、はじめに転校生を紹介します」

教室がざわめき始める。

誰かが流した噂は正しかったようだ。

「じゃあ、入ってきて」


机に伏せたまま教室の声に耳を傾ける。

一瞬、静寂に包まれたかと思うと、すぐさま、かつてない歓声に変わった。

教室が熱狂に飲まれていく。

「うそだろ…本物?」「ガチ?」

机が揺れる音や椅子がずれる音が一斉に重なる。

あまりのうるささに、顔を上げた。


飛び込んできた光景に、目を疑った。

そこに立っていたのは、もう二度も出会ってしまった彼女。

たしかに、転校したいようなことを話していたが、まさか本当に来るなんて…

「…秋月絢音です、よろしくお願いします」

お辞儀の仕草ひとつまで洗練されていて、教室のざわめきが一拍遅れて消えていく。

顔を上げた彼女が俺と一瞬目を合わせ、照れくさそうに微笑んだ。

その笑みで、見慣れた教室の景色は確かに塗り替えられていった。


「席は窓際の空いてる所、天城の隣な」

控えめに返事をすると、自分の席に向かって歩き出した。

その一歩ごとに、流れる時間が薄くなっていく。

揺れる黒髪は窓からの光をすくい上げて、教室を照らす。

俺の隣に腰を下ろした瞬間──

「…来ちゃった」

指先で髪をすくい、耳にそっと沿わせる。

その柔らかさに呼吸を忘れた。



授業は全く手につかず、彼女の横顔と滑らかな指先を見つめるだけで、時間は過ぎた。

一限の授業が終わり、彼女を問おうとした。

その瞬間──

教室の扉が勢いよく開け放たれる。

「ちょっと!アヤネ様が転校してきたってマジッ!?」

笑心歌がこちらに飛び込んできた。


「アヤネ様ってなんだよ?」

「わくたん、知らないの!?ここにいるアヤネ様は、今をときめく俳優だよ!」

「…え?絢音が?」

思わず名前で呼んでしまった。

「ウチの推しをよく呼び捨てにできるね?」

瞳の奥は全く笑ってない。

背筋に緊張が走る。

「クレゲだけじゃなく、テレビとか見なよ!ちょっと、どいて」

その勢いに押され、すぐさま席を譲る。


「笑心歌です!」

名前だけ名乗ると、絢音の身体中を見ながら、感動している。

「えっ、ヤバ!顔ちっちゃ!肌キレイ!カワイイ!女神なんですけど!」


絢音は照れた様子で笑った。

「笑心歌さんもかわいいよ」

「『さん』は要らないよ!てか、笑心歌って呼んでほしい!」

「じゃあ…笑心歌…」

名前を呼ばれると、笑心歌は椅子から転げ落ちそうなほど身をよじった。


「ほら、メイメイも来なよ!」

誘われた芽衣は、わずかに肩をすくめて遠慮がちに輪へ入っていく。

その表情には、緊張と戸惑いが入り混じっていた。

芽衣はあの時、彼女が俳優のアヤネであることに気づいていたのだろうか。

あの日以来、芽衣とは距離ができてしまって、声を交わすこともなくなっていた。


目の前で繰り広げられる女子トークを蚊帳の外から見ていた。

笑い声はすぐ近くで聞こえるのに、どこか遠い。

俺は静かに廊下へ出て、時間を潰した。

もたれかかった壁は、氷塊のように硬く冷たい。



一日の授業が終わる。

絢音は、常に誰かしらに囲まれていて、とても大変そうだった。

明日へ期待して、校舎を出ようとした時、スマホが光った。

『これから、カフェ行かない?』

『ぬいぐるみのお礼したいな』

『駅前の本屋さんの前で待ち合わせね』

短い三つの文が浮かび上がっている。

スマホを強く握りしめ、風のような足取りで、待ち合わせ場所へ。


本屋に着くと、絢音はまだ来ていなかった。

晴れた空を眺め、彼女を待つ。

頬を撫でる風も心地よい。


「ごめん、待った?」

少し息が切れていた。

俺は首を振り、並んで歩き出す。

肩先が触れそうで、気づかないふりをした。


「てか、有名人って、どういうことだよ?」

クラスのみんなは、あれだけ騒いでいたが、本当のことを確かめたかった。

「黙っててごめんねー、自分で言うのもなんだけど、私のこと知ってると思った」

「あいにくクレゲ以外、興味がなくてな」

「なんか悔しいなー」

声のトーンが落ちる。

笑って誤魔化しているのに、そのもどかしさが隠し切れていなかった。



しばらく歩くと、カフェの前。

扉を押し開けて、店へと入る。

店内は落ち着いた音楽と柔らかい照明に包まれ、木とコーヒーの香りが混ざり合っている。

「何だか、落ち着くね」

彼女は軽やかに椅子に座り、微笑む。

空気がほんのり、二人のために柔らかくなった。


「さぁ、好きな物を頼みたまえ、今日は私の奢りだ」

軽快な口調でメニューを広げる。

まるで舞台のような話口調で、口元が緩んだ。


「じゃあ、アイスコーヒーで」

「普通だなぁ、遠慮するなよー」

「普通であることが、難しいのさ」

その演技に感化されたのか、俺も変な言葉遣いになっていた。

でも、彼女は真剣に、そして、寂しそうに頷く。


「わかるー、私、高校生の放課後とか知らないなぁ」

「憧れてたりするのか?」

「そうだねぇ…放課後、友達とカフェ行ったり、カラオケ行ったりしてみたいかな」

やはり、プライベートや自由な時間はないのだろう。

グラスの水滴を追う指先は、何度も同じ場所をなぞっては消していく。

その繰り返しが抱える孤独を物語っていた。


「そうか…なら今度行ってみるか?誰か誘って」

「…ありがとう、楽しみにしてる」

その声は甘く、どこか苦い。


「そういえば、彼氏いるんだよな?この前、スーツの男の人と待ち合わせしてたよな?」

気づけば、つい口走っていた。

それは、単純な好奇心なのか、喉に残るコーヒーの苦さのせいなのかは、わからない。

だけど、とにかく知りたかった。


「あぁ、あの人?マネージャーだよ、今も、そこでこっち監視してる」

振り返ると窓際の男性が、スマホをいじるフリをしながら、こちらを凝視している。

「彼氏は…いませーん」

「まぁ、超人気女優が彼氏がいたら、それはそれで大変なことになるか」

「てか、こんなところで男とカフェに来ていいのかよ、写真とか撮られたらやばいだろ」

少し考えて、あっさりとした口調で答えた。

「そうだねぇ…彼氏バレしたら、荒れるかもね」


二人の間に静寂が訪れ、視線が絡まる。

そして、彼女は囁いた。

「ねぇ…」



「もし、そうなったら、とってくれる?」

口に出せば距離を縮められるのに、言葉は喉に引っかかって出てこない。

グラスに残る氷のパキッと弾ける音が、沈黙を砕いていく。

俺は言葉に詰まり、ただ彼女の瞳を見つめることしかできなかった。

返事をしてしまったら、何かを失う気がして──


伸ばしてくれた手を掴む勇気が、どうしても出なかったんだ。

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