5ボタン 無邪気に溶けゆくフレーム
いつもと変わらない昼休みの教室。
空腹も満たされ、窓から差し込む陽の光が心地よい。
クラスのざわめきも落ち着き、やんわり眠気を誘う。
俺は、
「お前、昨日のドラマ見たか!?」
「見てねぇよ、ドラマとか興味ない」
最後にテレビをつけたのは、いつだろうか。
そのドラマとやらはそんなに面白いものなのか。
「まじ?テレビとか見ないのかよ?」
「リメリメ♡チャンネルのクレゲ動画しか見ないな」
「クレゲに浸かりすぎだろ、ふやけちまうぞ」
「大丈夫だ、俺の指は──」
俺のとっておきを楽の言葉がかき消す。
「しかし、アヤネかわいすぎたー」
教室のドアから、勢いよくにぎやかな風が吹き込む。
「わかるーーー!」
「激推せるよね!!」
突然、机に両手をついて、まるで、最初からそこにいたかのように、自然に空気をさらっていく。
適切に着崩された制服。
陽射しを浴びて輝くハニーベージュの髪は、毛先にかけてブロンドに近づきながら、空気の中に溶けていく。
揺れる光の束は高い位置で纏まり、黒いリボンと軽快に踊っている。
ぱっちりとした澄んだ瑠璃色の瞳。
屈託のない笑顔は差し込む光より眩しく感じた。
その眩しさに思わず目を細めた。
その一瞬、わずかに緩んだシャツの隙間に覗く白さのその先が、どうしようもなく気になった。
視線を戻すと、楽は両手を合わせ、天に祈りを捧げているようだった。
「ごめん、名前は?」
彼女は、にこっと笑い、髪を揺らして答える。
「ウチは
「隣のクラスだよ!」
その明るい声とおどけた笑顔は、誰しもを惹きつける魅力があった。
「それで、何か用か?」
今までの人生で関わることのない存在で、話しかけられていることに戸惑いもあった。
きっと何か裏があるはずだ。
「この前、弟にぬいぐるみ取ってくれて、ありがとね!」
…あの時の小学生か。
あの真っ直ぐな笑顔の面影は彼女と少し重なる。
「お礼言いに行こうと思ったけど、あの時は何か急いでたみたいだったし…」
確かにあの日は、急いでいた。
「…しかし、よく俺と分かったな」
「店員さんが教えてくれたー」
一客の情報を勝手に話していいんですか?未来さん。
「まぁ、喜んでもらえて良かったよ」
自分の趣味で誰かが喜んでいるなら、それは素直に嬉しい。
「それでさ、お願いなんだけど…」
「ウチとゲーセン行ってくれない?」
その誘いに強引さはなく、その笑顔につい気持ちが緩んでしまう。
普段なら断っていたかもしれないのに、自然と頷いていた。
「ありがと!じゃあ、放課後ね〜」
そう微笑むと、笑心歌は手を振りながら教室を出ていった。
放課後へ少しの期待感と罪悪感が芽生えた。
教室では、終始退屈な声と机を叩く音が入り混じる。
黒板の文字を追いかけながらも、頭の中では、ここ数日の出来事が小さな波紋のように広がっていた。
未だ名前も知らない彼女、幼なじみ芽衣の想いと台風のようにやってきた梢。
そして、今日は、また違う女の子とゲーセンに行こうとしている。
教室の窓から眺める景色はいつもと違うはずなのに、どこかが違って見える。
この数式が少しずつ拗れて、難解になっていくように、平面だった世界に奥行きが生まれるように。
チャイムが鳴り、教科書を片付けていると、
「おーい、わくたーん!行こー!」
笑心歌が勢いよく教室のドアを開け、少し駆け足で近寄ってくる。
「俺はいつから、『わくたん』になったんだよ」
「いい感じでしょ??」
髪をなびかせながら、おどけて笑う。
「…お二人さん、どこへ行くんだい?」
突然、左肩が重くなる。
背後から腕が伸びて、逃げられないように力が込められている。
声の先に目を向けると、芽衣が怪訝そうな目つきでこちらを覗き込む。
その瞳には不思議な力が宿っていて、背中の傷が静かに疼くように、緊張が体を走る。
「…やあ、芽衣さん…」
梢の出来事から何を学んだのか、いや何も学べてはいないのだろう。
「メイメイ!やっほー!」
相変わらず笑心歌はテンションが高い。
芽衣もそれに合わせて、二人は少し談笑している。
「これから、わくたんにゲーセン連れてってもらうんだー」
悪意の一切ない一言で、空気が一瞬止まる。
「ふーん、へー」
大きな瞳は全く笑っていない。
ここにいると良くないことが起こるのは間違いない。
あの日見た視線から逃げるように、足早に教室を出た。
ほっと胸を撫で下ろし、校門をくぐる。
ゲーセンに向かう道は、話題が絶えなかった。
これも彼女の明るさがもたらす空気感なのだろう。
歩調を合わせて歩くだけで、いつの間にか自分も明るいリズムに巻き込まれていく。
笑心歌は5人兄弟で一番年上で苦労しているらしい。
この前の弟は末っ子だそうだ。
芽衣とは高1で同じクラスで仲が良かったようで、先ほどの様子を気にしているようだった。
「で、何が目的なんだ?」
「お菓子を取って欲しいんだ!」
「得意でしょ!?行ってみよー♪」
腕を掴まれ、強引にゲーセンに引き込まれる。
制服の皺は、しばらくしても残ったままだった。
「ちょっと、これ取りやすそう!一撃ゲットだって」
「はいよ」
ポッキーの箱束に輪っかがついていて、その穴にアームを通せればゲットできる設定。
アームの捩れ予測して、奥行き調整する。
巧みに調整されたアームは、見事にその狙いを捉えて、あっさり落下する。
「すごーー!こんな簡単に取れるんだ!」
笑心歌の歓声は周囲の視線すら引き寄せる。
離れた所から未来さんがこちらの様子を気にしているようだが、無視しておこう。
「まぁな、次欲しいものはあるか?」
「じゃあ、これ!メルティーキッスね!」
袋束が橋の上に置かれていて、少しずつ横向きにしていけば取れる。
チョコレートはふわっと優しい音とともに落ちる。
笑心歌はそれを取り出すと胸元で抱き抱えて、大袈裟に喜んでいる。
自分にとっては当たり前のことだが、こんなに喜んでもらえるとむず痒い。
「これおいしいよね!ウチにぴったりじゃない?」
「どこがだ?」
「うーん、儚い感じ?」
ふざけて笑う、その声の一端が少しだけ揺れた。
「…帰ろっか!」
「もう、いいのか?」
「うん!お金もなくなっちゃうし、ありがと!」
意外にもあっさりとその時は訪れた。
一瞬の出来事だったが、誰かと一緒にするクレゲが楽しいと初めて思えた。
ゲーセンを後にして、二人で歩き出す。
今日の収穫は兄弟達と分けるらしい。
しばらく歩くと、遠くに見覚えのある人影が揺れている。
それと同時に、背中からじっとり汗が滲んできた。
冷たい風が通り抜け、夕陽がかげりを帯び始める。
「じゃ、俺はここらへんで…」
俺を引き留める声が背中を刺す。
けれど、絶対に振り返ってはいけない。
──放課後の公園。子どもたちが去ったあとで、静けさだけが残る。
ベンチに並ぶ二つの制服姿は、雲の隙間から差す夕陽を浴びて、光と影が輪郭をはっきりと分けていた。
一人はカチューシャをつけて、視線を膝に落としている。
もう一人は、金色の髪を揺らして、遠くの茜空を見たまま、時折、友人を気にかけている。
「わくたん、行っちゃったね」
静かな声、寂しさが滲む。
「…最近、色んな女の子とゲーセン行ってるんだよね」
息が少し詰まる。
「まじ!?わくたん、やるねー」
明るい声が、ほんの少しだけ空気を軽くする。
少しの静寂が訪れる。
夕陽が二人の影を長く伸ばす。
「─メイメイ、わくたんのこと好きでしょ?」
静寂を裂くように、一瞬の風が吹き、木々たちがざわめきたてている。
「そ、そんなことないし!」
そう言ったあと、スカートを握る手に力が入る。
視線は伏せたまま、彼女の鼓動が沈黙の中で、いっそう大きくなる。
「いやいや、わかるよー!わかりやすすぎ!」
少し俯いたまま、静かに頷く。
「応援するよー!メイメイには、幸せになってほしい!」
「あと、一応言っとくけど、ウチは彼氏いるし…」
恥じらいを含んだ励ましは、そっと背中を押すようだった。
「ウチは、みんなの心を笑顔にしたいんだよ!」
「それが、ウチの役目なんだ」
言葉がこぼれ落ち、その余韻は公園の静かさに溶け込んでいく。
夕陽は影に隠れながらも、二人の影を長く伸ばしていた。
その影は、二人に寄り添っているようで、どこか遠く離れていくようで。
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