第22話 鷹司という人

「……もう、大丈夫」

 十数分は経過したのだろうか。真冬からお許しが出た俺は、もとのとおりに真冬と肩を並べる。真冬の声はまだ多少掠れてはいたものの、淀みなく霧が少し晴れたような芯の強さが感じられた。

「心配かけてごめんね。シノのおかげで、スッキリできた」

「こんな俺でも、お役に立てたようで何よりだよ」

 視界の端で真冬の表情を捉える。目元はまだ赤く、泣き腫らしたのだと誰が見ても容易に推測ができる。しばらく外の風に当たっていれば直に落ち着くだろう。

 おおよそ吐き出せた真冬と、特に話題のない俺。沈黙が訪れるのは必然で、二人して目先の水面が時折穏やかにさざめくのを目で追っていた。

「わ……っ」

 突風に煽られ、真冬が思わず声を上げる。等間隔に植わった木々が耳障りな音を立て、水面は波打ち岸辺で小さくはぜている。このあたりはもう既に葉桜となっているが、恐らくこの最後の春の嵐で春香はるかさんと会合した周辺の桜の花々は虚しくも散ってしまったのかもしれないと、ふと脳裏をよぎる。その証拠に、突如として吹いた風にようやく目を開けた時には、薄紅色の桜の花弁が一片。神水の上を揺蕩っていた。落ちかけた陽の光が水面に影を作り、春の終わりを告げていた。

「長居しちゃったな。そろそろ帰ろうか」

 日の傾きを現実のものとした俺は、真冬を拘束しすぎたと焦りを覚える。真冬の憂さ晴らしも兼ね、雨夜あまやプレゼンツの誤解を解こうの会の総まとめとしてちょっとだけ時間をもらうつもりだったのに。時間を見誤ったからこそ、俺は早口でそう提案する。

「そうだね。もうすぐ五月だけれど、まだまだ風も肌寒いし。風邪を引く前に帰ろ」

 わたしはもう家の敷地だけどね、とはにかみながら真冬が同調する。その柔らかな表情ができるようになったと思ったのも束の間。真冬の顔面が一瞬にしてこわばった。

 その尋常ではない態度の急変に、俺も真冬の視線の先をおもむろに辿る。いまだなお枝を揺らす木々の隙間から、一人。男が姿を現した。

「ああ! 真冬さん、ここにいたんだね」

 すらりと伸びた手脚に纏うは、見覚えのあるブレザーの学生服。首元にはネクタイが歪みなく締まり、直毛の髪は憎たらしい程に艶があり手入れが行き届いている。どこからともなく現れた他校の男子生徒は、立ち居振る舞いは上品に、けれども見え透いた下心を持ってこちらとの距離を縮めてくる。一言追加させてもらうなら、それでいて腹が立つくらいには好青年だ。

「……あ……」

 隣にいるからこそわかる、真冬の怯えや恐怖心。それなのに、真冬は反射で立ち上がり胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。

「誰だ、お前?」

 そんな真冬を見ていられずに俺も立ち上がると一歩前に出て、近づく男に問いかける。だが、その問いに返事はなくただひたすらに真冬一人を一心に注視するのみだった。

「おい! お前……」

 その態度が気に入らなくて、柄にもなく声を張り上げてしまう。それでいてもなお、男の視界には真冬しか入っていなかった。

「ねえ」

 その一声で、俺の言葉はあっけなくかき消される。意図的にかき消そうとしたのではない。ただ、真冬への呼びかけの延長線上に過ぎなかった。

 まるで俺は存在していない。そもそもこの世界はあの男と真冬との、二人きりの世界だと言わんばかりに。

「早く僕のものになっておくれよ……真冬、さん」

 ゾワッと、身の毛がよだつ。

 俺に向けられた言葉ではないと、わかっているのに。

 真っ直ぐに。純真無垢に。放たれた矢は深くまで心を抉っていく。引き抜かねばその毒に侵食され、引き抜けば傷口は塞がることなくとめどなくすべてが溢れ出ていく。

 そのギラついた眼は、俺の想像を遥かに超えていた。

――これが、鷹司たかつかさ沈来しずきなのだと。

「……ッ」

 真冬の声にならない息遣いで、俺はハッと我に返る。真冬は俺の影に隠れるように身を引いていた。振り返らずとも、真冬の警戒と畏怖の念は背中越しにひしひしと伝わってくる。

 コイツが、俺と同じ境遇の器。真冬の、器。

 先程聞いたとおり、会う度に同じ台詞を吐いて真冬を困らせているというのは本当だった。むしろ、その台詞が初対面であっても鷹司沈来を認識し得る証明になっていた。

「……おや」

 何を言っても聞く耳を持たないのであればと鷹司を睨みつける行動に移行したが、功を奏したのか初めて鷹司は俺をその視界に認識したようだった。

 いや、俺の読みは誤っていた。口元に手を当てて首を傾げている様子を見るに、俺の行動によって反応を変えたわけではない。俺によって真冬の姿が遮られて見えなくなったことで疑問を呈しているのか。それまで射るように一直線に真冬を見つめていた目線が、初めてゆらゆらと揺れ動き始めたのだ。

 本当に、周りが見えていない。否、『真冬』以外何も見えていない。

「真冬さんにこれまた大きな虫がついていますねえ。真冬さんとの逢瀬を楽しみにしていたのに。早急に失せなさい」

 放たれた言葉とは裏腹ににこりと笑みを浮かべる。それは表層上の笑顔にすぎない。鷹司の眼は本気だ。

「お前が真冬の器だかなんだか知らないけどな。こんなに怖がっている真冬をやすやすと渡すと思うか?」

 腕を広げて後方の真冬を庇う仕草をする。結果的に俺の発言は相手を煽るような形になってしまった気もするが、まあいい。そのくらいしないとこちらの言葉を耳に入れてくれさえしそうにないからな。

「ほう? 貴様も人類存続審判の関係者とでも言うのか? コア、はたまた器、か……」

 それまで真冬以外の事物に全く興味を示さなかった鷹司が、ピクリと眉を動かす。普通、器だの核だの知っている奴に出会う方が希少だ。それはコイツであっても例外ではないらしい。

 瞼をゆっくりと閉じて何かを思考する素振りを見せた鷹司は、再び瞼を開いた時には俺を通り越して背後の真冬だけを見つめていた。通り越してというよりは、まるでまた俺という存在が消えてしまったかのように、透明な人間であるかのように、障害物なんて全くないかのように。物理的には見えていないはずの真冬の瞳を捕らえて離さないように思えた。

「さあ。そのようなところでじっとしていないで。早く僕のもとへとおいで、真冬さん。僕とともにゆこう」

 鷹司の作る笑顔は、グロテスクだ。

 こうして柔らかな表情を作っていれば、何人たりとも自身の言いなりになると確信しているかのようだった。執着以外の何の感情も持ち合わせていない、空虚な笑顔。

 それにしたって、どうしてここまで真冬に執着するのだろうか。核がいなければ器は座して死を待つのみ。だから必要以上に核を欲するというのであれば理解はできる。だが、こうして対峙してその異常なまでの固執した下心に違和感を飛び越えて不可思議としか思えない。

 真冬が言っていたとおり、人類存続審判においては器と核が出会ってしまえば、選択肢は一つ。融合する他ないのだから、十八歳までの残り少ない時間を待っていれば自然と自身の生命の保証はなされるのだ。器であればなおさら、核と融合できれば十八歳よりも先を生きながらえる。それは春香さんが証明している。

 鷹司の一挙一動を間近にする限り、俺の疑問が尽きることはなかった。真冬が自身の手元にやってくるまで笑顔を絶やさず微塵も目線を逸らさない異常性は、俺がささやかな威嚇を続けている間永久に続くものだと思わせるには容易かった。

 数分は経過したのかもしれない。俺の背後でザリ、と。微かに地面を移動する音を耳が拾う。鷹司は目ざとく視線を俺から外すと、俺の隣に並んだ真冬を視界いっぱいに捉えた。

「待ちくたびれてしまったよ。でも、待った甲斐がありました。さあ、夕暮れも近い。ゆきましょう」

 自分は一国の王子様。そう言わんばかりにきれいに揃えた指先を真冬に差し伸べ、鷹司は軽く会釈をする。やっぱり、ストーカー気質というか、気持ち悪さを限界突破して恐怖の塊としか言いようがないくらい対処に困る奴だな。鷹司財閥の御曹司って奴はよ。

「お会いする度に申し上げておりますが、わたしはあなたとともには参りません」

 凛と。澄み渡る声があたり一面に広がっていく。

 それは恐怖に打ち勝ったのではない。恐怖を紛らわすため、恐怖を認識させないため。無理に声を張っていることは、微かな震えでわかる。

「真冬さんは相変わらず奥ゆかしいお方だ。そこがまた何とも愛らしい。僕が同じ高校に進学しようと提案した時もそうだったね。……僕と同じ道を歩まないから、そのような穢らわしい虫がつく」

 鷹司が、真冬の隣の俺を睨みつける。ギロリ、という擬音語がふさわしい。真冬が見える位置にいるにもかかわらず、初めて俺をその視界へと入れた。初めて、『人間』として俺を捉えたようにも思えた。

「……ッ!」

 隣で、真冬が咄嗟に息を呑む気配を感じる。鬼気迫る様子に俺は真冬に目を移す。硬直した真冬が怯える目線の先を辿ると、鷹司の左手を直視していた。

 その手には、鈍く光る得物が一つ。俺の心臓を確実に仕留めようと、上向きの切っ先は確固たる意志を持っていた。

「お、おい、鷹司! いやな冗談はよせって」

 突如として死の選択を迫られると、人はこうも哀れなものになるのだな。死亡フラグがビンビンに立った、語彙力皆無のモブに成り下がっちまうんだもんな。

「冗談? ……ッハ! これが冗談だと思うのかな?」

 思いっきり俺を鼻であしらった鷹司は、醜く顔を歪ませる。

「早急に失せろと、僕は言ったはずだ。だが、貴様はこの場に留まり続けた。つまりは、貴様がどうなろうと自己責任だろう?」

「馬鹿な真似はよせ。そんなことしたら、お前は真冬に会えなくなるどころか、融合もできず命だって……」

 御高説のたまう鷹司をこれ以上刺激しないように、冷静に。俺はトーンを落として説得にかかる。その実、ターゲットにされている心臓は不規則に早鐘を鳴らし、背筋は冷や汗でびしょ濡れだ。

「貴様一人がこの世から姿を消そうが、僕の人生には何ら影響はないのだよ。このくらい、財閥の力で一捻りだ。そもそも、貴様がこの世に存在していた記録さえなかったことにできる」

 俺を捉えた切っ先は鈍い光を湛えたまま、微塵も揺れずにいた。

「か、考え直せ、鷹司。俺が死んだって、お前に何ら影響はないことはよくわかった。だがな、ここにいる真冬はどうなる? ただでさえお前のことを警戒しているのに、俺を殺すとなれば、もう……」

「黙りたまえ」

 俺が真冬の名を口にした瞬間。高らかに笑っていた表情は一瞬にして無へと変わった。怒鳴りもせず叫びもしないが、その一言で鷹司の余裕はとうに消え失せたのだとわかった。

「僕は、早く真冬さんを手に入れなければならない。兄上を見返してやらねばならない。僕が世界のすべてだって、わからせてやらなければならない。僕が……」

 鷹司から嫌味ったらしい笑みが消えたと思ったら、ブツブツと何やら呟き始めた。多少距離があるから途切れ途切れでしかその内容は聞き取れなかった。聞き取れたとしても、俺にはその意味がさっぱりわからなかったのが実情なのだが。

 いつまでボソボソと呟いているつもりなんだと思いかけていたところ、左手の得物には右手が添えられた。今にも、飛んできそうな勢いだった。

「やめてッ!」

 真冬が、隣で叫ぶ声が聞こえる。

 ナイフが飛んできそうな勢いだと、俺は先程言った。それは誤りだった。

「え」

 俺が瞬き一つ終えた時には、既にその切っ先は光の速度で俺の脇腹めがけて飛んできていた後だった。鷹司は俺の顔面スレスレでほくそ笑み、脇腹に突き刺したそれをさらに深く抉る。

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