第16話 喫茶店

 翌日、土曜日の午後一時五十分。俺は集合場所の雨夜あまやのアルバイト先を目の前にしていた。

 指定された喫茶店は神水かみみず神社の参道のはずれに位置していた。参道沿いは土日となれば賑わいを見せているが、この喫茶店がある通りはある程度落ち着いて参拝客を迎えていた。それでも来る連休には、行くあてもなくなった人々が憩いの場を求めてここまで彷徨い溢れ返るさまがありありと目に浮かぶ。

 正面に門を構える店は参道沿いにある小綺麗なカフェとは異なり、レンガ調の外壁に蔦を這わせてレトロな雰囲気を漂わせていた。入口頭上には年季の入った一枚板の看板が店名を知らせていた。そうは言っても、サラサラと洒落た異国の文字が木板の上を走っているという客観的な事実しか俺の目は認識してくれなかった。扉の両サイドにあるアンティーク調の木枠に嵌められた分厚い窓ガラスから覗く限り、客の入りは少なそうだ。

「あ、シノ。遅れてごめんなさい」

 まじまじと雨夜のアルバイト先の品定めをしていると、離れたところから真冬の声が飛び込んできた。知らず知らずのうちに窓ガラスとの距離を縮めていた俺は、端から見たら不審者一歩手前だった。真冬の不思議そうな目線も相まって、耳がカッと熱くなる。

「俺も今来たところだから、そんなに走ってこなくてもよかったのに」

 俺から意識を逸らそうと、軽く息を弾ませていた真冬自身に話題を向ける。実際、俺がこの場所に着いてから時計の針はまだ五分しか経っていない。約束まで時間的な余裕は十分にあるから、真冬の呼吸を落ち着かせてからでも遅くはないはずだ。

「家の手伝いが長引いちゃって。でも、間に合ってよかった」

 ふうっと息を整えて真冬はホッと安堵の息を漏らす。家の手伝いってことは、神社にまつわる何かなのだろうか。何かと言っても俺の浅い神社知識の引き出しからは、御守りの授受とか広大な敷地の掃き掃除だとか、そんな仕事内容しか思い浮かばない。この後タイミングがあれば、真冬が忙しそうにしているお手伝いとやらについても聞いておきたいところだ。

「じゃあ、少し早いけど入っちゃおうか」

 俺は真冬に声をかけながら、喫茶店の扉を開く。カランカランと頭上で鐘の鈍い音が響き、明彩の低い空間へと誘われる。

「……お待ちしておりました」

 店員のうやうやしいお辞儀に出迎えられた俺と真冬は、ゆっくりと面を上げたその顔を見て思わず驚く。襟付きのシャツにチノパン、腰からロングエプロンを身に纏った全身黒尽くめのその店員は、俺たちと目を合わせるなり見慣れた笑顔を振りまいてきた。

「うわっ。雨夜か」

「うわって何だよ、うわって。まったく、傷つくよなあ。ここに誘ったのはオレなんだから、オレがいるのは当然だろ?」

 つい心の声が出てしまった。雨夜の言っていることは最もだけれど、実際にいつもと違う雰囲気を目の前にしてしまうと理性が追いつく間もなく反応してしまうものだ。

 雨夜はわざとらしくむくれてみせるも、真冬に目を移して笑顔を取り戻す。

「わあ。いつもと雰囲気が違うから、誰だかわからなかったよ」

 俺の隣で感嘆の声を上げた真冬もまた、雨夜の全体像を物珍しげに眺めていた。制服姿の雨夜しか見たことがなく、さらには丁寧な言葉遣いで接客モードと来れば、別人のように感じてしまうのも無理はない。俺だって、今でも違和感しかない。春香さんの前でも丁寧な口調で話してはいたけれど、あれはあの威圧感の中でそうする他なかったからだ。いつもの砕けた話し方ではない雨夜は雨夜らしくないと言っても過言ではない。真冬もそう思っているに違いない。

「へへっ、そうか? そういう真冬ちゃんも制服姿しか見たことがなかったから、私服姿も新鮮で可愛いね」

 真冬の反応が嬉しかったのか、雨夜は照れくさそうに笑う。一方の真冬は、雨夜のさりげない一言にほんのり頬を赤く染めているようだった。恥ずかしげもなくこういう褒めの言葉をサラリと言ってのけるところが、雨夜の気に食わないポイントの一つだ。

 今日の真冬は、白のブラウスにスリットが膝上まで入った黒のロングスカートでシックにまとまっていた。改めて全身を視界に収めてみると、スカートの切れ目から見える白い艶やかな肌に、ドキリと胸が飛び上がって直視できなくなる。普段学校でスカートと紺のハイソックスとの隙間から見える肌に慣れているというのにこの有り様だ。クソッ、これが健全なる男子高校生の性というものか。

 春香はるかさんが着物姿だったから勝手に妹の真冬も着物を常用しているのかと思っていたけれど、真冬だって普通の女子高校生だもんな。洋服でお洒落をしたい年頃だろうと、近所のお節介おばちゃん風になる俺を誰か止めてくれ。

 それにしても、真冬といい春香さんといい、どちらもどこか服装に大胆さがあるのは神水家の血筋なのだろうかとふと疑問に思う。あまりにも心臓に悪すぎると二人の前で声を大にして陳情したいくらいにはな。

「いつまでも立ち話していても何だし。……ゴホン。そちらの空いているお席におかけください」

 店内の通路を塞いでいた俺らに気づいて再び接客モードに切り替えた雨夜は、カウンター向かいの四人がけのテーブル席に案内する。年季が入ってますます重厚感が増している木製の長テーブルを、二人がけのソファが挟み込んでいた。俺は真冬と向かい合わせで腰を下ろす。ソファの柔らかい革張りの感触が心地よくこの身を包みこんでくれる。古めかしい喫茶店だと正直警戒していたけれど、オーナーの行き届いた手入れ具合により好感度は爆上がりだ。

 すっかり腰を落ち着けた俺と真冬の目の前に、雨夜が机上にある細身のメニュー表を広げて説明してくれる。

「今日の大本命は……これ。ラテアートが楽しめるカプチーノな。あとは、昼飯がまだならオススメはカレーかホットサンドあたりかな。デザートな気分なら……プリンアラモードとか美味いぜ」

 ううんと唸って雨夜はオススメを考えながら、メニュー表に載っている写真を指で示してくれる。この店の看板メニューや一押しの品には商品名とともに少し色褪せた写真をメニュー表に載せているようだった。カレーやホットサンドは銀の皿に乗っていていかにも昔ながらの喫茶店という見た目をしている。プリンアラモードも同じだ。だからこそ、食べる前から味の保証が既にされている安心感がある。こんな写真見せられたら、相場は美味いに決まっているってもんだ。

「今日は雨夜の奢り、って話だったよな?」

 心の中で垂らす涎をうっかり現実のものとしないように自分を律して、俺は昨日の雨夜の誘い文句を思い出して確認する。雨夜みたいにアルバイトをしているわけではないから、抑えられるならなるべく出費は避けたい。

「ああ。男に二言はないぜ。……と言いたいところだけど。大量に注文されちゃあ、オレの懐にも限界があるからさすがに出してもらうぜ。もちろん、真冬ちゃんは別だけどな」

「じゃあ、遠慮なく。カレーと、デザートにプリンでもつけてもらおうかな」

 パチリとウインクをかっ飛ばす雨夜をスルーして、俺はオススメどおりの注文をする。プリンアラモードではなくただのプリンにしたのは、一応雨夜の懐事情に俺なりに配慮した結果だ。とはいえきっちりデザート代も請求させていただくがな。

「わたしは家でお昼をいただきてきたから……。雨夜くんの言っていたプリンアラモードをお願いしようかな」

「かしこまりました」

 雨夜はメニュー表を机上のもとあった壁側に立てかけると、深々とお辞儀をしてカウンターの向こう側へと去っていった。カウンター越しにキッチンの様子を見るのは容易で、案内された席からは雨夜の作業する姿が丸見えだ。近くでは、この喫茶店のマスターらしき妙齢の男性が注文を受けて調理を始めていた。

「楽しみだな、雨夜くんの作るラテアート。どんな模様で来るんだろう」

 二人してカウンター越しに雨夜の姿を眺める。ゴオオとか、キュルキュルとか音を立てる機械を前にして雨夜は明らかに悪戦苦闘している。それに対して真冬が発した言葉には純粋な期待だけが詰め込まれていた。俺は実験台にされるわけだから、どんな突拍子もない模様が描かれたラテアートとやらが出てくるか楽しみでならないけどな。さすがにそろそろ一か月程度働いているわけだから、客に飲ませられないようなカプチーノを出してくるとは思えない。練習台の立場となってはいるが、味の保証がされているだけ安心ではある。

「お待たせいたしました。お先にカプチーノでございます」

 盛大に店内に響かせていた轟音から時間差で漂ってきたのは、空腹の胃を刺激するに相応しい深い苦みの香り。ミルクによって優しさを見せるようになった大人なコーヒーの苦みは、雨夜の再びの登場とともに目の前へとやってくる。普通食事と一緒か後に出てくるものだろうが、食事やデザートを差し置いて本命のカプチーノが一番乗りときた。これを飲んでまずは待てということなのか。

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