第6話 終わりに ― 嗅覚は物語のフロンティア
物語にはまだ、手つかずの領域がある。嗅覚はそのひとつだと、僕は思っている。
これまでの物語の多くは、視覚と聴覚を中心に語られてきた。映像化しやすいから、というのもあるだろうし、読者との共有が容易だからというのもある。色、形、声、音。これらは比較的言語にしやすい。だからこそ、僕らは“描きやすいもの”ばかりを描いてきたのかもしれない。
けれど、現実の体験はもっと複雑だ。記憶をさかのぼってみれば、あのときの夕暮れが焼きついているのは、光の色ではなく、風の中に紛れていた干した布団の匂いかもしれない。あるいは、誰かの背中を思い出すとき、そこにまとわりついていた整髪料の香りが、忘れがたい鍵になっているのかもしれない。
匂いは、視覚や聴覚よりも直接的で、曖昧で、個人的だ。誰かと同じものを見たと言えても、同じ匂いを「嗅いだ」と断言するのは難しい。だからこそ、物語として描くのが難しい。そして同時に、だからこそ描く意味がある。
物語の中で、嗅覚を言葉にする。それは、見えない記憶の扉をひとつずつ開いていく作業だ。僕自身、短詩「鼻をくすぐる」を書きながら、思いがけずいくつもの記憶と出会った。トウモロコシの匂いの向こうに、母の背中があった。炒飯の湯気の中に、学生時代のキッチンの暗さがあった。匂いは記憶を選ばない。嬉しかったことも、忘れたかったことも、すべてを同じ強さで鼻先に押し戻してくる。
そうやって、自分の中の匂いの記憶と向き合うことで、物語は自分の芯に触れてくるように思う。誰かに届く物語とは、自分から出発した物語だ。しかも匂いの描写は、読者にとっても「その人の匂いの記憶」を揺り動かす力を持っている。それが、嗅覚の物語が持つ静かな“強さ”だと感じている。
今はまだ、匂いを中心に据えた物語は多くない。けれど、描写の難しさを乗り越えて、そこに挑もうとする書き手が増えたらどうなるだろう。恋の始まりは、誰かの香水ではなく、コートの襟に残った煙草の残り香かもしれない。事件の真相は、目撃証言ではなく、庭に残された土の匂いかもしれない。あるいは、別れの気配は、冷めたコーヒーの香りに宿るのかもしれない。
物語は、まだ誰も気づいていない感覚を拾い上げることで、新しい地平を拓く。
もし、あなたの中に、いまだ言葉にされていない匂いの記憶があるなら、それを物語にしてみてほしい。比喩でも、擬音でも、実験的でもかまわない。その匂いを描こうとする試みそのものが、新しい物語の扉を開くはずだ。
嗅覚は、言葉にならないものを描くためのフロンティアだ。誰かの背中を、時間の流れを、まだ語られていない人生の輪郭を、僕たちは“匂い”で描くことができる。
だから今こそ、「匂い」を描こう。
あなたの中の匂いを、ぜひ物語にしてください。
匂いを描くという冒険 ― 嗅覚がひらく物語の扉 青月 日日 @aotuki_hibi
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