第5話 未開拓の「嗅覚的物語」アイデア集

 物語を描くとき、つい視覚や聴覚に頼ってしまうのは当然のことだ。

 風景は「見える」し、感情は「声」に表れる。読者もそうした描写に慣れている。

 だが、もしあなたが創作をする人間なら、あえて描かれてこなかった感覚を扱うことに、創作の可能性を感じる瞬間があるはずだ。私はそれが「嗅覚」だった。


 この章では、私が考えた「嗅覚で物語をつくる」ためのアイデアを共有したい。

 どれもまだ粗削りで、いくつかはおそらく成立しない。だが、物語の断片として、あるいはキャラクター造形や設定の種として、何かのきっかけになれば嬉しい。

 創作の現場には、誰かの想像力を「うっかりくすぐる」何かが、いつも転がっている。


 ここに記すのは、私からのささやかな「贈り物」(テンプレート)だ。どうか、このアイデアの種を自由に使い、育て、あなたの物語として花を咲かせてほしい。物語の可能性は、分かち合うことでこそ豊かになるのだから。


「匂いの無い人間」はパトリック・ジュースキントの「香水 ある人殺しの物語」に登場するようです。


 ■ 犬の嗅覚とAR的世界認知

 犬の嗅覚は人間の1万倍〜10万倍とも言われる。

 だとすれば、犬にとって世界は「視覚」よりも「匂い」でできているのではないか。

 たとえば犬の視点で描かれた物語では、建物の輪郭や人の顔はぼんやりしていても、「昨日誰が通ったか」「持っていた感情」「食べたもの」が匂いで瞬時に読み取れる。

 これはある意味で、嗅覚による拡張現実(AR)であり、匂いのレイヤーが重ねられた世界だ。


 人間の主人公が、犬と同調する訓練を受け、匂いで世界を見る感覚を身につける。

 しかしその過程で、人間的な論理や倫理では処理できない情報の多さに翻弄されていく──そんな近未来SFも描けるかもしれない。


 ■ 匂いの記憶がすべての事件の鍵になるミステリ

 嗅覚が記憶と結びついていることは、脳科学でもよく知られている。

 だからこそ、「嗅覚の記憶」を軸にしたミステリは成り立つ可能性がある。


 たとえば被害者の残した「最後の記憶」が、ある香水の香りだったとする。

 しかしその香水は既に廃番になっていて、普通の人には手に入らない。

 あるいは、容疑者の中に唯一「嗅覚障害」を持つ人物がいることで、状況証拠に矛盾が生じる。


 香水・洗剤・煙草・ペット・料理──こうした微細な匂いの痕跡を「嗅覚探偵」がたどっていく物語。

 文字だけでは伝わりづらい分、読者自身の記憶にある匂いが補完してくれる構造になるかもしれない。


 ■ 嗅覚を失った人と取り戻す人のすれ違いを描くドラマ

 嗅覚は失われることもある。風邪、事故、加齢、あるいはパンデミック。

「嗅覚の喪失と回復」というテーマは、個人の再生や喪失感を描くドラマに向いている。


 たとえば、ある夫婦がすれ違っている。

 妻は嗅覚を失って久しく、「あなたの匂いがわからない」と言う。

 一方で夫は嗅覚を取り戻し、周囲の匂いに過敏になっていく。

 一緒に暮らしているのに、感じている世界がまったく違う──という構図。


 ここでは匂いが「親密さ」と「距離感」の象徴として働く。

 嗅覚という見えない感覚の差が、関係性の裂け目になる。

 これを心理ドラマとして描けば、読み手の「感覚の共通基盤」を問い直すことができるだろう。


 ■ 嗅覚を“読む”人(匂いの手紙)

“匂いを読む”という発想も面白い。

 それはただ香りを嗅ぎ分けるという意味ではなく、「誰が、何のために、どんな気持ちでこの匂いを残したか」を読み解く技術だ。


 香りつきの手紙、焼け焦げた服の匂い、床に残った足跡のような香り。

 ある特殊な職業の人間が、こうした匂いの痕跡を読み取っていく。

 それは郵便でもあり、暗号でもあり、過去から届くメッセージでもある。


 ファンタジーでも、スパイものでも、サスペンスでも成立する。

 匂いという「時差のある感覚」を、手紙という遅延的な媒体に重ねる構造が鍵になる。


 ■ 嘘をつく匂い vs. 真実を隠す無臭

 人が嘘をつくときに、微かに変わる匂いがあるとしたら?

 逆に、何も匂いを発さない人間がいたとしたら?

 これは、真実とは何かという問いを嗅覚で語る物語になり得る。


 感情や緊張が発汗を通じて微かな匂いを放つ。

 それを探知できる能力を持つ者は、尋問や交渉で常に優位に立つ。

 しかし、ある事件で「まったく匂いを発しない人間」が現れたことで、世界の秩序が崩れていく──。


 この構造では、匂い=感情のトレースという意味で、非常に演劇的な場面も描ける。

「話している内容」より「その人から立ちのぼる匂い」が本心を語る世界。


 ■ 失われた共通語としての「匂い」

 古代には、言葉よりも「香りの意味」が文化の中心だった──という仮説から始める物語。


 たとえば、ある遺跡から発掘された香料が、当時の「契約書」のような意味を持っていたことが判明する。

 あるいは、香りで意思表示する民族がいたが、その香料を調合できる植物が絶滅してしまった。


 ここでは「失われた匂い=失われた文化・記憶・関係」として描くことができる。

 言語を描く代わりに、香りの再構成を通して古代人の心に迫る考古ミステリも面白い。


 ■ 感情が匂いで現れる世界(恋愛・社会秩序)

 この世界では、感情が必ず匂いとなって現れる。

 喜びは柑橘、怒りは鉄、愛はミルクのような香り──という設定だ。


 この社会では、感情を偽ることが難しくなる。

 恋愛は「香りの相性」で左右され、裁判は「香りの証言」が通用する。

 一方で、「無臭の人間」は危険視され、排除される。


 この設定で描けるのは、感情の可視化=制御不能な真実の暴露という構造だ。

 ときにそれは純粋さであり、ときに抑圧でもある。

 社会秩序や差別のメタファーとしても機能するだろう。


 ■ 匂いのアーカイブを持つ図書館

 ある図書館では、本に「匂いの記憶」がアーカイブされている。

 本を開くと、その場の空気、登場人物の感情、あるいは書き手がいた部屋の匂いまでが再生される。


 この匂いアーカイブは、時を超えて読者の身体に直接訴えかける。

 だがある日、一冊の本から「失われた匂い」が漏れ出し、図書館に異変が起きる──。


 ここでは、物語を読むとは何か、記憶を読むとは何かを再考するメタ的構造が描ける。

 読書行為そのものが、匂いによって「身体の体験」になる設定だ。


 ■ 嗅覚しかない世界に生きる生物の視点で書く物語

 最後に、最も根源的な物語の可能性として。

 視覚も聴覚も存在せず、嗅覚だけで世界を認識している生物の視点で語る物語はどうだろうか。


 彼らは方向や時間、距離、他者の感情、過去の痕跡、すべてを「匂いの濃淡や変化」で捉える。

 色も音も言葉もないが、匂いの世界は豊かで複雑だ。


 この視点で書かれた物語は、読者にとってまったく新しい感覚の地平を開くことになるだろう。

 一切の視覚表現を使わず、匂いだけで構成される小説──

 これは極端ではあるが、言葉の限界を試す創作として、非常に挑戦的で魅力的な試みだと私は思っている。


 ここで紹介したアイデアの多くは、まだ実現されていない。

 だからこそ、他の創作者の想像力に届いてほしいと願っている。

 匂いは、まだ物語の中でほとんど言葉になっていない感覚だ。


 だが、その曖昧さと主観性こそが、物語に深みと余白を与える。

 あなたの記憶の奥にある香りが、物語になる日を待っている。

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