第4話 嗅覚を描くための言葉探し

 嗅覚を物語で描こうとすると、どうしても「何かに似ている」と言いたくなる。「甘いバニラのような」「土埃のような」「焦げたパンのような」。けれど、それでは描ききれない、いや、描いたような気になってしまうだけかもしれない——そう思って、僕は「比喩」を少し脇に置くことにした。


「甘い香り」より「鼻の奥がざらっとする」

 匂いを比喩で語るのは便利だが、どこか借り物の感覚がある。誰かの言葉を借りて、「それっぽく」まとめるのでは、僕自身の鼻は動いていない。もっと言えば、僕の感じた匂いを、読んだ人が実際に「感じる」ことはできない。


 だから、僕は匂いの描写を、言葉の外側から始めることにした。鼻の穴をぴくりと動かすあの瞬間。息を吸い込み、鼻腔の奥に何かがひっかかる。とても主観的で、曖昧で、それでもはっきりとした“輪郭”を持っている感覚。たとえば、油に沈んだニンニクが焦げ始めたときの「喉の奥がざらっと熱くなる感じ」や、「風の中にまぎれたシソの青さが舌の奥に触れる感じ」。それらは“香り”ではなく、五感の混線だ。嗅覚を描くとき、僕はあえて嗅覚だけに閉じ込めない。触覚、味覚、聴覚、そして時間。


 擬音語・擬態語の再発見

 匂いに名前はない。でも、日本語には音がある。ぷつぷつ、じゅわっと、くんくん、ふわり、ぬるり。これらは厳密には嗅覚の語ではないが、嗅覚を呼び起こす助けになる。たとえば、「ぷつぷつと泡立つホットケーキの香り」より、「ぷつぷつと泡が弾けると、甘さが静かに膨らんでいく」の方が、記憶に近い。あるいは、「くさっ」という擬態的な驚きは、それ自体が嗅覚体験の言語化だ。そういう意味で、感嘆詞もまた、匂いの言葉になりうる。


 子どもが「くっさー!」と叫ぶとき、それは嗅覚だけでなく、全身の反応だ。嗅覚はとても原始的で、言語よりも早く脳を動かす感覚。だからこそ、表現の“素材”は、匂いそのものではなく、匂いに触れた身体そのものなのかもしれない。


 調理・風・発酵・焦げ・湿気・人肌…

 匂いには「環境」がある。焼ける、煮える、蒸れる、濡れる、乾く、腐る、熟す。そうした現象に伴う匂いは、時間の流れそのものだ。僕が「鼻をくすぐる」で描いたトウモロコシの匂いは、鍋に沈んでから湯が沸騰するまでの数分間の変化であり、チャーハンの匂いは油と火とごはんのなじみ方によって変わっていく。


 また、匂いは空間とも深く結びつく。台所の隅、風が通る窓辺、湯気がこもった風呂場、布団に染みついた洗剤の残り香。それらは空間と時間の交差点にいる。つまり、嗅覚は“点”でなく、“流れ”を描くことが必要なのだ。


 そう思ってから、僕は匂いの描写に「時制」と「空間性」を強く意識するようになった。いま、ここ、という瞬間を切り取るのではなく、「それがやってきて」「とどまり」「去っていく」までを描く。そうすると、匂いがただの情報ではなく、“風景”として立ち上がってくる。


 記憶の層を意識する

 嗅覚は記憶と直結している。よく知られている話だが、僕も実際、書いてみて強く感じた。トウモロコシをゆでる匂いを書くと、幼い頃の台所の風景がぼんやり浮かぶ。牛肉の焦げる匂いには、高校生の頃の誕生日が、玉ねぎの甘い匂いには、ある別れの日の夕飯が。書いていると、こちらが匂いに語られているような気がしてくる。


 だからこそ、匂いを描くときは「記憶の層」を意識する必要があると思っている。それは単なるエピソード回想ではなく、匂いによって“呼び起こされた”記憶。本人も気づいていなかったような、潜在的な記憶の引き出しを、匂いがカチリと開けてしまう。物語の中でそれが起きるとき、登場人物は“自分”を思い出し、読者は“過去の自分”に出会う。


 嗅覚は、物語の中で最も密やかに、しかし深く読者に作用する感覚だ。目立たず、語られず、それでいて確かに存在している。言葉にならない何かを描くとき、それはむしろ言葉の本質に近づいている気がする。


 言葉にならないからこそ、言葉にしたい

「鼻をくすぐる」という言葉には、まだ“名”のついていない感覚への憧れがある。名前を持たないからこそ、そこにはたくさんの余白がある。物語を書く僕らにとって、その余白は新しい表現の入り口だ。匂いを描く言葉は、まだ誰のものでもない。だからこそ、描く意味がある。


 この匂いは、どんな言葉にすれば届くだろう。

 誰かがまた、違う匂いを描こうとするとき、

 その問いの続きとして、この文章があればと思う。

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