第3話 試みとしての「鼻をくすぐる」
創作初心者が「匂い」を描こうとするとき、真っ先に思いついたのが「食」だった。
食べ物は、もっとも身近な香りの源だ。朝の台所、夜のコンビニ弁当、友人と囲んだ鍋……多くの人が、食べ物とともに記憶や感情を持っている。
そこで私は、匂いと食と日常という三点を軸に、短い詩のような文章を書いてみることにした。タイトルは『鼻をくすぐる』。
内容は、休日の台所に漂う4つの料理の匂い──とうもろこし、スタミナチャーハン、ステーキ、ホットケーキ──それぞれを、描写の練習として書き分ける試みだ。形式は短詩。情景描写に徹しつつ、匂いと感情の連動に意識を向けた。
【とうもろこし】──「夏になる匂い」
このパートでは、「とうもろこしを茹でる匂い」が静かに部屋を満たしていく様子を書いた。
部屋中に広がったとうもろこしが鼻をなでる。
もうすぐ部屋中が夏になる。
とうもろこし自体の匂い──甘くて青くて、少し青臭いような──を直接的に語るのではなく、「夏になる」と表現することで、その香りが呼び覚ます季節感や時間の記憶を引き出そうとした。
ここで意識したのは、「匂いは時間と結びついている」ということ。読者がとうもろこしの匂いを嗅いだ経験があれば、「夏」「朝の食卓」「子どもが起きてくる音」など、いくつかの情景が脳内に広がるはずだ。
また、「芯まで黄色くしたい」という一文は、料理の進行を描くと同時に、誰かへの気遣いや愛情のような感情も滲ませたつもりだ。匂いが「行動」の背景を照らし出す、という視点もここで初めて使ってみた。
【スタミナチャーハン】──「笑ってしまう匂い」
次に書いたのが、にんにくを炒める匂いが立ちのぼるチャーハンの描写。
焦げたニンニクが鼻をくすぐって、つい笑ってしまう。
ここでは、「くすぐる」という身体感覚と、「笑ってしまう」という感情の揺れをセットで提示している。匂いというのは、ときに理屈ではなく、反射的な感情を引き起こす。
特にニンニクやネギのような香味野菜の匂いは、食欲と同時に、少しした罪悪感や照れのような感情も連れてくる。
「チャーハン」という庶民的な料理にあえて取り上げたのは、日常性を保ちながら、匂いの立ち上がりの強さを描く練習として適していると考えたからだ。
また、「誰かがドアを開ける音がする」という一文は、匂いによって空間が「共有される」瞬間を描写している。匂いは空間を媒介し、そこに人の気配を生み出す。五感のうちで、これほど「誰かとつながる」感覚を持つものは他にないかもしれない。
【ステーキ】──「空気が変わる匂い」
ステーキのパートでは、肉の焼ける音と、醤油バターの焦げた香りが部屋の雰囲気を一変させる様子を描いた。
じゅう、と音が鳴ると、家の空気が変わる。
焦がし醤油バターが鼻をくすぐり、
そのまま胸の奥まで届いてくる。
この「空気が変わる」というのは、単なる香りの変化ではない。
料理を始めた人の集中、他の家族の「そろそろ晩ごはんか」という意識の切り替え、空腹を感じる身体の準備──そういった複数の反応が、家全体の空気感を変化させる。匂いが「場のトーンを変える装置」として機能することを意識して書いた。
「胸の奥まで届いてくる」という表現は、香りが鼻腔を超えて、身体の内側に触れてくるような感覚を伝えるための比喩だ。これは視覚や聴覚ではなかなか起きない。嗅覚特有の「侵入性」を、文章でどう再現できるかを試してみた部分でもある。
【ホットケーキ】──「日曜日が焼けていく匂い」
最後のホットケーキは、朝でもなく、夜でもない、「休日のおそめの朝」や「午後のおやつ」といった、ゆるやかな時間の香りとして描いた。
しずかに日曜日が焼けていく。
金色の匂いをとろり垂らす。
ここでは、ホットケーキの匂いそのものを、あえて「金色」と表現した。
甘く香ばしい匂いを、そのまま味や素材の名前で描くのではなく、色と質感で伝える手法だ。
この手法は、視覚的な表現と嗅覚的な印象を重ねることで、読む人の中に感覚的イメージを呼び起こす意図がある。
また「また作ってね」と言われるまで──という最後の一文は、香りによって生まれる人間関係、つまり「誰かに求められること」「もう一度この時間を繰り返したいという願い」を、静かに語るものだ。
このように、『鼻をくすぐる』では、匂いそのものよりも、匂いがもたらす情景の変化・感情のゆらぎ・時間の濃度を描こうとした。
詩という短い形式を使ったことで、匂いを説明せず、余白の中に託す形で読者の記憶に語りかける表現が成立しやすかったと思う。
もちろん、まだまだ課題はある。
匂いの語彙は限られているし、読者の嗅覚経験に依存してしまう部分も多い。
だがそれでも、匂いが読者の中の「身体を伴った記憶」に触れる可能性を持っている以上、言葉にする価値は十分あると思っている。
文章から匂いが立ちのぼる。
その瞬間を、いつかもっと自在に作り出せるように。
この試みは、私にとって創作の出発点になった。
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