第三話:笑ショウメン面ー前

 朝の光がカーテンの隙間から射し込み、薄く開いた窓から朝の匂いが流れ込む。


 食卓には、トーストとスクランブルエッグ、湯気を立てるコーヒーの香り。僕は片手でマグを持ちながら、目の前の光景にまだ慣れきれない自分を自覚していた。


 向かいの席には――人の姿になった千歳ちとせ


 黒髪は肩でさらりと揺れ、羽織に浮かぶ風紋が、朝日に淡くきらめいている。カップを持つ指先は細く、動作は無駄がない。


 まるで長年こうして朝食を共にしてきたかのような自然さだ。


 記憶がないという割には、やけに現代に馴染んでいる。コーヒーのブレンドだって、僕より正確なんじゃないか。


 千歳がカップを口元に運び、微笑んだ。


「碧、コーヒーというものは絶品だ。この苦味と甘味の均衡……人の嗜好は奥深いが、とても心地よい」


 愛好家みたいなことを言っている。


「……気に入ったのか? それはよかった」

「うむ。最高の一日は、最高の朝から、とな」


 その言い回しに、思わず口元が緩む。冗談めかしているようで、けれど千歳の声には、どこか本気の響きがあった。


「今日は午前中で授業終わるから、午後は図書館で調べ物でもするよ。怪異のこと、もう少し知っておきたいし」


 そう告げると、千歳が少しだけ目を細めた。


「知ることは、選ぶことの助けとなろう。……ゆめゆめ軽んじるな」


 その声音は、春の朝の空気に溶け込みながらも、不思議な重みを持って響いた。



 ◆


 大学の図書館は、ぐっと静けさを増す。


 高い天井から差し込む春の日差しが、閲覧席の机に淡く影を落としていた。


 午前の講義中も気になったが、今日は鏡花きょうかの姿をまだ見ていない。


 時間割はほとんど同じのはずなのに、こうして顔を合わせない日は珍しい。


 先日も何か相談があるようだったし、調べ物の後にでも連絡してみよう。


 僕は館内の一角、民俗学や文化人類学の棚の前で立ち止まり、数冊の背表紙を眺めていた。


 “付喪神”“モノノケ”“道具霊”……先日の出来事がなければ、まず手に取ることもなかっただろう本ばかりだ。


 鞄の中には千歳がいる。人の姿は目立ちすぎるからと、大学の敷地内では扇子の形に戻ってもらっている。


 鞄の中で静かにしてくれているけれど、彼女の意識は起きていて、こちらの気配を絶えず感じ取っている。


 手に取った古びた民間伝承集のページを繰ろうとしたとき、不意に後ろから名前を呼ばれた。


「……常磐木ときわぎくん?」


 振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。


 大学の同級生、仁藤梨音にとう りおん


 講義が何度かかぶった程度で、少し言葉を交わしたことがあるくらいの距離感。


 たしか、舞台系のサークルに入っているという噂を聞いたことがある。


 長めの前髪を耳にかけた仕草が印象的で、いつも笑顔を絶やさない、物腰の柔らかい子だ。


 でも今、その笑顔の奥に、わずかな翳りのようなものを感じる。


「あ、こんにちは。仁藤さん。」


 僕は本を胸に抱えながら軽く会釈を返す。


「こんな本読んでるんだね。……なに、民間信仰とか?」

「うん、まあ。最近ちょっと興味があって」


 彼女は一瞬ためらったように視線を泳がせ、それから少し声を潜めた。


「……ねえ、もしかしてなんだけど、霜垣堂に出入りしてたりする?」


 不意に核心を突かれて、僕は思わず目を見開いた。


 霜垣堂のことを知っている人間が、こんな近くにいるとは思ってもいなかった。


「どうして、それを?」

「この間、偶然……放課後の坂のところで、君があのお店に入っていくのを見かけたの。あのあたり、なんていうか、ちょっと普通じゃない雰囲気あるじゃない?」


 彼女の目は好奇心というより、切実さに近い何かを孕んでいる。


 ただの噂好きが話しかけてきたのではない。これは――本当に、困っている人の目だ。


「……少しだけ、関わりがあるよ。何か用でもあった?」


 そう言うと、彼女はほっとしたように息をついた。


「よかった……実は、ちょっと変なことがあって。もしよかったら、詳しい話、相談させてくれないかな?」


 彼女の笑顔は変わらず柔らかい。けれどその奥に、どこか“ヒビ”が浮かんでいるようにも見えた。


 ◆


 霜垣堂しもがきどうの扉をくぐった瞬間、空気が変わる。


 古びた木の香り、静けさに溶け込んだ埃の匂い。喧噪とは無縁の、時間が積もった空間。


 カウンターの奥では、鶴代つるよさんが黙々と三味線を直していた。


 胴の皮は張り替えられ、切れていた糸巻きには新しい絃が通されている。


 その手つきは驚くほど丁寧で、ひとつひとつの所作にためらいがない。


 あの時、怪異となって彷徨っていた三味線が、今はこうして静かに手入れされている。


 僕は、胸の奥でほっとした安堵とともに、鶴代さんの“道具と共に生きる”ような温度を感じて嬉しかった。


 気配に気づいたのか、鶴代さんは顔を上げ、ゆっくりとこちらへ微笑む。


「いらっしゃい。……おや、お連れさま?」

「こんにちは。えっと……大学の友人で、ちょっと話を聞いてもらいたくて」


 僕がそう言うと、仁藤さんは少し緊張した面持ちで軽く会釈をした。


「ようこそ。まあ、まずはお茶でも。ここは風変わりな店だけれど、怖がるような場所じゃないからね」


 そう言って、鶴代さんは静かに席をすすめる。


 ほどなく湯気の立つ湯飲みが僕たちの前に置かれた。


 仁藤さんはカップを両手で包み込むように持ち、少し息を落ち着けてから口を開く。


「はじめまして。仁藤梨音と言います。……あの……最近、毎晩、同じ夢を見るんです」


 僕と鶴代さんが黙って耳を傾ける。仁藤さんは言葉を選びながら続けた。


「夢の中で、私は大きな舞台に立たされています。観客席は暗くて、誰がいるのかは見えないんですけど……笑え、って、ずっと言われるんです」

「……笑え?」


 鶴代さんが聞き返す。


「はい。笑顔を作らないといけないんです。最初は、優しく励まされているみたいでした。でも、日が経つごとに、それがだんだん命令みたいになってきて……。笑え、もっと笑えって。顔の筋肉が痛くなるくらい、無理やり笑わされる。目の奥が乾くまで、ずっと」


 僕は無意識に背筋を伸ばす。これはただの悪夢じゃない。感情が染みついた何かが、彼女を蝕んでいる。


 仁藤さんは小さく息を吸って続けた。


「一つ思い当たるのが……家に飾っているお面がなにか不吉なんです。高校の学芸会で主役を演じたときに着けたものなんですけど、とても愛着があって飾ってるものなんです。


 普段あまり自信を持てないんですけど、学芸会でそのお面をつけて演じたときは、自信いっぱいになることができたんです。


 それからはずっと、部屋に飾ってきました。鏡みたいに、毎日見て、自分に問いかけるんです――『大丈夫?』『今日も笑えてる?』って。


 落ち込んだ日も、試験や面接の前も……あの面を見ると、不思議と元気になれたんです」


 けれど、と小さく首を振る。


「でも、最近、その面を見ると……前よりも、笑顔を強く求められているような気がするんです。まるで、『もっと笑え』って、中から命じられているみたいで」


 鶴代さんは、仁藤さんの話を最後まで静かに聞き、わずかに目を伏せた。

 その横顔には、すべてを見通すような静かな憂いが差していた。


「なるほど……」


 短く呟くと、僕の方をまっすぐに見る。


「碧くん。この件も、君に任せてもいいかい?」


 その言葉に、仁藤さんが驚いたように目を見開いた。


 ただの案内役だと思っていたはずの僕に、役目が託されようとしていることが信じられない様子だった。


 僕は扇子を見下ろし、小さく息をつく。


「それじゃ――いくよ、千歳」


 扇子が微かに震え、風の気配とともに人の姿が現れる。


 仁藤さんはその変化に、今度こそ声を上げかけて、けれど寸前で飲み込んだ。

 ただ、その目は驚愕に見開かれている。


 千歳は静かに仁藤さんへと頭を下げた。


「舞台の情景……そして、笑顔に宿る歪み。確かに、情念の匂いを感じる。心配ない――必ず、そなたを悪から解き放なとう」


 その言葉は、春の風のように、仁藤さんの緊張をそっとほどいていった。


 ◆


 その日の夜、僕は仁藤さんの家を訪れていた。


 両親は外出中とのことで、家にいるのは僕と仁藤さん、そして千歳だけ。


 鶴代さん曰く、


「一度怪異に出会うと、怪異現象に引き寄せられやすくなる。知らなきゃ知らない方がいいよ」


 とのことだ。なるべく人を巻き込むわけにはいかない。


 廊下を抜け、案内された部屋は、温かみのある色合いで整えられていた。


 木製の棚や小物、家族写真が目に入る。几帳面に片付けられているのに、不思議と居心地が悪い。


 僕はさらにあたりを見渡した。


 壁の中央、高さちょうど視線の位置に飾られた、能面のような造形の“笑面”。


 白い頬に、わずかに上がった口角。柔らかい笑みのはずなのに、照明の角度や見る位置によって、その笑顔は不気味にも見えた。


 目の奥が笑っていない――そんな錯覚すら覚える。


「これが……」


 僕が視線を向けると、仁藤さんは少し恥ずかしそうに笑った。


「うん。高校の学芸会で、主役やったときに使ったお面なんだ。……あの時は、緊張もあったけど、初めて“堂々と笑える”って思えた日でさ」


 その声はどこか懐かしさと誇らしさを帯びていた。


「それからずっと、こうして飾ってるんだよ。さっきも言ったけど、鏡みたいに毎日見て……辛いときは、この笑顔見て、自分も笑わなきゃって思ってた。そうすると不思議と、ちょっと元気になれて……両親も、それ見て喜んでくれてたし」


 その言葉の奥に、家族を安心させたい気持ちと、自分への課した“役目”のようなものが見える。


 たぶん仁藤さんは、ずっと周りの期待に応えようとしてきたんだ。


 彼女は笑顔を作ろうとしたが、その口元はわずかに引きつっていた。頬の筋肉が不自然にこわばり、目元の光がほんの少し揺れる。


 ――これは、無理をしている笑顔だ。


 その瞬間、千歳がわずかに眉をひそめ、笑面に視線を向けた。


「……魂の気配がある」


 低く抑えた声が、僕と仁藤さんの間に落ちる。


「悪しきものではない。むしろ――主を愛する純粋な願いが宿っている。だが、その情念が、あまりにも深く、強すぎる」


 純粋な願い……怪異に?


 僕は胸の奥にざらついた感覚を覚えた。


 怪異といえば、恨みや悲しみ、負の感情が形を取るものだとばかり思っていた。けれど、“善意”が歪んでしまうこともあるのか――。


 視線を笑面に戻す。


 その微笑は、仁藤さんを励まし続けてきたのかもしれない。


 だが今、その笑顔は、彼女を縛る鎖にも見えてくる。


 ◆


 仁藤さんは、笑面を見上げたまま、ぽつりと呟いた。


「……最近さ、前みたいに心から笑えなくて」


 その横顔は、明るい部屋の照明に照らされているはずなのに、どこか影を落としていた。


「大学じゃ、みんなそれぞれ頑張ってて……私もちゃんとしなきゃって思うけど、空回りばっかりでさ。……気づくと、無理やり笑ってることが増えたんだよね」


 口元に浮かんだ笑みは、やはり少し引きつっている。


「それで、あの面を見ると……笑わなきゃって思う。でも最近は、なんか……」


 そこで言葉を飲み込む。


 千歳が一歩、前に出た。


「……なんか?」


 と僕が促すと、仁藤さんは視線を落としたまま続けた。


「同じ夢を、何日も見るんだ。……私、舞台に立たされて、観客に囲まれて……ずっと笑顔でいなきゃいけないの。止めることもできないし、怖くても泣きたくても……笑わなきゃ、って」


 彼女の声は震えていた。


 その瞬間、壁の笑面がわずかに鈍く光った。


 僕は思わず息を呑む。


「……碧」


 千歳の低い声。


 笑面の口元が、部屋の明かりに照らされてわずかに揺らいで見える。まるで、その笑顔が仁藤さんに応えるかのように。


 次の瞬間、空気が一変した。


 胸の奥に、じわりと温かいものが広がる――いや、違う。これは笑面から発せられている。優しさにも似ているが、強すぎる。


「っ……!」


 視界の端がにじみ、色が溶けるように変わっていく。


 壁も床も天井も、光の粒に解けていき、代わりに現れたのは赤い緞帳どんちょうと無数の観客席。


 仁藤さんが小さく悲鳴を上げ、僕の腕を掴んだ。


「ま、まさか……嘘でしょ……!」


 舞台の中央に立たされスポットライトを浴びている。足元には冷たい光が差し込む。

 観客の顔は見えない。ただ、暗闇の中から視線だけが突き刺さってくる。


 そのとき――


『舞えよ、舞え。されば、笑顔であり続けられる』


 笑面の声が、はっきりと頭の奥に響いた。


 空気が張り詰め、舞台の上に押し込められる感覚が強まっていく。


 足は重く、視線は前に固定されたまま動かせない――。

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