黒曜の華は夜に咲く。 〜絶望の淵で出会ったのは、不器用すぎる男でした〜

天御夜 釉

第1話『夜の静謐に咲く』

 ――白木の鏡台の前に立つと、夜の帳の中にひときわ冴えた女の輪郭が浮かぶ。


 二条カガリ、38歳。

 遊郭「雅」の二代目支配人。

 その名を聞けば、かつての艶女を思い浮かべる者も少なくない。

 いや、“鬼舞姫”と呼ばれたあの伝説の女を。


 だが今、彼女はかつてのように飾り立てた姿ではない。

 むしろ、最低限の身支度にとどめていた。にもかかわらず、鏡の奥には、どこか神聖で――ひどく色気に満ちた女が立っている。


「……まったく。歳を取るのも悪くないわね」


 そう独りごちながら、唇に朱を引いた。

 滑らかな肌に映える赤――艶やかで、鮮やかで、それでいてどこか哀しげな色。


 見た目は25を少し越えたばかりに見える。

 だが、その体には、年月が刻んだ艶があった。

 胸元には、和装に収まりきらない豊満な膨らみ。布の上からでもはっきりわかる重みがあった。

 女としての成熟をそのまま誇るかのようなプロポーション。

 細腰から流れるようなヒップライン、そして柔らかな腿。

 その全てが、決して若さでは得られない“女の完成形”を示している。


「若さだけが取り柄の子は、この姿を真似たがるけれど……ふふ、無理もないかしら。あたし自身、五年前まではこの身で“売って”たんだもの」


 指先で、緋の襟元を少し緩める。

 着物の中に仕込んだ白襦袢が微かにのぞく。

 そのわずかな肌の見せ方――そのわずかな“隙”すらも、計算のうちだった。


 “女はすべてを見せてはならない”

 それが、彼女が“雅”で娘たちに教えていることのひとつだった。


 ――奪われるのではなく、選んで与える。

 その駆け引きの上に立つ者こそが、ほんとうの遊女なのだと。


「私が“鬼舞姫(きぶき)”と呼ばれていた頃。舞ひとつ、視線ひとつで、男たちは膝を折ったわ。……あれは、誇らしかった。けれど同時に、孤独でもあったの」


 その声に、過去を悼む色はない。

 すでにその時代を超えた者の、確かな視線だった。


 廊下を歩けば、艶やかな香が揺れる。

 彼女の歩き方は静かで、優雅で――だが、その一歩一歩が「雅」という屋敷に緊張を走らせる。


 支配人の動きは、そのまま屋敷の律動だった。

 朝の準備、夜の迎え、女たちの心の波立ちを整えるのも、彼女の役目だ。


「支配人、おはようございます」

 襖の向こうから、若い声がする。

 まだ水揚げ前の少女。ほんの半年前に引き取ったばかりの、行き場のない娘だ。


「おはよう。今日は稽古が先ね。舞の型は入った?」

「昨日より少し、柔らかくなったと思います」

「……そう。なら、その“少し”を、今夜には“確信”に変えることね。

 女の体は、“確信”のない仕草に色はつかないわ」


 それは、単なる技術ではない。

 心のあり方が、そのまま動きに滲み出る世界だった。


 彼女は、かつてその“確信”だけで、男たちを夢中にさせた。

 ひとりの女が、舞の一振りで100万の価値を持つ。

 そんな世界の頂点――最高位である『艶華』として、彼女は“鬼舞姫”の異名と共に5年も君臨していた。


 だが今、彼女は教える側だった。

 それも、ただ“色”を教えるだけではない。

 男の嘘を見抜く術、買われることの意味、自らを“売る”のではなく“選ばせる”力。

 それが、彼女の教える“生き抜く力”だった。


「この体で、何人の女を守ってきたかしら……」


 そう呟いて、彼女はそっと腰を撫でた。

 その身体は、今や“自分のため”ではなく、“誰かのため”に使われている。


 そして――


「お前が泣いた分、私は笑わなきゃいけないの。女たちの楯でいるためには、ね」


 その言葉が、彼女の中に染み込んでいる矜持。

 責任。覚悟。そして、母のような包容。


 “雅”には、傷を抱えた女たちが集う。

 カガリのもとに来る娘たちは、誰もが何かを失っていた。


 それを補い、育て、再び光らせる。

 そのためには、自分が“完全な女”であり続けねばならない。


 今日もまた、緋の着物を纏った鬼が、微笑を浮かべて館を歩く。

 その笑みに、何人の女が救われるかを、彼女はもう数えていない。


 ただ一つ――


「私は、何があっても倒れない。倒れていいのは、あの子たちだけよ。……私が、すべてを受け止めるから」


 女たちのために立ち続ける者――それが、二条カガリという女だった。


―――


朝の帳が落ちる頃、屋敷の中にひそやかな焦燥が広がっていた。

 遊郭の支配人、二条カガリ――彼女ほどの女であっても、それを打ち消すには些か手間を要する。


 広間に並べられた帳簿には、赤字の印が増えていた。

 かつては一夜で数百万を稼いだ看板娘たちの名も、いまや月報の中に記されることはない。

 風営法、条例、摘発――そして、世間の変化。

 高級店であれど、「色を売る」ことに対する風当たりは年々強まっていた。


 「……見事に、みんな“卒業”してくれたわね」


 カガリは乾いた声でそう呟いた。

 かつて彼女の傍で共に立っていたエース級の遊女たちは、今やそれぞれの人生を歩み、誰ひとり《雅》には残っていない。

 彼女が育て、鍛え、時に命を張って守った娘たち――その多くが“普通”の暮らしへと戻っていった。


 それは誇らしくもある。

 けれど、空になった部屋を前にすれば、寂しさも募る。


 帳場で火を落とすと、廊下から若い女たちの笑い声が聞こえてきた。

 今の主力は20歳前後の新人たち。

 確かに素直で、華もある。

 だが――。


「艶が足りない。……そう、“色”の厚みがないの」


 声に出せば、少し痛みが走った。

 自分も、きっとそう思われた時期があったのだろう。

 遊女にとって、“色”とは化粧や肌の美しさではない。

 “積み重ねた夜”と“諦め”と“矜持”が混ざり合ってこそ、あの艶が出る。


「身体で売るんじゃない、魂で惹きつけるの。……それを伝える相手が、もう少ないわね」


 もはや風営法の網目をかいくぐるだけでも、ぎりぎりだ。

 行政との擦り合わせは週に一度。監視カメラの台数も増え、警告文は施設内の各所に掲げられている。

「この施設は健全な接客業の場です」と、空々しい文句すら書かねばならぬ時代。


 けれど――カガリはなおも《雅》を手放さない。

 この場所には、生き場を失った女たちが集まる。

 生まれた時から何も持たなかった女。

 愛されず、売られ、捨てられ、そして立ち直れぬ女たち。

 彼女たちにとって《雅》は、唯一の“生”の場所なのだ。


「行政がどう言おうと、ここは“女の居場所”よ。……男たちに金で買われるんじゃない、選ばせるの。女の価値を、女の手に戻すために、私はここにいる」


 それが、かつて彼女が夜に舞った理由であり、今も支配人として立ち続ける理由でもあった。


 廊下の向こうから、ひとりの女が現れた。

 まだ18。先週水揚げを終えたばかりの新人――環(タマキ)だった。

 清楚な顔立ちに、どこか人を試すような目。カガリの若き日を思わせる女。


「支配人、……今夜も、あの客ですか?」

「ええ。三度目ね。慣れてきた?」


 環は、少しだけ眉を寄せた。

「……優しいんです。でも、目が空っぽで、ちょっと怖い」


「“金で買う者”の目は、大体そうよ。女を“商品”と思っている限り、情が宿ることはないわ。……だからこそ、怖がってはいけない。私達の心は、私達のものよ」


 環は、唇を噛んだ。

 ――けれど、逃げはしなかった。

 それが、カガリの教えを受けた女たちの証だった。


 かつて、自分もそうだった。

 夜の最中、心を殺して笑った夜が幾度もあった。

 けれど、その積み重ねが“鬼舞姫”を生んだのだ。


 彼女はもう舞わない。

 だが、今もその目に“夜の熱”は宿している。


 それを伝えること――

 それが、カガリという女の“今の舞”だった。


 屋敷の空気が、香油の香りに染まっていく。

 今日もまた、誰かの夜が始まる。

 女たちの生が、今宵もここで踏み出される。


 カガリは緋の襟元を軽く整え、髪を結い直す。

 その手には、ためらいも、迷いもなかった。


 ――女たちを守ること、それが彼女の生きる意味。

 艶を失ったこの時代にあってもなお、彼女は、夜の静謐の中に咲き続けていた。

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