第19話-5 完全なる包囲

あおいは、自らもぎ取ったボールを、すぐ隣でサポートに入っていた沙耶へと託した。

レイナがピッチを去った今、あおいにとって、冷静な沙耶の存在は心強かった。


「沙耶っ!」

沙耶はボールを受け取ると、一瞬だけ顔を上げ、敵陣の配置を確認する。そして、最も近くにいた千夏へと、短いパスを放った。


「千夏!」


「来い!」

千夏はボールを胸に抱くと紺色の壁の、僅かな隙間を突くように突進する。相手のしがみつくようなタックルを受け、倒れかけながらも、身体を反転し壁となって耐える。

そこへ珠美がサポートに入り、しっかりとマイボールをキープ。

密集に食いついて、差し出されたボールを手にしたのは、内田まりだった。


それまで静かな水面を湛えていた内田まりの瞳に、鋭い光が宿っていた。彼女は、セオリーであるオープンサイドへ展開すると見せかけ、密集の後ろから、狭い方のブラインドサイドへと、身体を反転させた。

まりの普段の姿からは想像できない、あまりにも大胆で、無謀にさえ思える選択。


「まり先輩!?」

あおいの声が、思わず上ずる。

フィールドの誰もが、その動きに虚を突かれた。

敵も、味方さえも。

東嶺のディフェンダーが、慌ててその進路を塞ごうと、猛然と突進してくる。

力と力の衝突。

誰もがそう思った、その瞬間。

それは、武術の演武のように、美しかった。

まりは、相手が突き出してきた鋼のような腕を、まるで川の流れを受け流すかのように、自らの左腕で柔らかく捉える。そして、相手の突進力を殺さず、利用し、円を描くように身体を捌き、いなした。

相手は、全力で壁にぶつかったかのようにバランスを崩し、空を切るだけ。合気道の理合が生んだ、あまりにも流麗なハンドオフ。

普段の物静かな彼女からは想像もつかない、剥き出しの闘争心と、それを完璧に制御する理性が、一つのプレーとして結実していた。


「すげえ……!」

スタンドの拓海が、思わず声を漏らす。

瞬時にカバーに来たもう一人の選手。まりは、その動きさえも予測していたかのように、相手を完璧に引きつけたところで、斜めに走りこむあおいへ、振り向きもせずに、柔らかく、しかし確実なパスを繋いだ。


「あおいさん!」


「はいっ!」

ボールを受けたあおいは、そのまま右サイド方向へと走り込む。

東嶺ディフェンスが、波のようにそちらへスライドする。

その動きと交差するように、沙耶が走り込んできた。

再びのスイッチプレー。

しかし今度はフェイクではなく、鮮やかに沙耶にスイッチした。

佳代子の指導の下、何度も何度も繰り返し、徹底的に鍛え上げてきたコンビネーションプレーが見事にはまった。

沙耶は、生まれたわずかなスペースを突き、一気に左へと抜けた。

陣地を大きくゲインするチャンス。

だが、そこに東嶺の選手が一人、鬼の形相で食らいつく。

これまでの約14分間、走り続けた沙耶の足は、もはや鉛のようだ。肺が灼熱の鉄のように痛み、一歩踏み出すごとに太腿の筋肉が悲鳴を上げる。

思ってた以上に、スピードが出ない。

さらには、きれいに決まったスイッチだったため、まだサポートが追いついていない。

これは、致命的な計算ミス。


迫り来る紺色のジャージ。

その目は、ボールではなく、沙耶の身体ごとタッチラインの外へ叩き出すことだけを考えている。

もし、押し出されれば、試合はほぼ決着する。

非情なまでの白い線が、すぐそこまで迫っていた。

パスコースを出せる味方が、いない。

完全なる孤立。

さらに奥からは、伊藤舞を筆頭とした紺色の壁が、包囲網を狭めるように迫ってくる。


万事休す。


ベンチで、武田が息をのむ。

その隣で、ゆかりと翠が「沙耶!」と声にならない叫びを上げた。


対照的に、東嶺のベンチでは、長谷川響子が、この試合で初めて、心の底から満足げな、冷たい笑みを浮かべていた。

彼女の頭脳は、目の前の光景を完璧な幾何学模様として捉えていた。

孤立したボールキャリア。

ゴールラインより先に、確実に彼女を飲み込むタッチラインという絶対的な境界線。

そして、その逃げ道を完全に塞ぐように収縮していく、紺色の包囲網。

パスコースはゼロ。ゲインできるスペースも、ゼロ。

これが、論理の帰結。

どれほど魂を燃やそうと、どれほど奇跡を信じようと、感情の暴走は、最後には必ず冷徹な論理の前に屈する。

それが、勝負の世界の、美しき摂理。


――これで終わりね。


完璧な守備網が、泥だらけの物語に、終止符を打つ。


だが、その瞬間。

沙耶の脳裏に、神が描いたかのような一筋の光の道筋が見えた。


—――自分を信じろ。

そして、仲間を、死ぬ気で信じろ。


脳裏に、武田の言葉が蘇る。


それは、大きな、大きな賭けだった。

沙耶は、意を決すると、タックルを受ける直前に、最後の力を振り絞り、大きく右前方へ、ボールを蹴りだした。

それは、美しいパントキックではない。地面を這う、低い、低い弾道。


グラバーキック。


芝生に叩きつけられた白い楕円球は、まるでサッカーのスルーパスのように東嶺の選手の間を抜けて、不規則に、そして絶妙にバウンドを変えながら、右前方の、広大な無人の荒野へと転がっていく。

その、沙耶の足がボールを蹴りだした、まさにその瞬間。

オフサイドぎりぎりのライン上で、誰もいないはずの空間に向かって、一筋の赤い閃光が、すでに飛び出していた。


背番号「7」、杉浦夏希。

彼女は、信じていたのだ。

この絶望的な状況で、チームの頭脳である沙耶が、最後に託す答えは、自分であるということを。


「なっ……!?」

響子の、凍りついたような表情。彼女の完璧な計算式には入っていなかった、最大の変数。

進行方向とほぼ逆向きに蹴りだされたボールに反応し、東嶺の選手たちも反転して必死でそのボールを追う。


「行けぇぇぇぇぇっ!!」

武田が、ベンチから身を乗り出して絶叫する。

沙耶が蹴りだした、ドライブ回転のかかったボールは、横向きに地面にバウンドしながら、かなり深い、誰もいない芝生の上を転がっていく。


祈りがこもった楕円の魂。


それに答えるように走る、赤い一筋の希望。

蹴り出されたボールを、手にできなければ、試合は終わる。


「夏希ーーーっ!」


物語の、最後のページが、今まさに、めくられようとしていた。



第19話 「勝利の方程式」

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