第17話-4 反撃の狼煙

カンッ、という乾いた金属音が、まだスタジアムの空気に残響しているかのようだ。

伊藤舞のコンバージョン失敗。

それは、試合の流れを決定づけるものではない、ほんの些細なミス。

だが、絶対王者が初めて見せた、完璧ではない「人間らしさ」。


その事実は、絶望の淵にいた清陵の選手たちの心に、消えかかっていた闘志の火種を、再び微かに燻らせる。


「……まだ、いける」

レイナは、泥にまみれたジャージの袖で口元の汗を拭い、荒い息を整えた。


「まだ、終わってない!」

その声は、自分に言い聞かせるようでもあり、仲間たちの心を繋ぎ止めるための、魂の叫びでもあった。

そうだ。莉子が言っていたじゃないか。



——これは、劇的な成長の証です。



実力差は間違いない。

東嶺と自分たちでは、経験も個々のポテンシャルも、圧倒されている。

だが、あいつらも人間だ。ミスもするし、感情一つでプレーが乱れる。

そして、間違いなく私たちは、東嶺を本気にさせた。



——心を、折られないことよ。



佳代子の言葉が、脳内で力強く反響する。

レイナは、ゆっくりと顔を上げた。

そして、スタンドオフの位置に立つ、背番号「8」の親友と、視線を交わした。

あおいの瞳には、もう絶望の色はない。

その奥で、何かを探るような、挑戦的な光が揺らめいていた。

二人の間に、言葉はいらない。

小学生の頃から、幾度となく交わしてきた、反撃の合図。

ここからだ。私たちの、本当の戦いは。



ピーッ!

再び、伊藤舞のキックオフで試合が再開される。

清陵は、必死だった。

なんとかボールを確保する。

東嶺のディフェンスは、牙を剥いた肉食獣の群れのように、ボールを持った選手に、二枚、三枚と、容赦なく突き刺さる。パスを繋ごうにも、そのコースはことごとく塞がれている。

「サポート!」「早く寄れ!」

千夏の声が、密集の中でくぐもって響く。


美咲が、珠美が、そしてプロップに入った千夏が、歯を食いしばり、足元の芝生をえぐるように踏ん張り、決してラインを下げさせない。

集散、集散、また集散。

泥にまみれ、身体中の酸素が悲鳴を上げる。

それでも、ボールだけは、絶対に渡さない。

その、泥臭く、ひたむきなプレーが、スタジアムの空気を再び変え始めていた。

「おい、なんか粘ってないか?清陵」

「ゲインはできてないけど、ボールキープしてるぞ……」

観客たちの声援が、少しずつ、赤と白のジャージへと戻り始めていた。


何度目かのラック。

レイナがボールを掻き出し、あおいへと繋いだ、その時だった。

あおいの視界の真正面に、あの黒い翼が立ちはだかった。

ノクソロ・ムベキ。

だが、あおいは、その瞳に、ほんのわずかな「澱み」を見逃さなかった。

オフェンス時のような、飢えた光がない。ディフェンス時の彼女は、どこか退屈そうで、集中力が散漫になっている。この長く続く展開に、集中力が切れ始めている。まるで、自分にボールが来るはずがないと、高を括っているかのように。


——賭けるしかない!


あおいの脳内で、閃光が走った。

レイナからボールを受けた瞬間、あおいは、セオリーを無視して、ムベキに向かって一直線に突進した。

誰もが、無謀な自殺行為だと思った。スタンドから、悲鳴に近い声が上がる。

ムベキの瞳が、面白そうに細められた。その表情が、あおいの賭けを確信へと変えさせた。


——来た!


ムベキは、あおいの直線的な動きに完璧に反応し、その超人的な身体能力で、最短距離でタックルに入ろうと身体を沈める。彼女の動体視力は、目の前の動きを捉えることには長けている。

だが、今の彼女は、その裏に隠された意図までを読むことはできないはずだ。

ムベキの指先が、あおいのジャージに触れるか、触れないか。

その、刹那。

あおいは、ボールを抱えたまま、上半身を捻り、まるで背中にも目がついているかのように、内側を完璧なタイミングで走り込んできた仲間へと、ボールを放った。

「千夏!」

ボールは、千夏の胸に、まるで吸い込まれるように収まった。

ムベキのタックルは、あおいに刺さるがそこにボールはない。ムベキにしっかりタックルさせることで、他の選手にスライドさせないことに成功する。


「なっ……!?」

初めて見せた、ムベキの動揺。

その間隙を突き、千夏の目の前、左斜め前の空間が、ぽっかり開けていた。

「っしゃあ、道あけろやぁ!」

千夏は、過酷なトレーニングの積み上げて手に入れたダッシュ力でそのスペースに駆け込み、大きくゲイン。

そこで、東嶺の選手に絡みつかれ、ゆっくり確実にボールを自陣側に置く。

貴重な5メートル。

スタジアムが、どよめきに揺れた。



「――やはり、そうでしたか」

ベンチで、莉子が静かに呟いた。

そのタブレットには、ノクソロ・ムベキの、ディフェンス時における詳細なデータが表示されている。

「ノクソロ選手のタックル成功率は68%。これは、他の東嶺の選手と比較して15%低い数値です。特に、試合中盤以降、集中力が低下した際のデータは、さらに顕著に悪化する。彼女のディフェンスは、人並み。あるいは、それ以下です」

その冷静な分析は、あおいがフィールドで肌で感じた直感を、冷徹な事実として裏付けていた。


フィールドでは、清陵の嵐が、いよいよ本格的に吹き荒れようとしていた。

千夏が東嶺の選手に捕まった地点に、誰よりも早く駆け寄ったのは、珠美だった。レイナも加わったことで、清陵ボールが確実となる。レイナが素早くボールを捌き、沙耶へ。

沙耶は、斜めにカットインし、ディフェンスを二人引きつけると、捕まる直前に美咲へとボールを繋いだ。

「美咲!!」

美咲は敵陣10メートルラインを越え、突き進む。

「行けぇぇぇぇぇっ!!」

応援席の絶叫が、彼女の背中を押す。

だが、王者のディフェンスも、同じ轍は踏まない。

東嶺のディフェンダーが、意地でその美咲に小さな身体に食らいつく。


ドンッ!という鈍い音。美咲の身体が、大きく体勢を崩す。

だが、そのタックルは、あまりに高く、美咲の肩口に入っていた。


ピーーーーーーーーーッ!

甲高いホイッスルが、東嶺の猛追を制止する。

主審の腕が、力強く、清陵側を指した。


「ハイタックル!」

敵陣22メートルラインに入ったところ。

そこで得た、ペナルティ。

絶望の淵から、反撃の狼煙を上げるための、最高のチャンスが、ついに、彼女たちの元へと舞い降りた。


第17話 「絶望と希望」

(了)

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