第15話-1 王者の芸術

ボールが、重力に従って秋のすがすがしい空から落ちてくる。

落下点に殺到する紺色のジャージ。それを迎え撃つために走り出す、赤と白の仲間たちの背中。そのすべてが、網膜に焼き付くように鮮明に見えた。

ここから、始まる。私たちの、本当の戦いが。

その軌道を、スタジアムの誰もが息をのんで見上げていた。

スタンドの一角。

清陵の応援団は、固唾をのんでその光景を見守っていた。

「……始まった」

クラスメイトの雪乃が、手すりを握りしめる手に力を込める。

その隣で、スポーツショップサノの息子、拓海は腕を組み、専門家ぶった厳しい視線でフィールドを睨んでいたが、その指先が小刻みに震えていることには、誰も気づかない。

彼らの後方では、千夏の母・玲華が、慣れないスポーツ観戦に戸惑いながらも、ベンチに座る娘の背番号「9」の背中だけを、祈るように見つめていた。

その隣に立つ佳代子は、表情こそ穏やかだが、その目は学生時代に戻ったかのように鋭く、これから始まる戦いの全てを見通そうとしていた。

対照的に、周囲に座るラグビーファンや他校の関係者たちは、どこか余裕のある表情でフィールドを見下ろしていた。

「さて、東嶺のお手並み拝見といこうか」

「相手は創部一年目だろ?まあ、公開練習みたいなもんだな」

「何分持つかな。とりあえず、怪我だけはするなよ、と」

その会話には、清陵への侮蔑というより、絶対王者への揺るぎない信頼と、これから始まるであろう一方的なショーへの期待が滲んでいた。彼らにとって、清陵は主役を引き立てるための、名もなきエキストラでしかなかった。


キックオフのボールが、完璧な放物線を描いて落下していく。

東嶺の選手が、危なげなくボールをキャッチし着地した、その0.5秒後。

ドンッ!

肉と骨が正面からぶつかり合う、鈍く、重い衝撃音。赤と白のジャージ、背番号「3」が、まるで弾丸のように相手の懐に突き刺さっていた。

須藤珠美。

彼女のバスケで培われた空間認識能力と瞬発力が、誰よりも早く落下点を予測させ、獣のような突進を可能にしていた。

「うおっ!?」

スタンドから、予期せぬコンタクトの激しさに、驚きの声が漏れる。

ボールをキャッチした東嶺の選手は、たまらず体勢を崩しながらも、ボールを横に放る。

そこからが、王者の真骨頂だった。

ボールは生き物のように左へ、左へと流れていく。

パスを出す選手、受ける選手、その次にボールをもらうために走り込む選手。三つの動きが常に連動し、淀みがない。それは、反復練習によってのみ到達できる、芸術の域だった。

「ライン上げろ!」「外、ケアしろ!」

レイナと沙耶の声が、フィールドに響き渡り重なる。

清陵のディフェンスラインは、練習通り、一糸乱れぬ動きでスライドしていく。

夏希が、美咲が、必死に間合いを詰める。パスは繋がれるが、ゲインはさせない。前に出る圧力で、東嶺の流麗な攻撃を、わずかに、しかし確実に遅らせていた。



ボールが密集から出されるたび、清陵の選手たちが波のように押し寄せる。

美咲が、小柄な体を物ともせず、低く、鋭いタックルで相手の足元に突き刺さる。

ゆかりが、スクラムハーフの位置から的確な指示を飛ばし、ディフェンスラインの綻びを瞬時に修正していく。

「すごい!」「ボール持ってないのに押してる!押してるよ!」

清陵の応援席が、歓喜に沸く。拓海も、組んでいた腕を思わず解き、前のめりになって叫んでいた。

「そうだ、そのままプレッシャーかけろ!相手にスペースを与えるな!」

まだ開始から数十秒ではあるが、王者・東嶺を相手に、創部一年目の清陵が、この序盤、互角に渡り合っている。その信じられない光景が、目の前で繰り広げられていた。

佳代子は、その光景に安堵しつつも、視線はただ一点、東嶺のベンチに座る長谷川響子の表情に注がれていた。

響子は、微動だにしない。その怜悧な顔には焦りの色一つ浮かんでいなかった。ただ、完璧な芸術品を鑑賞するかのように、静かにフィールドを見つめている。

「ナイスタックル!翠!」

「いいぞ清陵!」

応援席から、割れんばかりの歓声が上がる。侮っていた一般客たちも、スマホから顔を上げ、少しだけ身を乗り出していた。「へえ、やるじゃん」そんな空気が、スタジアムに微かに広がり始めた。

レイナは、確かな手応えを感じていた。通用する。菅平で、地獄のような練習を繰り返した私たちのディフェンスは、王者相手にも、確かに通用する。


——「だから、俺が保証してやる。お前たちは、十分強い」

試合前の武田の声が、レイナの脳裏に響く。

よし、行ける。

密集から、東嶺のスクラムハーフが素早くボールを捌く。今度は右への展開。

スタンドオフが、内側へ鋭く切れ込むようなフェイントを見せる。レイナの意識が、コンマ数秒、そちらに引きつけられる。

その瞬間、スタンドオフは外側のセンターへパス。さらにそのセンターは、内側を並走してきた別の選手へ、ループするようにパスを返すサインプレー。美しい。だが――

「そこだッ!」

その華麗な動きを、完璧に読んでいた影があった。小野寺美咲。

彼女は、かつての恐怖を振り払うように低く、鋭く、ボールを持った選手の足元へ、まるでミサイルのように突き刺さった。完璧なタイミングのタックル。相手はバランスを崩し、その手からボールがぽろりとこぼれ落ちた。

「ゆかり!」

沙耶の声が飛ぶ。

誰よりも早くルーズボールに反応したのは、スクラムハーフの北沢ゆかりだった。彼女が身を挺してボールを確保した瞬間、ウイングの夏希が、まるで彼女を守る騎士のように密集に飛び込み、壁となる。

「レイナ!」

ゆかりの声。

レイナは、形成されたラックから、素早くボールを掻き出した。

初めて掴んだ、攻撃の権利。

周囲を見渡す。目の前には、すでに完璧な布陣を敷き直した紺色の壁。スペースはない。レイナは、迷わず隣に走り込んできた、チームで最も信頼する頭脳へとボールを託した。

「沙耶!」

ボールを受けた高梨沙耶が、相手ディフェンスのわずかな隙間を狙って、鋭くステップを切る。しなやかな動きで一人をかわそうとした、その瞬間。

二方向から、影が襲いかかった。

東嶺の選手二人が、完璧な連携で挟み込むようなタックルを決める。

「しまっ――」

沙耶の体が宙に浮き、体勢を崩したその手から、ボールが無情にもこぼれ落ち、右斜め前の芝生を叩いた。


ピーッ!

ノックオン。

主審の腕が、東嶺側を指す。

「……クソッ!」

レイナは、思わず芝生を蹴りつけた。掴みかけた流れが、あまりにもあっさりと断ち切られた。


これが、王者のディフェンス。一瞬の隙さえ、与えてはくれない。

東嶺ボールのスクラム。

翠、美咲、珠美の3人が肩を組み、相手とがっちりと組み合う。

レイナはバックスラインに戻り、沙耶と視線を交わした。沙耶が小さく頷き、ディフェンスラインのポジショニングを修正する。

スクラムからボールが出た、その瞬間だった。

東嶺のスクラムハーフは、誰もが予測するオープンサイドへの展開ではなく、ブラインドサイド、スクラム脇のわずか数メートルのスペースを突いてきた。

意表を突く選択。ディフェンスが、一瞬、反応が遅れる。

そのスペースに、まるでそこが自分のためだけに用意された道だと知っていたかのように、一人の選手が走り込んできた。

背番号「5」キャプテン、伊藤舞。

「まずい!」

レイナの声が悲鳴に変わる。

ディフェンスが2枚、3枚と、まるで薄い紙のように剥がされていく。ゆかりが必死に食らいつくが、伊藤は左腕一本で、いとも簡単にハンドオフする。

最後の砦として、沙耶がカバーディフェンスに入る。身を挺して、完璧なタイミングでタックルに入ろうとした、そのコンマ数秒前。

伊藤は、前を向いたまま、まるで背中にも目がついているかのように、内側を完璧なタイミングでサポートしてきた味方に、ノールックでボールを繋いだ。

そこからは、菅平で見た光景の再現、あるいは、それ以上の、芸術だった。

ボールは一度も滞ることなく、3人、4人と、まるで水が流れるように、最も効率的で、最も美しい軌道を描いて繋がれていく。

清陵のディフェンスは、ボールを追いかけるだけで、完全に後手に回っていた。

そして、最後は大外で再びボールを受け取った伊藤舞が、誰にも触れられることなく、まるで朝の散歩でも楽しむかのように、悠々とインゴールの真ん中へと走り込むと、ゆっくりと、慈しむように、ボールを芝生の上に置いた。

トライ。

時間が、止まった。

スタジアムの喧騒が、遠い世界の出来事のように聞こえる。

レイナの視界から、色が消えていくような感覚。

これが、日本一。

これが、絶対王者。

あまりにも完璧な、あまりにも美しく、そして、あまりにも残酷な、芸術。

東嶺の選手たちは、表情一つ変えずに自陣へと戻っていく。誰一人として、笑顔はない。彼女たちにとって、これは練習通りのプレーを、ただ遂行しただけ。当然の結果でしかなかった。

ドロップキックで放たれたコンバージョンゴールも、吸い込まれるようにゴールポストの真ん中を通過した。


電光掲示板の数字が、無慈悲に「0-7」へと変わる。


試合開始、わずか2分。

「まあ、こうなるよな」

「やっぱり格が違う」

スタンドのやじ馬たちが、予想通りの展開に満足げに頷き合っている。

「7分で何点入るかな。清陵は、ボールに触れるのかね」

清陵の応援席は、水を打ったように静まり返っていた。

誰もが、言葉を失い、ただ、残酷な現実が映し出されたフィールドを見つめている。

玲華が、心配そうに「チナ……」と呟き、その肩を佳代子がそっと支えた。


レイナは、膝に手をつき、荒い息を吐いた。悔しい、という感情よりも先に、圧倒的な実力差に対する、畏怖にも似た感情が心を支配しかけていた。

だが、顔を上げた瞬間、その感情は霧散した。

翠が、珠美が、沙耶が、美咲が、全員が、まっすぐに前を、敵陣を見据えている。その目は、少しも死んでいなかった。

「まだだ」「ここからだ」

声には出さずとも、11の瞳が、同じ言葉を語っていた。

「清陵!ファイトー!」「一本、取り返せー!」

スタンドから、仲間たちの声が、熱いシャワーのように降り注ぐ。


――心を、折られないこと。


佳代子の言葉が、脳内で力強く反響した。

折れてたまるか。

「顔上げて行くぞッ!」

レイナは、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

仲間たちの顔を見る。絶望はない。あるのは、鋼のような覚悟だけだ。

ここからだ。

私たちの、本当の戦いは、ここから始まる。



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