滝川家の人びと
卯花月影
第1話 血の復讐
豆を煮て以て
(七歩詩)
戦国の世は、忠も義も名も血も、力の前にかき消される乱世であった。
近江の南端、山々に抱かれた
その一つ、滝城。小さな滝に寄り添う城に生まれたのが滝川
孤立の果て、一益はしだいに博打場へ通い、荒くれの野伏らと交わるようになる。乱暴な振る舞いは、家人の信をさらに失わせた。やがて母と高安は、弟・菊之助に跡目を継がせようと画策するようになった。
やるせない思いを押し殺すように、一益は火縄銃の鍛錬に励んだ。夏の青空を仰ぎ、鉄砲を構えて引き金を引くと、鋭い銃声が山間に響き、鳥が一羽くるりと落ちた。
音の余韻が残るなか、丘を登ってくる影があった。母の侍女・すみれだった。
「将監様……」
いつもよりわずかに沈んだ声だ。
一益は鉄砲を脇に置き、草むらに腰を下ろした。すみれも黙って隣に座る。山の風が二人の間をそっと吹き抜けていく。
「御前様のお使いの帰りです」
「……ああ」
応じた一益の胸には、伝えねばならぬ思いが渦巻いていた。だが、言葉は喉で絡まり続けた。
やがて、すみれが口を開いた。
「昨日、高安様から、お声がかかりました」
一益の眉が動いた。だが口を開かない。
沈黙の奥では、言葉にならぬ怒りが煮え立っていた。母と叔父の思惑を悟りながらも、声にすれば脆く砕けそうで、ただ拳を固く握るしかなかった。
風だけが、間をさらった。
すみれが、ほとんど囁くような声で言った。
「……おなかに将監様の和子が」
野の虫の声が風に溶けはじめ、蝉の名残がかすかに混じった。
一益は口を開きかけ、結んだ。言葉が出ない。
すみれの方もまた、言葉を継げないまま、小さくうなだれる。
滝御前に、すみれの口から何かを訴えることはないだろう。それがわかっているからこそ、胸が痛んだ。
また、長い、沈黙の時が流れた。
やがて、すみれが立ち上がり、絞り出すように言った。
「……お城に、戻ります」
風に削られた声だった。
一益は、ただ黙って、その細い後ろ姿を見送った。
滝のしぶきのように、心に澱が積もる。
遠ざかるすみれの背に向かって、何か言葉をかけようとしたが、声は出なかった。
(この甲賀で、わしの居場所とは、いったい――)
木々の間で蝉が鳴き続けている。夏が、ひとつ幕を開けようとしていた。
すみれの背を見送った一益は、しばし風の音に身を任せ、やがて小高い丘を下りた。
すこし時をずらして城に戻る。本丸館が見えてきたころ、野の虫の声が、風に溶けるように響きはじめた。
(すみれの腹に、赤子が……)
このまま何も言わずに済むことではない。いずれ事が公になれば、それはすみれの身に重くのしかかる。
ならば、自ら口に出して伝えるしかない――母に、滝御前に。
城の中は妙にざわついていた。とくに侍女たちの様子が不自然だった。
すれ違うたびに、さっと視線を逸らし、内緒話でも交わすように口許を覆っては、あわてたように去っていく。
(皆、存じておるのか……)
すみれが自ら懐妊のことを告げたとは思えない。
であれば、今、城内に広がっているのは、すみれが高安殿の側女に召されるという話――それも、母と叔父によって進められている筋書きだ。
(とんだ晒し者よ……)
これまで、一益は母にも叔父にも、表立って逆らったことはなかった。
だからこそ、今回も何も言わず、すみれを差し出すだろうと、誰もがそう思っている。
母の居間の前に立ち、深く息を吸うと、戸を押し開いた。
「久助、なんぞ用向きがあるか」
滝御前は、驚きもせずに静かに言った。来ることを、あらかじめ知っていたかのような口ぶりだった。
母は今もなお、自分を幼名の「久助」と呼ぶ。
――そこに込められた意味を、一益はとうに察していた。
「母上に、お話し申し上げたき儀が……」
一益が口を開いた刹那、滝御前はその言葉を遮るように、まったく別の話を口にした。
「隠居する気になったか?」
母は淡々と告げた。その声音には情も慈悲もない。
(家は火、理は水――火は煮れば旨いが、焦げれば毒になる)
一益はわずかに息を詰めた。
「は……」
あえて話題をすり替えられたことが分かった。
しかも次に来る言葉も、予感どおりだった。
「ようやく、菊之助に譲る気になったか」
滝御前は視線を逸らさず、一益を見据える。
(なるほど……そういうことか)
一益は黙って、母の顔を見た。
声にすれば怒りが噴き出すと知っていた。拳に力を込める。
(すみれを叔父に与え、跡目は菊之助へ――それが筋書き)
「これは家の大事。この母がしかるべき日に取り計らう」
滝御前は決められた筋をなぞるかのように言い放つ。
一益は深く息を吐いた。
「……承知」
その言葉の裏で、胸は煮えたぎっていた。怒りとも悲しみともつかぬものが、胸の底に降り積もった
上機嫌の母に深く一礼をすると、一益は無表情のままその場をあとにした。
振り返らずに歩いた廊下には、どこからかかすかに香の匂いが漂っていた。
夏の日は高く、陽はまだ傾く気配もなかったが、一益の影だけが、長く伸びていた。
数日が過ぎた。
城内に、他家の使者たちの姿がちらほらと見られるようになった。その手には、明らかに贈り物とわかる包みがある。
(菊之助の元服が近いのか……)
その日は即ち、一益が頭領の座を退き、若隠居を強いられる日でもある。
それを祝うかのような賑わいのなか、一益は忙しげに走り回る家来たちの様子を横目に、ひとり城を抜け出した。
――すみれの姿は、あれ以来、見ていない。どこにいるのか、無事かすらも分からない。探る手立てもない。
城から遠ざかるように、馬の歩を進める。一帯に人の気配が薄れてきたころ、一益の目に見慣れた影が映った。行商人風の姿をした若者が、荷を揺らしてこちらへ歩いてくる。
「左近様!」
顔を上げた男が、芝居役者さながらに両手を広げて叫んだ。
「いやはや、尾張は味噌と酒と『うつけ』殿の噂で、腹も耳もいっぱいにござる!」
一益は無言で馬を止め、その顔をじっと見据えた。
「……義太夫か」
名を呼ばれるや、男は片膝をついて恭しく頭を下げ――すぐににやりと口元を歪める。
滝川義太夫。十歳年下のこの甥は、早世した兄の子であり、一族の中で唯一、一益に私心なく従ってくれる男である。
鋭い目つきで眉間に皺を寄せがちな一益とは対照的に、義太夫の目元は涼やかで人あたりもよく、侍女たちの間でも評判が高い。
だが己を「ひょうげ者」と称し、ときに道化、ときに策士。風に吹かれる葦のように甲賀を渡り歩いてきた油断ならぬ男でもあった。
一益は馬の手綱を引き、近くの丘へ義太夫を誘った。
「此度は、いずこへ参っておった?」
「尾張にござります。名物は赤い味噌。豆から作るとかで、戦場に携えると力が出ると評判にござる」
一益の眉がかすかに動いた。
「……尾張といえば、織田か」
「然様。清州の信康殿もおりますが――評判の的は那古野の三郎信長」
「織田三郎信長……いかなる男か」
義太夫は唇の端をつり上げて、噺家のように語り始めた。
「太刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅のごとき乱髪。袴も履かず、裸馬に跨って領内を駆け回る――そんな有様ゆえ、尾張の百姓衆でさえ『うつけ殿』と呼んでおりまする」
一益は眉をひそめた。だが黙したまま、耳を傾ける。
「されどその『うつけ』殿、父祖の代から津島と熱田を押さえ、湊の利で莫大な財を得ておるとか」
「津島と熱田を……」
一益の瞳が鋭さを帯びる。
「さらに、美濃の蝮・斎藤山城守の娘婿にござる。あの策士が娘をやるほどで。聞けば、『我が子孫は、あのうつけの馬を繋ぐことになろう』と呟いたとか」
「ふむ……」
一益の瞳が鋭く光を帯び、胸の奥で熱がふつふつと甦る。
かつて父・一勝が、細々と財を蓄えていたこの平山城も、今は母の贅沢と叔父の放埒で痩せ細っている。
――されど、もし尾張の信長のように湊を握り、財を集めることができれば……。
この時、一益はまだ知らなかった。
その名が、自らの行く末を掴み、戦国の荒海へ引きずる錨となることを。
甲賀の山々は、低く重なり、空さえ狭く見えた。
風が谷を抜け、湿った匂いが肌にまとわりつく。
一益はその静寂の中に身を置き、言葉を飲み込んだ。
やがて沈黙を破るように、低い声で言った。
「義太夫、そちの帰りを待っておった」
一益の声に、義太夫はぴたりと口を止める。
「それはまことに恐れ多いことで……」
「滝川家を、この手に取り戻す。力を貸せ」
一瞬、風の音だけが聞こえた。
義太夫は首を傾げ、わざとらしく肩をすくめる。
「……まずは菊之助、でございますな」
「二日後には元服。されどその前に――」
「始末する、と?」
声を落とした義太夫の瞳に、一瞬だけ翳りが差した。
しかし次の瞬間には、いつもの『ひょうげ者』の笑みを浮かべる。
「叔父御もずいぶんと『うつけ』な策を思いつかれますな」
「笑うな」
「笑うておりませぬ。……ようござる。義太夫、命を張ってお供いたしましょう。左近様の『うつけ事』に付き合い申す」
そう言って義太夫は袋から丸薬を取り出し、ぽいと口に放り込んだ。
「まずは腹ごしらえ。策を練るにも、腹が減っては知恵も出ませぬゆえ」
一益は呆れたように小さく笑い、遠く尾張の空を仰いだ。
(織田三郎信長……うつけ者と呼ばれながら、天下を狙う器)
甲賀の山に、静かな風が吹いた。
*
一方そのころ、一益の弟・菊之助は、滝城からだいぶ離れた山道を、一頭の駿馬で駆けていた。
その馬は、かつて父・一勝が愛した駿馬の仔である。
一益が丹精込めて育てた馬で、四本の脚がすべて白く染まる「
古来より縁起のよい馬とされ、滝川家の者たちの間でも秘蔵の馬として知られていた。
「ふむ、この馬、じつによい走りよ……わしはこの馬が気に入ったぞ」
得意げに呟くと、付き従っていた家来が控えめに言った。
「では、いっそ左近様から頂いては如何にございますかな」
「うむ、そうしたいところじゃが……あの兄上が、そう易々と渡すとは思えぬ。――おや、あれは何じゃ?」
ふいに、道の先に一人の男が平伏しているのを見て、菊之助は馬の手綱を引いた。
男は、編笠を深くかぶり、道の真ん中でじっと額を地につけていた。
「これ、面を上げよ。この方を誰と心得るか」
菊之助が声をかけると、男はゆるりと顔を上げ、にこりと笑った。
「滝川菊之助殿であらせられますな。初めてお目にかかります。それがし、滝川義太夫――ご存じなくとも無理はございませぬが、菊之助殿の甥にあたりまする」
丁重に頭を下げた男に、菊之助は目をしばたたかせた。
「なんと、義太夫?……ああ、兄上の……あの、ひょうげ者か」
「評判どおりの器量人とお見受けいたします。いや、それにしても立派な馬にて――まこと、菊之助殿にこそふさわしき駿馬と存じます」
軽妙に口を滑らす義太夫に、菊之助はまんざらでもなさそうに鼻を鳴らし、馬を降りてその前にしゃがみ込んだ。
「その馬のことであるが、兄上から譲ってもらおうと思うておる。されど…愛馬ゆえ、どうにも渋っておるようでな」
その言葉に、義太夫はおどけたように膝を打った。
「なるほどなるほど。されば、ご案じなさいますな。実は――兄上には、これよりもさらに上物の馬がござる」
「な、なんと」
「はい。堺の
「なに? 五百貫とな!」
菊之助は思わず目を見開いた。
百貫すら見たことのない若者には、夢のような話だ。
「見たい、見てみたいぞ! はよ連れて行け」
「いや、されど……その場所、城からだいぶ遠うございまして……それに、お母上に知られれば、お叱りを受けるやもしれませぬが……」
「母上には申すな! わしのことはわしが決める。兄上にも黙っておれ。よいな?」
義太夫は目を伏せ、わざと困ったように肩をすくめてみせた。
「……では、仕方ありますまい。ご案内つかまつります。されど道は険しゅうございますぞ?」
「かまわぬ。早うせよ」
すっかり目を輝かせている菊之助の頭の中には、もはや五百貫の名馬のことしかなかった。
(ふふ……まこと、他愛もない)
義太夫は笠の陰で口元を歪めた。
その顔に浮かんだ笑みの裏に、どこか影がさしたことを――誰一人として、気づく者はいなかった。
かたや、一益はひとり、滝城へと戻っていた。
城門をくぐると、家来たちが血相を変えて駆け出していく。誰もが口々に怒号を飛ばし、外へ散ってゆく。
一益は、その騒ぎを横目に、まるで他人事のように涼しい顔で居間へと入った。
「あのオヤジは、まだ母上のところか」
部屋の隅に控えていた侍女に、ぼそりと尋ねる。
「はい。菊之助様がまだお戻りでないゆえ、家中総出で捜索中にございます」
「ふん……くだらぬ」
一益は鼻先で笑った。その声には皮肉が滲んでいたが、怒りも焦りも見えない。
四ツ(十時)を過ぎたころ、外を探し回って埃まみれになった叔父・高安殿の一行が、疲れ切った足取りで帰ってきた。裾を払いながら、口々に小言を洩らしている。
その騒ぎに誘われて、滝御前が奥から姿を現した。ただならぬ気配をまとっていた。
「菊之助は、まだ見つからぬのか。家来どもをつけておきながら、なんという体たらく!」
叱責が廊下に響いたそのとき、ふいに一益が姿を現した。
「菊之助が戻らぬと聞き及びましたが……何か、手がかりは?」
静かに、涼しげな声で問う。
滝御前は一瞬、息をのんで表情をゆるめた。
「おお、久助。まるで神隠しのように姿を消したのじゃ。まったく、あれほどの者が……」
「それは一大事。急ぎ探さねばなりませぬ。我らも手分けして捜しましょう」
高安殿が、いつになく弱々しくうなずいた。
「頼む。あれは大事な滝川の跡取りじゃ」
一益は深く頭を下げた。
「承知つかまつった。心して捜しましょう」
神妙な面持ちの裏で、その瞳の奥には、冷たい光が潜んでいた。
最初から結末を知っていたかのように。
*
翌朝――城下に緊張が走った。
菊之助の家来三人の死体が、山中で発見されたのだ。
衣も刀も奪われ、顔も判別できぬほどに損なわれていた。領内は騒然となり、家々の戸口では、人々は顔を寄せ合い、ささやき合った。
だが、肝心の菊之助だけが、どこにも見当たらなかった。
五日が過ぎ、十日が経ち――
城内では次第に「神隠しか」「賊に連れ去られたのか」と噂が飛び交いはじめる。
そんな中で、義太夫は変わらぬ表情で、捜索にあたっていた。
雨の日も、風の日も。
図面を携え、山中に入り、村人に聞き込みを重ね、痩せた野犬に追いすがられてもなお、捜すふりをやめなかった。
図面の端には、京への道筋が、墨痕あざやかに引かれていた。それが誰の手によるものか――誰も知らない。義太夫の指先に残る墨の跡を、見る者もなかった。
*
その夜、義太夫は一益に呼び出され、例の丘へと姿を現した。
笠の影に、仄かな月光が落ちている。
夜風が草を撫で、遠くで梟が一声鳴いた。
「首尾はどうじゃ。あやつ、菊之助は?」
一益の声は静かだった。だが、その静けさは、底に鋭い刃を潜ませていた。
義太夫は、ひと呼吸置いてから口を開いた。
「……身ぐるみを剥いで、山中に放り出して参りました。今頃は、野垂れ死んでおりましょうや」
その言葉に、一益は声をあげて嗤った。
「ははは! あやつの泣き顔、見たかったのう。まさか兄にかような目に遭わされるとは、夢にも思わなかったであろう」
「……お見せしたかったほどにございます」
義太夫が遠慮がちに答えると、一益は満足げに頷き、ひとしきり笑い続けた。
しかし――その笑いの響きが夜気に消える頃、義太夫の目元は、もう笑っていなかった。
(命とは、かくも軽く……かくも重いものか)
胸の奥に去来する思いを、誰にも見せぬよう、義太夫はそっと笠の影を深くした。
*
菊之助の姿が城から掻き消えて幾日か。
不穏な沈黙が城中を覆うなか、にわかに廊下が騒がしくなる。
一益はその気配を感じ取り、静かに立ち上がった。
次の瞬間、慌ただしく駆け込んできたのは義太夫だった。
「左近様、一大事にござります!」
「如何した?」
「すみれ殿が……城を抜け出されたとのこと」
一益の胸が凍りついた。
「……なに?」
瞬きの間に立ち上がり、壁際の火縄銃と太刀を手に取る。
「すみれの腹に……わしの子が……」
「そ、それは……まことで?」
一益は無言で義太夫を睨んだ。
その瞳には、怒りとも悲しみともつかぬ光が宿っている。
「身重の女が、一人で甲賀を出られるものか。まして、逃げ道も、頼れる者もおらぬ」
義太夫は息を詰め、ただ頷いた。
「しかし、高安殿の手の者が、すでに街道筋を探っているとの風聞が……」
「ふむ……」
一益はふと目を伏せた。
「――そうか。すみれが甲賀を出ると、叔父御はそう踏んだのだな」
この甲賀の地に、すみれを匿う者などいない。
行き場をなくせば、外へ出るより他あるまい。
あの男は、そう読んでいたのだ。
「わしには、すみれも、その腹の子も、守る力などないと……そう思うておるのだ」
義太夫は返す言葉もなく、所在なげに一益を見た。
「すみれは甲賀のどこかにいる」
「左近様……?」
「出てなどおらぬ。あやつは、どこかに身を隠し……わしを待っておる」
「なればお二人に所縁の場所では?」
「……矢川大明神」
ぽつりと呟くと、一益はすぐさま馬の腹に脚を入れた。
馬が嘶き、甲賀の夜を蹴って駆け出す。
義太夫も、その背を追った。
夜風が甲賀の山を抜けていく。
梢を渡る音が、誰かの嗚咽のように聞こえた。
一益は馬上で、胸の奥に重い痛みを覚えていた。
命を奪うこと。
命を守れぬこと。
いずれも戦に生きる者の宿命――そう思っていた。
だがこの夜、はじめてそれが「痛み」として身に迫った。
それは、滝川一益という男が、
『人の命の重み』を知った最初の夜であった。
甲賀の南、
すみれもまた、滝御前の名代としてこの社をよく訪れていた。かつて一益が博打に負け、博徒たちに追われた折には、何度もこの社へ身を隠した。そのたびに、すみれは何も言わず、そっと食べ物を運んできてくれたことを――一益は今も鮮やかに覚えていた。
社の石段が見えてくると、赤く茂るモミジの木が、大きく影を落としていた。
「左近様、あれを!」
義太夫の声に、一益はハッとして目を凝らす。
社殿の脇、草むらのあたりに、すみれの姿。三人の男に囲まれ、石段を降りようとしているところだ。
「ここにも手を伸ばしてきおったか……」
一益は音もなく馬から飛び降り、草陰に身を滑らせた。
「何人おる?」
「三……いや、すみれ殿のそばを離れぬ一人と、様子を窺う二人、計三人かと」
義太夫が息を潜めて応じた。
一益は火縄銃を下ろし、筒口に弾を込め、火薬を押し詰める。指先の動きに、一寸の迷いもない。
「義太夫、気を引け」
「御意」
義太夫は軽く頷き、草陰から身を滑らせると、社屋の裏手へ消えた。まもなく、ふわりと煙が立ちのぼる。色と匂いを抑えた煙玉――視界を奪うには充分だった。二人の男が慌てて煙の方へ走り出し、すみれの傍に残ったのは一人だけになる。
(距離は三十間…)
風止みを待ち、息を殺し、引き金を絞る。空を裂くような銃声が響き、すみれの傍にいた男の体が前のめりに崩れ落ちた。
「よし!」
火皿の火を移し、装薬を詰めながら、石段を駆け上がると、社殿の脇から金属の打ち合う音。義太夫が既に斬り結んでいた。
「義太夫!」
「左近様、こちら!」
一益は音の方へ飛び込み、草むらに潜んでいたもう一人の郎党の背へ容赦なく刀を振り下ろした。断末魔が草に吸われる。
「……無事か」
「はっ。そちらもご無事で」
義太夫が返り血を袖で拭いながら笑う。見ると、もう一人の男も倒れていた。さすが義太夫、やるときはやるのだ。
一益は小さく頷き、すみれの元へ駆け寄る。
「このまま城を捨て、甲賀をでよう」
「甲賀を……出るのでござりますか」
「未練はない。水口を抜けて日野へ――日野中野城主・蒲生賢秀殿に口利きいただければ、六角のお館様にお目通りが叶い、城を取り戻せるかもしれぬ」
本心ではそこまで事が運ぶとは思っていなかった。だが、すみれの不安を和らげたかった。
「左近様。人馬の音が……」
義太夫が耳をそばだてる。幾騎かの蹄の音が近づいてきた。先ほどの銃声を嗅ぎつけられたのだ。一益は舌打ちして素早く馬にまたがる。
「さ、早う!」
手を差し出すと、すみれが小さく頷いて手を取った。義太夫が後ろから支えて馬に乗せる。
「寺に籠って迎え撃つ手も――」
「いや……倒したとて、また次が来る。逃げるぞ」
三人は馬を駆り、山道を南へ下る。甲賀の谷を抜け、水口から日野へ――蒲生領に入れば追手もおそらく諦めるだろう。
身重のすみれを伴う旅。険しい峠越えを避け、あえて平地の道を選んだ――その判断が、裏目になった。
昼なお森の影が濃く、虫の音ばかりが耳につく。
水口から日野へ抜ける街道は、緩やかな丘と雑木林が続き、道の両脇には竹と茂みが迫っていた。
すみれを抱きかかえるようにして馬を走らせる一益。そのすぐ後ろを、義太夫が追う。
風を裂く鋭い唸り――矢だ。
第一の矢が義太夫の袖をかすめ、二の矢が馬の鞍に突き立つ。
「すみれ、しっかりつかまっておれ!」
一益は叫び、さらに馬の腹を蹴った。
その声に応じるように、すみれの指が衣の端をきつく掴む。
「馬から降りて、斬り伏せるか」
「はい」
一益は馬の脚をとめると、ヒラリと飛び降り、腰の脇差を引き抜いて、走り迫る一騎の武者めがけて投げつけた。鋭く風を裂いた刃は、見事に馬上の武者の肩口に突き刺さる。男は声もなく、もんどり打って馬から転げ落ちた。
その隙に、義太夫が駆け寄り、手にした火縄銃を一益へと差し出す。
「左近様!」
一益はそれを受け取るや否や、冷静に次の追手へと銃口を向けた。狙いすました一撃――乾いた銃声が山間にこだまし、二騎目もまた、土煙の中に崩れ落ちる。
「これは?」
「矢川大明神の思し召しなれば……」
一益は思わずニヤリと笑った。社に仕込んでおいた銃か――義太夫の周到さには頭が下がる。
「抜かりないのう、義太夫」
二丁あれば、敵に隙を与えぬ連射ができる。
一益は再び銃を構え、三騎目を落とす。四騎目は矢音だけ残して退いた。
ようやく一息ついた一益は、銃を静かに地に置いた。
「義太夫?」
だが、そばにいるはずの義太夫の姿が見えない。
辺りを見渡すと、義太夫は少し離れたところ――馬の脇に、静かにしゃがみ込んでいた。その隣に、青みがかったすみれの着物が、わずかに風で揺れている。
まさか――
一益は息を飲み、駆け寄った。
すみれの体が、ゆっくりと傾ぐ。その胸には、流れ矢が、みぞおち近くに深く突き刺さっているのが見えた。
「すみれ……!」
呼びかける声が、裏返る。
義太夫が両手で出血を抑えていた。だが、血は指の隙間から音もなくこぼれ、草の上に黒く広がっていく。
すみれの息は浅く、顔は死人のように青白かった。一益はすみれの指を包み、唇を寄せた。
「…すまなんだ…」
その言葉に、すみれの唇が、何かを言いかけたように震えた。そして、かすかな笑みが浮かんだ。
それは――春の雪が溶けるような、儚くあたたかな微笑だった。
そのまま、すみれは静かに息を落とした。
義太夫はしばし迷い、やがて両手を離した。
「これ以上、苦しめては……」
苦悶の面持ちで、義太夫は腰の脇差を抜き、両手で恭しく差し出す。
一益は無言でそれを受け取り、すみれの手を取った。
か細い指先は冷えきっており、もう、この世の熱から遠のきつつあった。
「……すまぬ。許せ」
その声は、もう震えていなかった。
一益は短刀を傾け、すみれの喉笛を払った。
ひと息――苦しみが止む。
その瞬間、すみれの目が静かに閉じる。何も言わず、何も求めず、すべてを預けるように。
風が血の匂いをさらい、葉が一枚、彼女の髪に落ちた。
血の海のなかで、すみれの頬に一筋の涙が流れた。
それが痛みの涙か、安堵の涙か、それとも――一益への想いかは、もう、誰にも分からなかった。
空に、雲がゆっくりと流れていた。
風が音もなく吹き抜け、すみれの黒髪をそっとなびかせる。
その髪に、モミジから一枚、赤く染まった葉が舞い落ちた。
――それはまるで、すみれの命そのもののように、草の上にふわりと沈んだ。
しばらくのあいだ、一益は動けなかった。
指の間からこぼれる血の温もりが、彼女がまだ生きているようで、離れられずにいた。
義太夫は、何も言わずにその背を見つめていた。
やがて、かすかに唇を動かし、そっと声をかけた。
「……左近様。行きましょう」
応える声はなかった。
一益の肩がわずかに震え、指先が、すみれの黒髪をなでた。
その髪には、さきほど落ちた紅葉の葉が、まだ貼りついていた。
風が通り抜け、血の匂いをさらってゆく。
やがて一枚の木の葉が、空を舞い、静かに地へ還った。風は、それをやさしく見送っていた。
*
夜。
高安殿の居間には、酒の匂いがしみついていた。
顔を真っ赤に染め、脇息にもたれかかるその姿は、もはや一国の主とは思えぬ有様だった。
「誰も彼も、甲賀の連中は腑抜けじゃ。言うばかりで、手も足も出ぬ。……まったく、見ておれぬわ」
杯を片手に、わざとらしく天井を仰ぎ、毒を吐く。
昼間、城を抜けたすみれの行方を追わせた家来たちは、誰一人戻って来なかった。
高安殿はすっかり苛立ち、周囲に当たり散らすこともできず、酒で気を紛らわせていた。
そこへ、ひとり、音もなく一益が入ってきた。
「なんじゃ、久助か。呼びもせぬのに……まあよい、そこへ座れ」
一益は無言のまま、静かに膝を折った。
「おことは、相も変わらず陰気な顔つきよ。墓の中から這い出てきたようじゃ。
――姉上が申しておったぞ。『あの久助は出来損ない』とな」
高安殿は、杯を揺らしながら、にたりと笑った。
「『母であるこのわしにも、あの子が何を考えとるのか分からぬ』ともな。
くく……母親にそう言われる子が、いったいどこにおる」
その声が、静かな座敷にじくじくと沁みていった。
一益はうつむき、何も言わない。
だが、その沈黙の奥で、瞳がかすかに揺れた。
炎のようでも、氷のようでもない――ただ、決意の色だけが宿る。
(すべて……終わらせよう)
沈黙を裂いたのは、高安殿の下卑た笑いだった。
「久助よ……おことのような陰気な子が、ようもこの家の柱面しておれるものよ。甲賀の者は、誰もが腑抜け。おことも同じじゃ」
その舌が、最後まで動いた。
踏み込み、肘で払って間を詰め、袈裟に落とす。
ほとんど反射的に刀を振り抜いていた。
「……我こそは滝川一勝の子にして、滝川家の嫡流、左近将監一益なり」
一益の声が、雷のように鳴り響いた。
高安殿は血に咽びながら後ずさり、畳の上を転がる。
「で、であえ……者ども!」
叫びに応じるように襖が開かれ、家臣たちが雪崩れ込んだ。
だが、その場に足を踏み入れた者は、誰ひとり動けなかった。
畳の上には、血にまみれた高安殿の亡骸。
その傍らに、一益が立っていた。
刃先からしたたり落ちる血が、ぽたり、ぽたりと畳を打つ。
何も言わず、ただ、眼だけが光っていた。怒りでもない、激情でもない。ただ底なしに静かな、ためらいを失った目。
誰かが息を呑み、誰かが退いた。その場の空気が、一益のまわりだけ別の温度に沈んでいく。闇そのものが形を得て立っているかのようだった。
そのとき、乾いた銃声が鳴り、ひとりが崩れた。
義太夫が廊下の陰から現れ、槍を構える。
「左近様!」
一益が目だけで応じる。
二人の間に、言葉はいらなかった。義太夫が槍を構え、廊下に突き出す。
その隙を、一益が駆け抜け、斬り結ぶ。叫び声が交錯し、刃が閃き、廊下の灯が血で染まった。
一瞬のことだった。振り下ろし、斬り払い、踏み込み、返す。
誰も見えぬ早さで、二人は敵を葬っていった。
最後の一人が崩れ落ちたとき、義太夫が短く息を吐いた。
「さ、早う。城の者がこの騒ぎに気づきましょう」
「相わかった」
一益がうなずき、刀を腰に戻しかけた、その時――
「久助……」
恐れおののく声が、襖の陰から漏れた。その響きに、一益の動きが止まる。
月明かりに照らされて現れたのは、滝御前であった。
乱れた髪をかき上げもせず、老いたその手に、薙刀が握られている。
震える声の底には、恐怖よりも侮蔑があった。
「なんと……恐ろしい子を産んだものよ。おまえは、もう人ではない」
一益は、ただ黙って見ていた。
その眼は、怒りを越えて冷えきっていた。
母の言葉を受け止めながら、心の底で、何かがすうっと遠ざかっていくのを感じた。
(いま死んだ。母という名は)
義太夫が一歩、前に出る。
「左近様……」
目で『斬るな』と告げていた。
その目に宿るものが、一益の理性をぎりぎりのところで繋ぎとめた。
一益は、刀の柄にかけた手をゆっくり離した。
「いつか……いつか必ず甲賀に戻る。我こそは滝城主なり」
それだけを言い残し、踵を返すと、窓枠を蹴って夜の闇に身を投げた。
堀の水は冷たく、体を刺すようだった。
泥にまみれながらも、泳ぎ、泳ぎ、ようやく高い土手をよじ登る。
こうして、一益は、生まれ育った城を脱した。
少し離れた丘の上まで馬を走らせ、息を整えながら振り返る。
滝城の一角から、赤い火の手が上がっていた。
静まり返った夜空に、炎が花のように揺れている。
「義太夫……そなた、火をかけたか」
やりすぎだ――そんな思いをこめた問いに、義太夫は涼しい顔で答えた。
「ご案じめさるな。時間稼ぎに、櫓ひとつを焼いたまで。今宵は風もなき夜にて」
小城の中では、さぞかし上を下への大騒ぎだろう。
だが――その光景を思い浮かべても、一益の胸に湧き上がるのは、怒りでも快哉でもなかった。
(いつか……必ず、甲賀を奪い返してみせる)
そう誓う一方で、生まれ育ったこの地への想いは、どこか遠く霞んでいた。
実の弟を葬り、叔父を斬り――怒りはもう、内にとどまることを知らない。
ただ、重い沈黙だけが、馬上の一益を包んでいた。
「日野へ参りまするか?」
義太夫が静かに問う。
水口を越えた先――日野。
すみれを、土に還した地である。
だが、一益はゆるく首を振った。
「……いや。鈴鹿峠を越えよう」
「峠を。――では、参りましょう。今宵のうちに甲賀を抜けねば、追手が迫ります」
義太夫の言葉にうなずき、一益はもう一度だけ、滝城を振り返った。
――同根の火は、もう要らぬ。
燃え立つ炎の向こうに、かつての己が立っているような気がした。
「……よし、参ろう」
ひとことだけ呟き、手綱を引く。
馬が夜風を切る。草の露が、月明かりをはじく。
滝川左近将監一益――
彼が再び、甲賀の地を踏むのは、十四年後のことである。
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