月に一度、姉妹は人を殺す

紅蟹

第1話 新月と血の匂い

味の素を切らしていた。それが、この日いちばんの異常だった。


 私、一ノ瀬真理は、二十八歳。都内の大学で分子生物学を専門に研究している。派手な人生ではないが、それなりに忙しく、そして平穏に暮らしていた――少なくとも、先月の“あの日”までは。


 私は、毎日をロジックと手順で組み立てて生きている。

 朝のPCRは七時にセット、昼は研究室近くのコンビニで納豆巻きとインスタント味噌汁。夜は家で軽く自炊。唯一の同居人である妹、彩花に「お姉ちゃん、生活に情緒がなさすぎる」と言われたこともあるが、私に言わせれば、情緒に身を委ねた時点で研究者としての資質を問われる。


 その日、私は昼のルーティンでいつもの納豆巻きを手に取ったとき、ふとあることを思い出した。


 ――味の素、切れてたんだった。


 大したことではない。けれど、私の中の何かが、ほんのわずかに揺らいだ。


 店を出ると、真昼だというのに空には薄い雲がかかり、ところどころに月がのぞいていた。

 新月が近い。視認できるのはかすかな光の輪郭だけで、それが余計に不吉に思える。


 科学者の端くれとして、私は月の形と精神状態の相関について「根拠のない俗説」だと断言する立場にある。けれど、あの日の私には、月の細さが、味の素の不在と、不協和音のように重なって見えた。


 夜、予定より早く研究を切り上げ、帰宅の途についた。


 めずらしく実験が順調だったのと、彩花と久々に夕飯を食べようと思ったのだ。妹は今、都内の私立大学に通う二十歳。文学部の二年生で、日中は講義、夜はコンカフェでアルバイトをしている。


 正直に言えば、私は妹の生活にあまり干渉しない。服装は派手だし、恋愛も奔放気味。だが、学費は奨学金と自分のバイトで賄っているし、家事もきちんと分担してくれる。

 何より、私にはない「感情で人を信じる力」が彼女にはあって、それがうらやましくもあった。


 帰りの電車の中で、何度かLINEを送る。


 「今日は早く帰る」

 「家にいる?」

 既読はつかない。まあ、バイト中かもしれない。


 20時半。マンションに着くと、玄関の灯りがついていた。


 「あれ……?」私は無意識に玄関先で足を止めた。


 バイトの時間帯のはずなのに、なぜ部屋にいる?


 リビングに入った瞬間、鼻をつくような、鉄と肉の匂いに思わず足が止まった。

研究室で細胞や動物組織を扱ったことのある人間には、すぐにわかる――血の匂いだ。


 次の瞬間、視界が赤く染まった。


 彩花が、床に倒れていた。


 服は裂け、腹部からの出血で床が染まっている。傍らには、血のついた包丁が落ちていた。


 「彩花ッ!」


 私は駆け寄った。まだ息はある。目も、かすかに開いている。


 「お、お姉ちゃん……あの人……元彼……鍵……開いてたから……」


 彩花の声は、蚊の鳴くようなかすかな音だった。


 スマートフォンを手に取ろうとしたとき、リビングのソファの影から何かが動いた。


 男だった。二十代後半。目は血走り、息は荒く、手にはもう一つ、ナイフが握られている。


 「なんで……なんで彩花が、俺を無視するんだよ!」


 私は一瞬で理解した。

 ――こいつが、彩花の元彼だ。


 次の瞬間、私の腹に灼けるような痛みが走った。男の手元が光ったと思ったときには、すでに私の体が引き裂かれていた。


 意識が遠のく中、私はただ、彩花の泣き声を、微かに聞いていた。


 その後の記憶は、ぼんやりとしている。真っ白な空間。どこまでも静かな、冷たい空気。


そして、その静寂の中に、どこからともなく声が響いた。


 低く、乾いた男の声。けれど、どこか軽薄で、妙に明るい抑揚を含んでいた。


 「……よかったら、ちょっと面白い仕事、やってみません?」

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月に一度、姉妹は人を殺す 紅蟹 @chinjao_roast

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