第2話 青年

 村では平穏な日々が流れていた。魔物の噂による不安が次第に広がりつつも、いまだこの小さな村では脅威の兆しは感じられず、季節が移ろっていった。

 そんなある日、一人の青年がこの村を訪れた。引き締まった身体と無駄のない所作が、彼が肉体労働──農耕、狩猟、大工仕事、あるいは戦闘行為──に鍛えられてきたことを表している。

 居合わせた村人たちは、その疲れ切った様子と沈んだ雰囲気にややたじろぎながらも、この村では長老が村長を兼ねていること、長老の家は村の中央にあることを教え、彼の馬を村入口の馬留に繋いでおくように勧めた。

 青年が長老の家を目指して歩き出したとき、大樹と呼ぶにふさわしい、一本の大きな木が青々と葉を茂らせているのが目に入った。

 その枝葉は大きな傘のようで、まるで村全体を包み込むような包容力を湛えていた。正確な樹齢などは皆目見当もつかないが、長年この村を見守り、皆に大事にされてきたことが察せられた。

 他の村々にも同じような象徴的な木はよく見られるが、これほどまでに古く大きい樹木が根を下ろしているところは多くない。それは、この村が、大過なく静かで平和な時間を過ごしてきたことを表していた。

 その後、青年は何人かの村人とすれ違った。この村は小さいが、交易が行われており旅人の姿も珍しくないと見え、行き交う人々はいずれも礼儀正しく、青年は小さな安堵を覚えた。

 長老は、青年の訪問を快く受け入れてくれた。促されるまま腰を下ろすと、青年は、魔物討伐の協力を求めてこの村を訪れたことを語った。

 長老は、青年の言葉に真摯に耳を傾けてくれた。そして、青年から討伐隊の募集活動をしたいこと、またそれに至った経緯を一通り聞き終わると、村での活動を許可してくれたのだった。

 さらに長老は、青年自身が戦うためにもできることがある、と告げ、魔女の存在と、魔女が与える大きな力のことを語った。

 魔女の加護と呼ばれるその力は、戦士たちに途方もなく大きな力を与えるという。実際に、その噂を聞きつけた騎士や戦士がときどきこの村を訪れ、魔女に加護を求める姿が何度も見られた。ただ、加護を得た者たちはその力を誇示したり吹聴するようなことはしなかったので、この村にも加護について詳しく知る者はいないらしい。そもそも、加護を授けられること自体がまれで、門前払いを食らった者たちも少なくなかった。

「それでも構いません。どこに行けば魔女に会えるか、教えていただけませんか」

 青年はきっぱりと長老に告げ、その答えを得るや否や、礼だけを述べて長老の家を飛び出していった。

 長老の家を出た青年は、そのときになって自分の乗ってきた馬の疲労を思い出し、自分がいかに焦っているかを知った。彼は気を取り直し、馬のある家を訪ね、村人から借りようと声を掛けた。しかし、魔女の名を出した途端、みな一様に

「魔女のところに行くのはやめておいた方がいい」

「加護を求めた騎士も戦士も誰一人帰ってこなかった」

「魔女に食べられるぞ」

などと恐れるばかりであった。

 青年が、徒歩も辞さない覚悟を決めかけた頃、一人の老婆が馬を引いて現れた。騒ぎを聞きつけ、わざわざ自分の馬を連れてきてくれたのだった。

「それでも行くと言うのなら、この馬を使いなさい」

 老婆の申し出を、青年はありがたく受けた。そして馬にまたがり、ようやく魔女の住むところへ向かうことができたのだった。

 老婆は、青年の駆ける姿を温かく見守っていた。そのまっすぐ走り去って行く背中を見つめる目には、青年と魔女との邂逅に対する、期待と不安が滲んでいた。


 青年は、馬を励ましながら不慣れな道を乗り越えて、途中で何度か迷いそうになりながらも、ついに魔女の小屋にたどり着いた。煙突から立ち上る煙に、思いがけない生活感を覚えながら、扉を叩いて魔女を呼ぶ。

 ややあって扉が開くと、そこには魔女が立っていた。青年は、加護を求める一心で、夢中で馬を繰ってきたものの、加護を与える存在である魔女その人のことについて、ほとんど何も考えていなかった。突然一人の女性を目の前にして、ややうわずった声で──本人は変わらぬ態度のつもりであったが──切り出した。

「初めまして。遠くの村から先ほど村に到着しまして、長老様よりあなたのことを伺い、こうして参りました」

「突然のお願いで申し訳ありませんが、私に加護を授けてくださらないでしょうか」

 不躾な申し出に魔女はいぶかしげに見えたが、彼女の魔女としての責務からだろうか、小屋の中へ迎え入れてくれた。

 青年が戸をくぐると、かまどには火が入り、お湯を沸かしている気配がある。煙突の煙の正体を見ても、今の彼にはそれを気に留める余裕などなかった。

 彼は、自分がこれから討伐隊を組織し、自ら先頭に立って魔物を退治しに行くつもりであり、そのために魔物に対抗しうる力がどうしても必要だということを、まくし立てるように一気に魔女にぶつけた。

 魔女は動じることなく、

「詳しく聞かせなさい」

とだけ言って青年をテーブルにつかせ、無言のまま茶を淹れ始める。青年は、自身の焦りと内心格闘しながら、無駄なく茶が淹れられていく様を眺めているうち、部屋中が心地よいハーブの香りで満たされた。

 魔女から差し出された木彫りのカップは、いかにも手作りであったが、しかしその手触りには言い得ぬ安心感と温もりを覚えた。

 これまでの旅程で、よほど緊張が張り詰めていたのだろう。馬の疲れにも気が回らないぐらい焦っていたのは確かだし、今も気が急いてしまっているのを分かっているが、どうしようもない。しかし、本当にそれだけなのだろうか。木彫りのカップを手にして、その温もりで少し落ち着けただけなのだろうか。このカップから伝わる温もりは、ハーブティーの温もりだけではない、何か特別なものを感じる──。

 青年の思考を遮るように、魔女は話を切り出した。

「加護を授けることは、簡単にはできません。まずはあなたが加護を求める理由を聞かせなさい。あんなに急いた説明では、何も判断できないわ」

 魔女の要求はもっともなことであった。青年は、先ほどの愚を繰り返さぬよう、深く呼吸して息を整えた。先ほど村で長老に話した内容を思い出しながら、あらためて、彼が命を懸けて魔物たちを討伐しようとしている理由を語り始めた。

 彼の故郷の村は、つい先日、魔物による襲撃を受け壊滅的な打撃を受けた。その場にいた者たちが奮闘し魔物を退けはしたものの、畑や住居は無残にも荒らされ、多数の村人が犠牲になった。一度は立ち去った魔物たちも、いずれまた戻ってくると考えられ、村の皆は不安な日々を過ごしていた。

 幼い頃、両親を魔物に殺されていた彼にとって、それは痛恨の出来事であった。今回は村を不在にしていたことで自身は難を逃れたが、命拾いした幸運よりも、村と、村の皆を守れなかった悔しさが彼の心を覆っていた。そこで彼は意を決し、村の復興を残った者たちに任せ、討伐隊編成のため村々を巡っているのだった。

 この襲撃事件は、このあたりにも聞こえるようになって久しかった魔物の脅威の噂が、ついに現実になったことの現れであった。そして、その危険が周辺の村々に及びつつあることも、また明白だった。

 討伐に向かう者たちが無事に帰れる保証はなかった。しかし、誰かがその責を負わねば、皆が滅ぶ。この青年は、その危険な役を自ら買って出ているのだ。

 落ち着いた青年の語り口はとても冷静で整然としていたが、語るうちにその挑戦が無謀なものにも思え、手の震えを止められないほどであった。

 魔女は、彼の語る姿をまっすぐに見つめ、ただ黙って聞いていた。だが彼女の表情は真剣そのものであり、青年の決意と覚悟の強さを見極めようとしているようであった。

 語り終えた青年は、手の震えを抑えようと、無意識に手元の木彫りのカップを両手で握った。そのとき、手のひらに伝わる優しさと温もりでふっと身体の力が抜けたような感覚に襲われ、また自分が焦りに突き動かされていたことに気づいた。

「……すみません、旅の疲れもあって、ずいぶんと緊張していたようです」

「自分が決めたことのはずなのに、こうして口にすると、立ち向かうものの大きさを思い知らされます」

 青年が語り終えたのを受けて、魔女は静かに答えた。

「あなたの動機と覚悟は理解しました。しかし、魔女の加護は、とても強力なもの。軽々しく授けられるものではありません」

「それに、加護の授与はひときわ特別な魔力行使なのです。儀式の準備のために、数日かけて瞑想と魔力充填を行う必要があります」

「あなた自身の覚悟が変わらなければ、この村を出発する前の日の夜に、もう一度ここに来なさい」

「加護の儀式は、完全なる夜──すなわち陽が落ちた後に行います」

 青年は歯がゆく思ったが、その条件を受け入れざるを得ないことも分かっていた。もともと討伐隊の募集のために何日か滞在するつもりであったし、馬にも休養が必要であった。

「……承知しました。準備に時間が要るのは、当然のことです」

 青年は、短く答えた。

 これから数日間の予定が決まり、ようやく一区切り着いた感のあった青年は、周囲を見渡す余裕を得た。壁際に飾られた、数多くのの木彫りの置物。不揃いで、混沌としていて、ただ空間を支配するだけの非生産的な集合体。その存在が、力と秩序を象徴する魔女には、いかにも釣り合わない。

「木彫りの置物が好きなんですね」

「そうね」

「どれも素敵ですね。あの大きな葉っぱの形なんか、味わい深くて好きです」

「用が済んだなら早く帰りなさい」

 にべもない魔女の返事に、青年はただ従うほかなく、小さく「失礼しました」と残し、もと来た道を引き返した。

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