第8話
第8話
森の匂いは、いつだって心地よい。
その中でも一番なのは、雨上がりの森の匂いだ。
それほど心の平穏を与えてくれるものはない。
もちろん、だからといって雨が良いというわけではない。
いずれにせよ、雨に濡れないためには傘を差さなければならないからだ。
「やれやれ…よりにもよって今日、雨が降るなんてな…」
雨が降っている。
聞くところによると、この辺り一帯では時折にわか雨が降るという。
それが予想できるにわか雨ならまだしも、どうやら突然降るにわか雨なので、人々も対処に困っているようだ。
にわか雨だけでなく、雨が降ることは都市にとっては祝福に他ならない。
雨が降れば、民が力を入れずとも農作物に水をやることができるからだ。
その間、民は家事をしたり、疲労を癒したりできる。
子供のいる家庭なら、子供たちと家で遊ぶことも可能になるため、民の幸福度という面では上昇が見込める。
これだけ見れば、雨は空から幸福が降ってくるものと考えられるが、悪い点も確かにある。
大量に降った場合、家や地盤が崩れる可能性もあるし、洪水が起きて民の半分、あるいはそれ以上が死ぬこともある。
その他にも、馬車で移動する場合、事故が起きる確率がかなり上がる。
このようなことがHoWに実装されているので、心配しないわけにはいかない。
「イカロス様」
「ん?どうした?」
「本当にエルフがいる場所をご存知なのですか?」
レモトリアは木の葉で急ごしらえした傘を差して俺についてきながら、周りをきょろきょろと見回している。
「俺を信じられないのか?」
「い…いえ、私は常にイカロス様を信じております!」
「それなら、信じてついてこい」
エルフの中立の村は、基本的に森の中にある。
森の地形特殊効果は『隠蔽』。
いくら隠蔽といっても、俺のユニットが近づけばその隠蔽は解け、隠されていた村の姿が現れる。
俺が今、こうして歩き回っている理由は、まさにその隠蔽を解除するためだ。
「はあ…」
レモトリアはそれ以上、俺に話しかけてこない。
「ところで、ロゼは今どうしてる?」
「それが…二日前、森へ行ってから姿が見えません」
「よかったな」
幼い子供が森に入って消えた。
家族や村の大人たちなら、驚愕するようなことだ。
万が一、山賊や盗賊、あるいはクリープに命を落とすかもしれないし、どこかの崖から落ちて怪我をしているかもしれないからだ。
しかし、今俺がいるこの森には崖はもちろんなく、中立のクリープや森の盗賊たちでさえ、レモトリアが完璧に掃討した状態だ。だから、ロゼが死ぬことはないと言える。
ならば、残る可能性は一つ。
ロゼが戻ってこない理由は、エルフと接触したからだ。
「エルフに会って村に入れ。もしエルフに会えなかったら村に戻り、翌日再びエルフを探せ」
これがまさにロゼに下した命令なので、ロゼがエルフと接触して戻ってこない可能性は、この森で死んだ可能性よりもはるかに高い。
エルフが精霊化をした可能性を排除することはできないが、ユーザーが操作中の村でもなく、中立の村であれば精霊化はほとんどしないし、あんな幼い子供ならなおさら精霊化はしないだろう。
「それなら、次の段階に進んでいるだろうな」
俺の言葉に、レモトリアは頷く。
「もしロゼがエルフの村に入ったのなら、今頃は印をつけているはずです」
もう一つの命令が、まさにエルフの村の近くに印をつけておけ、というものだ。
「しかし…大丈夫でしょうか?ロゼにどう印をつけるかは指示しておりませんが…」
「まともな印をつけられなかったら、まあ…そこまでということだろう」
今回の件は、エルフの村を対話で占領することと同時に、ロゼに対するテストでもある。
今、俺はロゼを偵察兵、そして敵国のスパイとして育てるつもりでいる。
俺の背後に忍び寄るその動きを見れば、相当な才能を持っていることがわかる。
今俺がいるこの世界は、夢ではなく、HoWを背景とした現実の世界だ。
ゲームであれば、一般の兵士は皆同じ姿をしていて、英雄になる可能性はないだろうが、現実の世界となった今は違う。
もし才能のある人間をうまく育てれば、英雄、あるいは英雄に近い能力を持つことになるかもしれない。
ロゼは、それを確認するための子供だと考えればいい。
そして今が、まさにテストをする絶好の機会だ。
「イカロス様…!」
あくびをしながら歩いている俺を、レモトリアが捕まえる。
「なんだ?」
「ここに…!」
レモトリアが指さしたのは、一本の木。
その木を、じっくりと見た。
「お…」
外から見れば、普通の木と変わらない木。
しかし、周りにある他の木と一つだけ違う点がある。
「こんな風に印をつけるとはな…」
「ここにもあります」
ロゼが印をつけた方法は、俺が考えもしなかった方法だ。
「木の皮を少し剥がして、その中に印をつけるとは…」
ナイフで微かに木の皮を剥がし、その中に鋭い短剣のようなものでちょこんと印をつけてある。
レモトリアが俺の隣にいなければ、俺はおそらく発見できなかっただろう。
「さて、と…」
インベントリから短剣を取り出して手に握り、レモトリアがつけた点の横に、木を少し傷つけ、皮を再び被せた。
「よし、 अब戻ろう」
「は…?もうお帰りになるのですか?」
「そりゃ当然だ。印も発見したことだし。 अब戻って仕事をしないと」
レモトリアは残念そうな顔をして、しょんぼりと垂れ下がる。
「なんだ?仕事したくないのか?」
「そ…そうではなく…イカロス様とのデートが…」
「お前、今まで俺についてきた理由、それだったのか?」
「い…いえ!私がどうして、そのような不敬な考えでイカロス様にお供いたしましょうか?!」
俺を好いてくれるのは本当に嬉しいが、今のような重要な状況でまでそんなことを考えられると、かなり厄介だ。
「レモトリア。デロスがもう少し成長して、安定期に入ったらデートしてやるから、今は仕事のことだけ考えろ」
「本当でございますか!?」
いつ残念がっていたのかというように、翼を大きく広げて明るく笑うレモトリア。
「あ…ああ…」
「では、今すぐ仕事に取り掛かります!」
レモトリアは鼻歌を口ずさみながら飛び上がり、デロスの方へ素早く飛んでいく。
残されたのは、その場にぽつんと立ち、降りしきる雨に打たれている俺一人。
「おい…レモトリア!せめて傘は置いていけ!」
***
果てが見えないほどの巨大な木が、そびえ立っている。
周りを歩き回っているのは、耳が長く尖った人々。
皆、一様に若く美しい人々ばかりだった。
しかし、彼らの中に少し違う姿の子供がいた。
今、この村にいる人々は皆エルフだったが、その子供一人だけはヒューマンだった。
「セイラお姉ちゃん…!」
そんなその子に近づいてくる一人の女性。
彼女の性格を表すかのような鋭い目つきと、きつく結んだ唇。木の葉のデザインのピンを髪に挿した、光を受けてきらめく長い白髪の少女。
まだあどけなさを残した体には弓を、腰には木の葉の蓋でできた矢筒を提げていた。
「ロゼ」
「どう…だった…?」
ロゼが不安そうな目で尋ねると、セイラは後頭部を掻きながら、やがて笑って親指を立てて見せた。
「許しをもらったよ」
「本当?!」
ロゼはセイラに向かって駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、セイラお姉ちゃん」
「どういたしまして」
セイラは恥ずかしそうに後頭部を掻いた。
「でも、ロゼ」
「うん?」
「そこからどうやって抜け出してきたの?」
「その…怖かったから、イカロスっていう人を少し慕うふりをしたら、すぐに警戒心を解いてくれたの」
「イカロスって…あなたが殺そうとしてた、あの男のこと?」
「うん」
そう答えると、ロゼはしょんぼりとした表情でセイラに言った。
「お姉ちゃん、ごめんね…私が、あの人を殺すべきだったのに…」
幼い女の子の口から出るには難しい言葉に、セイラは切なそうに見つめ、そして微笑んで頭を撫でた。
「ううん。そんなことを頼んだ私の方が、もっとごめんね。もうあなたは、この村で楽に過ごせばいいんだよ」
「でも…」
「あまり心配しないで。あの人は、私が何とかしてこの森から追い出すから」
この森、レプレス・フォレストは、何千年も前からエルフの祖先が生きてきて管理してきた森だった。
そんな聖なる土地を、人間に荒らさせるわけにはいかなかった。
「どうするつもり?」
「それは…」
ロゼの問いに、セイラは深いため息をついた。
彼女に村の頭の暗殺を任せた理由。
それは、まさにエルフの生命尊重の気質のためだった。
エルフは、いかなる命も殺してはならなかった。
どんなに他の種族が攻撃してきても、先に攻撃してはならず、もし人を殺してしまった場合は、精霊化を通じて精霊にし、共に生きていかなければならなかった。
もし、その生命尊重の気質を破った場合。
エルフは堕落する。
堕落したエルフには、体に堕落の紋様が刻まれ、どの種族からも歓迎されない、孤独な生活を送らなければならなかった。
寿命の短いヒューマンのような場合は、一生を一人で過ごすことがそれほど大きな問題にならないかもしれないが、エルフは長寿種。
長ければ5000年も生きる種族にとって、一人で生きろというのは、まさに地獄も同然だったため、堕落したエルフの中には、生きることを諦め、再び土に還る選択をする者もいた。
「ゆっくり考えてみないとね」
セイラは微笑み、ロゼの手を取った。
「さあ、じゃあ家に帰ろうか?」
ロゼはセイラを見つめ、微笑んで答えた。
「うん!」
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