第2話 賢者の噂は千里を駆ける

日曜日の朝、影山家の食卓は、シベリアの永久凍土よりも冷え切っていた。


「……いい、修。もう一度言うわよ」


母親は、能面のような無表情で俺に告げた。その声は、絶対零度の冷たさを帯びている。


「庭での奇行、一切を禁じます」


「……奇行じゃない、井戸堀りだ」


「口答えしない!」


ピシャリ、という音は、母親がテーブルを叩いた音か、俺の心が折れた音か。父親は黙って新聞を読んでいるが、その紙面の向こうから「お前のせいだぞ」という無言の圧力がひしひしと伝わってくる。俺の異世界転生計画第一弾『プロジェクト・ウェル』は、家族からの全面的な反対と、近隣住民からのサイコパス認定という、最悪の結果をもって頓挫した。


「フン……」


俺は、さも「想定内だ」と言わんばかりに鼻を鳴らし、自室へと退却した。


「好都合だ。物理的アプローチが封じられた今、心置きなく知識チートの基盤を固められる。賢者は、まず知を蓄えるものだからな」


誰に言うでもない言い訳を呟き、俺は机に向かう。そこには、俺の新たな計画を支えるはずの叡智の書が積まれていた。『図解・中世の技術』、『化学でわかる危険物』、『サバイバル事典』。これらを読破すれば、俺は歩く人間国宝、いや、歩く人間チートと化すはずだ。


だが、その横に、魔性の輝きを放つ一冊があった。昨日、本屋でついでに買ってしまったラノベの新刊。『魔王を倒したけど、年金問題の方が深刻だった件』。


「…………」


俺は、その本から目をそらし、必死に『中世の技術』へと手を伸ばす。しかし、脳裏に新刊のあらすじがちらつく。勇者が魔王を倒した後の世界で、老後の資金繰りに奔走する……だと?なんて斬新な設定だ。これは、偵察せねばなるまい。適切な知識を学ぶためにも、異世界転生のあらゆる可能性を知っておく必要がある。


「……少しだけだ。概要だけ把握したら、それ以上は読む必要が無い。」


ページをめくると、そこには剣も魔法も使えない、ただのおっさんになった勇者が税務署の職員に資産差押えを宣告されている場面が広がっていた。


「(ほう……。魔王城の財宝は、現物資産として課税対象になるのか。面白い視点だ)」


読み進めると、勇者は生活のために冒険者ギルドの事務員として再就職する。そこで出会うのが、帳簿と睨めっこするクールな税務署の女性職員。


「(お、ヒロインはこの税務署のお姉さんなのかな?黒髪メガネの清楚系お姉さんとか最高だな。だが、どうせチョロインなんだろ?)」


勇者は、ギルドのずさんな経理を、現代知識(といってもそろばんレベル)で改善し、徐々に周囲の信頼を得ていく。


「(出た出た、そろばん程度で知識チートって。誰か思いつくだろそれぐらい。まあ、ファンタジー世界の住人の知能レベルなんて、その程度か)」


冷笑的なツッコミを入れつつも、俺のページをめくる手は止まらない。気づけば、窓の外は茜色に染まり、カラスが鳴いていた。日曜が、終わろうとしていた。

「まずい……」と焦りつつも、「嫌!まだだ!まだ日曜は終わっていない!風呂に入ったら、寝るまで勉強だ!」と誓いを立てる。


しかし、そう決意した俺は俺の脳は悪魔の囁きを再生した。「昨日の続きが気にならないのか?中途半端は、賢者のすることではないぞ」。


そして、気づけば、窓の外には満月が浮かんでいた。


貴重な週末は、ラノベと共に溶けていった。俺の異世界知識は、1グラムも増えることはなかった……。


…………………………


月曜の朝は、いつも憂鬱だ。


俺は、教室という名の戦場に足を踏み入れる。スキル『気配遮断EX』を最大レベルで発動させ、誰にも気づかれぬよう、自分の席へと向かう。いつも通りの、完璧なステルスのはずだった。


だが、その日、教室の空気は明らかに異様だった。


俺が扉を開けた瞬間、それまで教室を満たしていたざわめきが、まるでスイッチを切ったかのように、ピタッと止んだのだ。


「!?」


何かがおかしい。クラス全員の視線が、一瞬、俺に突き刺さったような気がした。すぐに視線はあちこちへと逸らされたが、今度は、まるで示し合わせたかのように、ひそひそ話が始まった。


「おい、影山が……」

「マジかよ……警察って……」

「ヤバいって……」


断片的に耳に届く囁き声。そのすべてに、「影山」と「警察」という単語が含まれている。


「(なぜだ!?なぜ俺の井戸掘り計画がバレている!?いや、まさか……壁の『異世界転生準備リスト』を誰かに見られたのか!?)」


俺の脳内は、瞬時にパニック状態に陥った。背中を冷たい汗が伝う。俺は、石のように固まったまま、自分の席へと向かう。その数メートルの距離が、永遠のように感じられた。


席に座り、カバンを置く。その一挙手一投足が、クラスメイトたちに監視されているような気がしてならない。どうすればいい。どうすれば、この最悪の状況を乗り切れる?


その時だった。俺の目の前に、影が差した。

見上げると、そこに立っていたのは、この教室のカースト最上位に君臨する王(キング)、サッカー部のエース、鈴木だった。数人の取り巻きを連れているが、いつものような軽薄な雰囲気はない。その真剣な眼差しは、まるで罪人を尋問する騎士団長のようだ。


「(終わった……。ついに、公の場で断罪イベントが発生する……!)」


俺が人生の終わりを覚悟した、その時。鈴木は、心配そうな顔で俺の机に手をつき、まっすぐに俺の目を見てきた。


「影山、大丈夫か?なんかヤバい事件に巻き込まれたって聞いたけど」


「へ?」


予想外の言葉に、俺の口から間の抜けた声が漏れた。事件?巻き込まれた?何のことだ?

俺が混乱していると、鈴木はさらに声を潜めた。


「無理して話さなくてもいいけどさ。先輩に脅されて、森に……ほら、“何か”を埋めるの手伝わされたって……。警察も来たんだろ?もし本当なら、俺、先生にでも……」


"何か"と言いながら、鈴木は親指で首を切るジェスチャーをした。


「…………は?」


森?先輩?何かを埋める?

数秒間、俺の思考は完全に停止した。そして、猛烈なスピードで脳内の情報が再構築されていく。


土曜日、俺は庭に穴を掘っていた。→【事実】

近所の人が通報し、警察が来た。→【事実】

その情報が、何故か校内に広まった。→【推測】

そして、伝言ゲームが始まった。→【推測】


「影山、庭で穴掘ってたら家にパトカーが来てたらしい」

→ 「影山、庭で穴掘ってたら警察に捕まったらしい」

→ 「影山、夜中に森で穴掘ってたら警察に捕まったらしい」

→ 「影山、森で“何か”を埋めてるところを警察に捕まったらしい」

→ 「影山、悪い先輩に脅されて森で死体を埋めてたら、警察に逮捕されてたらしい」←NEW!


「(……進化しすぎだろ、噂ッ!!)」


陰キャという、得体の知れない存在の家に警察が来たという事象を説明するために、クラスメイトたちの想像力は、ラノベ作家もかくやというレベルで飛躍を遂げていたらしい。心外だ。俺はただ、異世界での水不足に備えていただけなのに。


「ち、違う!あれは、その……地質調査だ!そう、夏休みの!自由研究のための!」


俺は、どもりながら、咄嗟に思いついた苦しすぎる言い訳を口にした。鈴木は「……そうか?ならいいんだけど」と納得いかない顔をしつつも、授業開始のチャイムが鳴ったため、それ以上は追及せずに自分の席へと戻っていった。


だが、クラスに蔓延した疑惑の空気は、少しも晴れなかった。俺は、今日一日、絶対に誰とも目を合わせずに、石ころのように生きていこうと、心に固く誓った。


昼休み。

教室は、再び生徒たちの喧騒に包まれていた。俺は、その喧騒から逃れるように、教室の一番隅の席で、ひっそりと母親が作ってくれた弁当の包みを開いていた。午前中の授業は、まさに針の筵だった。教師に当てられないか、誰かに話しかけられないか、常にビクビクしていなければならなかった。


「(早く、早くこの時間が終わってくれ……)」


そう願いながら、卵焼きを口に運んだ、その時だった。

俺の机の前に、すっと人影が立った。


「(げっ!)」


また鈴木か!?いや、違う。この甘い香りは、女子だ。しかも、カースト上位の女子特有の、華やかなオーラを放っている。恐る恐る顔を上げると、そこに立っていたのは、俺が最も苦手とする、この世で最も関わってはいけない人種だった。


クラスで最も明るく、太陽のような笑顔を振りまき、男女問わず人気者。

青空陽菜(あおそら ひな)だった。


俺の心臓が、ドクン、と警鐘を乱れ打つ。なぜだ。なぜ、この教室の光属性の頂点に立つ彼女が、闇属性の俺に?何の用だ?罰ゲームか?それとも、俺の弁当の卵焼きを狙っているのか?


俺がパニックに陥っていると、陽菜は、俺の目の前で、すっと背筋を伸ばし――次の瞬間、俺が今まで見たこともないような角度で、深く、深く頭を下げた。


「影山くん、本当にごめんなさい!」


凛とした、しかし震えを帯びた声が、教室の喧騒を突き抜けて俺の鼓膜に届いた。


「…………へ?」


俺は、完全に思考が停止した。何が起きている?謝罪?誰が?誰に?

俺がフリーズしていると、陽菜はゆっくりと顔を上げた。その大きな瞳は潤んでおり、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。


「あのね……週末の噂、全部、わたしが最初に言い出しちゃったせいで……」


そう言って、陽菜は事の経緯を語り始めた。

彼女の家は、実は俺の家の近所だったこと。土曜の午後、たまたま俺の家にパトカーが停まっているのを目撃してしまったこと。

「影山くん、何か事件にでも巻き込まれたのかな」と心配になり、月曜の朝、クラスで一番仲の良い友人に、そのことをぽろっと話してしまったこと。

その一言が、あっという間にクラス中に広がり、伝言ゲームのように歪んで、数時間後には「影山、死体を埋める」という、とんでもない物語にまで発展してしまった、とのことだった。


「わたしが、最初に言い出さなければ、こんなことには……。影山くんに、すごく嫌な思いをさせちゃったよね。本当に、ごめんなさい……」


そう言って、陽菜の大きな瞳から、ついに一筋の涙が頬を伝った。


俺は、完全にキャパシティオーバーに陥っていた。

噂に対する怒りや、クラスメイトへの不信感は、一瞬でどこかへ消え失せていた。

目の前で、可愛い女子が。

クラスの人気者の、陽菜が。

俺のために、泣いている。


この状況を、どう処理すればいい?俺の脳内データベースには、該当するコマンドが存在しない。

(なぜだ?なぜ陽キャの頂点たる彼女が俺に謝る?というか、なぜ俺のことなど気にかける?罠か?いや、この涙は本物に見える。どうすればいい?何か言わなければ。何を?「気にするな」?馴れ馴れしいか?「大丈夫だ」?何が大丈夫なんだ?ああ、もう無理だ!思考がショートする!)


パニックの頂点に達した俺の体は、生存本能に従って、ただ一つの結論を導き出した。


逃走だ。


俺は、ガタンッ!と椅子を蹴るように立ち上がった。その勢いに、陽菜の肩がビクリと震える。


「だ、だ、大丈夫だ!問題ない!では失礼するッ!」


自分でも何を言っているのか分からない、人生最大の早口で叫び、俺はまだ半分以上残っている弁当もそこそこに、教室から脱兎のごとく逃げ出した。背後で、陽菜の「えっ!?」という驚きの声と、クラスメイトたちの「なんだあいつ……」というドン引きしている声が聞こえた気がしたが、もう振り返ることはできなかった。


人気のない階段の踊り場までたどり着き、冷たい壁に背中を預ける。ぜえ、ぜえ、と肩で息をしながら、俺は痛いほど鳴り響く心臓を押さえた。


「(……無理だ。現実(リアル)は、無理ゲーすぎる。バグだらけだ)」


会話の選択肢も表示されない。好感度もステータスも見えない。イベントは常にランダムで、理不尽なものばかりだ。


俺は、踊り場の窓から、どこまでも青い空を見上げた。そして、ゆっくりと目を閉じる。


「(異世界なら、もっと……)」


ゴブリンを倒せば経験値が入り、レベルが上がる。女の子を助ければ、素直に感謝される。こんな、心臓が張り裂けそうなほど複雑な心境には、きっとならないはずだ。そうだ、俺のいるべき場所は、こんな複雑怪奇な現実じゃない。


現実世界の対人関係のあまりの難易度の高さから逃れるように、俺の心は再び、まだ見ぬ剣と魔法の世界という非現実への憧れを、強く、強く募らせていく。


教室では、突然逃げ出した俺の奇行に、クラスメイトたちと、そして呆然と立ち尽くす陽菜が、ただただ首を傾げていた。

俺の異世界転生準備は、俺をますます現実から遠ざけていく。


―――そのはずだった。

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異世界転生準備万端な俺、気づけばリアルが充実している件 半転 @hantensaikou

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