第15話 憧れの君


 明るい窓辺の席から店の中に視線を移すと、視界が暗い。そんな中、和装の男性が卓のそばに立っていた。背筋がすっと伸びたきれいな立ち姿が室内の陰の中にある。その人の白い肌が、外の明るさに眩んだ目に映えた。さっき私の名前を呼んだ声に、この姿。


「雅臣お兄さま!」


 確信を持って立ち上がると、思った通り、暗がりに慣れた目に、雅臣お兄さまが優しく笑う顔が映った。ことことと、お湯が沸いたみたいな興奮が胸に広がる。


「お久しぶりです」

「夏に一度お会いしたね」

「はい!」


 穏やかな微笑みを浮かべた雅臣お兄さまは、やっぱり、いつも通り素敵。睫毛が長くて、柔らかそうな茶色の髪が少し波打ってる。


「こちらは?」


 お兄さまの目が亀次郎に向いた。そりゃ気になるわよね。でもなんて言おう。迷ったのは一瞬だった。亀次郎が動いてくれたから。

 卓に手をついて立ち上がった彼は、席から出て雅臣お兄さまの前に立った。亀次郎の方が背が高い。


「はじめまして、荒瀬誠士郎です」

「ご丁寧に。洲崎雅臣です。荒瀬というと、あの?」

「どの荒瀬をお考えかわかりませんが。荒瀬商会の荒瀬です」

「ああ、やはり」

「そちらは洲崎というと洲崎侯爵の?」

「父が」


 ふたりの会話に、近くの卓のひとたちが耳を澄ませているのがわかる。目立ってるわ。恥ずかしい。でも亀次郎、こんな話し方できるのね。亀次郎じゃないみたい。


「あの、お兄さまはお帰りになるところ?」

「そうだよ。友人と来ていてね。雅やかな着物の方がいらっしゃると思えば知った顔でつい声を。お邪魔だったかな、それともなにか――困りごと?」


 お兄さまの微笑みが一瞬消えて、探るような表情があらわれた。これは。亀次郎がお兄さまに疑われている。昨日みたいな派手なシャツを着ていないし、丁寧な言葉で話しているのに。


「いいえ、私がお願いしてここに連れてきてもらったんです。ね、せ、誠士郎さん」


 呼ばざるを得なくなり彼の名を口にすると、亀次郎の頬が持ち上がった。嬉しそう。


「藤乃宮伯爵が今我が家で父と歓談を。瑠璃さんを頼むと言われまして」


 でもその顔のまま、そこまで話してしまわなくてもいいのではない? 縁組みの話があるのがお兄さまに知られてしまう。それも、本当は屋敷を黙って出てきているのに。


「そうなんだね、瑠璃ちゃん」


 穏やかな声がした。きっとまた優しいあたたかな微笑みを浮かべていると思ったのに、お兄さまの顔は少し曇ってみえた。


「荒瀬、誠士郎殿」


 呟いたお兄さまが振り返ると、洋装の男性がひとり近づいてきてお兄さまになにか耳打ちした。お友達?

 小さく頷いてご友人からなにかを聞いた雅臣お兄さまは、ようやくまたいつもの笑顔になった。


「ご次男ですか」

「兄か迷われたのか。こうして目の前に居るのです、直接聞いてくださればいい」

「ご気分を害されましたか? 謝罪します。僕たちはみな、お互いきょうだいのように想い合っていまして――ねえ、瑠璃ちゃん。そうだね」

「はい!」


 力強く頷いたとき、盆を持った給仕がおずおずと近づいてきた。


「お待たせいたしました……」

「おや、飲み物がきましたね。失礼するよ。また、秋の茶会で。茶をたてておくれ、瑠璃ちゃん」

「はい、雅臣お兄さま」


 螺旋階段に吸い込まれていくみたいに降りていくお兄さまから目が離せない。親しくお声かけしてくださったけど、たまーにしかお会いできないんだもの。網膜に焼き付けておかなくっちゃ。


「瑠璃、冷めちまうぞ」

「そうね」


 亀次郎に言われ、螺旋階段から卓の上に視線を写しながら椅子に腰を下ろす。興奮したから頬が熱い。

 目の前の青い陶器の珈琲カップには、褐色の液体が満ちている。亀次郎の前には私のより少し大きなカップ。色は白だ。

 それに、三角型のチョコレートのケーキの乗ったお皿もひとつ、私のところに。艶やかなチョコに覆われたケーキに、白いクリームが添えられていて美味しそう。


「これ」

「珈琲だけも味気ない、食えよ」

「ありがとう! 嬉しい」

「ほら、砂糖」

「ん」


 亀次郎が砂糖壷を前に置いてくれたから、そこからポトポトと角砂糖を二つ取ってカップに落とした。ふたつも入れればじゅうぶんだろう。銀のスプーンで珈琲をかき混ぜながら、つい雅臣お兄さまの姿を探して外を見てしまう。そろそろ……あ、出てきた。手を振ってくれた!


「ふふ」


 手を振り返したら笑みがもれた。明日みんなに自慢しちゃおう。東彩楼の窓際の席で珈琲を飲んでたら、雅臣お兄さまにお会いして声を掛けていただけたって!


「ふふふ――にが」


 熱いし。顔をしかめたら、亀次郎と目が合った。今日二度目の呆れ顔だ。


「骨抜きの顔」

「なっっ」


 カップを皿に戻し、両手で頬に触れた。確かに頬が盛り上がってる。さっきの亀次郎みたい。


「それ、飲めるか。交換してやろうか」


 亀次郎に追い打ちをかけてからかわれるかと身構えたけど、それはなかった。代わりに優しく、彼の前に置かれたミルク珈琲を勧めてくれた。確かにあっちの方が美味しそう。


「でも口をつけちゃったから」

「触れただけだろ」

「あっ」


 腕を伸ばした亀次郎が、ふたつのカップを入れ替えた。遠ざかる青い珈琲カップの縁が、私の口紅でほんのり色づいている。よく見ないとわからないだろうけど。彼からは反対側だし、言わなくてもだいじょ――。


「あ」


 大丈夫、と思った矢先、亀次郎は持ち手を引き寄せカップをくるりと回転させ、そのまま珈琲を飲んだ。つまり、間接的な。


「ん?」

「な、なんでもない」

「甘いのもたまにはいいな」

「そう? 良かった」


 お砂糖ふたつでも苦かったけど。ミルク珈琲にはひとつだけお砂糖を落とした。ケーキもあるし。ケーキ、嬉しい。ケーキのことで頭をいっぱいにして、青いカップについた私の唇の跡とその行方については考えないようにした。のに。


「このカップ」


 突然、亀次郎が珈琲カップを持ち上げまじまじと見つめたのでどきっとした。もしかして紅に気がついた?


「船から見える空と海の色だ」


 息を潜めて言葉を待ったけれど、彼が発したのはそんなので、ほっと胸をなで下ろした。


 確かに、彼の持っている珈琲カップはきれいな青色をしている。私にも馴染みの深い色。


「瑠璃色ね」

「一番好きな色だ」


 私たちの声が重なった。お互いの言葉をお互いが聞き取って黙り込む。一番、好き。


「そ、そう」

「色だ、色、色」

「わかってる、ちゃんと聞こえた」


 あんまり亀次郎が色だと繰り返すものだからむっと腹を立てて言うと、亀次郎が片方の口角だけを上げ笑った。


「だがそうか、これが“瑠璃色”だったのか」


 瑠璃色のカップを優しい目で見つめてる。それからまたカップの縁に唇をつけて、珈琲を飲んで……。なんだか自分があの珈琲カップになったみたいな気持ちになる。雅臣お兄さまと話していたときとは違う鼓動が鳴っている。これはジャズだ。白い犬が転げ回るジャズ。


「どうした? それでも苦いか?」

「いいえ、これ、とっても美味しい。最初からあなたの言う通りにしておけばよかった」

「だろ?」


 得意気に目を細め笑う亀次郎の指が、珈琲カップを持ち上げている。瑠璃色、亀次郎によく似合うわ。


 それから私たちは穏やかな楽しい時間をそこで過ごした。亀次郎の口から語られる海や、海の向こうの外国の港の話はとても楽しくて、いつまででも聞いていられそうだったけれどそういうわけにもいかず。

 ここを出る時間が来た。


「は?」


 亀次郎が給仕を呼ぶと、やってきた給仕は丁寧な仕草で卓に置かれていた伝票を取り上げ、ある事実を告げた。それを聞いた亀次郎の台詞がさっきの「は?」だ。


「ですので、こちらは既に洲崎さまにお支払いいただいております」


 懐から長い財布を取り出し掛けていた亀次郎が、その姿のまま止まっている。とても不愉快そうだ。


「お兄さまが?」

「はい。お嬢さまに楽しい時を、と仰っておいででした」

「わあ……」


 粋だわ。の言葉はぐっと飲み込んだ。だって亀次郎が怖い顔をしているんだもの。


「せ、誠士郎さん?」


 機嫌を取れるかなという淡い期待を込めて名前を呼ぶと、彼の眉間の皺が幾分柔らかくなった。


「あの、良かったわね。お兄さまには私からお礼をお伝えしておきますから、取りあえずもう出ましょう?」

「そうだな、だが礼は俺から言っておく。あんたはなにもしなくていい」


 財布を懐に押し込んで、亀次郎がサッと席を立った。また飯やのときみたいに先に行っちゃうわきっと、と思ったのに、亀次郎は私が席を立つのを待っていてくれた。


 給仕に見送られ店を出たあと、亀次郎は通りから東彩楼を見上げた。丁度さっき雅臣お兄さまが手を振ってくださったあたりだ。


「いけ好かねぇな」


 誰を指して言ったかは明らか。


「亀次郎! もう、雅臣お兄さまはよかれと思ってしてくださったのよ」

「どうだか」


 ふん、と鼻を鳴らした亀次郎は、くるりと店に背を向けると、今度は私を見た。つま先から頭のてっぺんまで、不機嫌なままの視線が登ってくる。


「やっぱりあいつ、いけ好かねぇ」

「亀次郎」


 なんなんだろう、殿方の意地みたいなものなのかな。それかもしかして、私があんまりお兄さまお兄さまと言うからまさか嫉妬してくれているの、なんて思っていたら、


「嫁にする気のない女にあの態度」

「……」

「うぶな小娘夢中にさせて、まともな男のやることか。なーにが“瑠璃ちゃん”だ」


 亀次郎が私のために怒ってくれていたから、なんだか恥ずかしくなった。嫉妬したのかな、なんて考えて、馬鹿みたい。


「い、いいのよ。雅臣お兄さまはみんなの憧れの君なの、それだけ。嫁入りできるなんて、そもそもこれっぽっちも思ってないんだから」


 親指と人差し指を近づけ、ついでに顔もぎゅうっとしかめて「これっぽっち」を表現したら、やっと亀次郎の顔に笑みが浮かんだ。苦笑が。


「だからってあんな顔……もう見せてやるなよ」

「あんな顔?」

「あそこから」


 亀次郎が帽子を持った手を伸ばし、東彩楼の二階席を示す。


「目を輝かせて手を振ってたろ」

「あれは」


 明日みんなに話したら羨ましがられるだろうなって、そう思ったら嬉しかったの。もちろん亀次郎、あなたのことだって、和子さんと文枝さんと、千代お姉さまにはこっそり話すつもりでいたのよ。

 そう言おうとして、やめた。


「わかったわ、もうしない」


 ただそう約束するだけの方が彼が喜ぶんじやないかと思ったから。

 ほら、彼の顔から憂いが消えた。視線に気付いたのか、帽子を頭に乗せた亀次郎が、つばを引き下ろして目元を隠した。見えている唇が小さく笑っているから、目も笑っていそうだけど。


「あんたに使うつもりの金が余っちまった、なんか買ってやるよ」

「下品な成金みたいなこと言わないの!」

「はは!」


 くだらない冗談にすぐに反応してあげたら、亀次郎が明るい笑い声をあげた。

 楽しい。雅臣お兄さまとお話ししていたって、こんなに楽しかったことはない。

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