第5話 柄物シャツの男
男たちの走り去った先で、わっ、と声が上がって人の波が割れ、砂埃が舞った。中心にはふたりの男。
黄色い柄物シャツの男が、書生風の男、ううん、盗っ人の腕を捻り上げ背中に膝を乗せて、地面に押さえつけている。盗っ人の顔には苦悶の表情が浮かんでいた。捕まえてくれたんだわ!
やっと事態が飲み込め、そちらに向かって駆け出した。
「なんだなんだなにごとだ! 散れ散れ!」
私が男たちのところにたどり着くより少し早く、ピリリ、と笛を鳴らしながら警官がやってきた。さっきまでそこで交通整理をしていた警官だ。足を止める野次馬を、睨みを効かせて蹴散らしている。
「朝っぱらから喧嘩か?」
警官の胡乱な目つきが、柄物シャツの男に向いた。確かに彼の方が朝の街には似つかわしくない装いだ。ここからでは後ろ姿しか見えていないけれど、体格が立派でちょっと怖そう。でも恩人だわ。
「書生風の男に荷を盗まれたの、そちらの洋装の方が追ってくださいました!」
恩人が勘違いで捕縛されてはたまらない、急いで警官に訴えると、警官の視線が、柄物シャツの男、私、と移動して、何故かまた柄シャツに戻った。女子供の言葉なぞ、なんて考えているのが透けている表情。
言葉を足そうと口を開きかけたのと同時に、
「地面のそいつが盗人!」
「女学生さんが荷物取られるところ見てたよ!」
まわりの人たちからの援護が加わりはじめた。そこでようやく、警官の厳しい目が正しく盗人に向けられたのだった。気にくわないけどよかった。
「近頃このあたりで起きてた引ったくりはお前か? 観念しろ!」
柄物シャツの男が、砂埃で汚れた男を乱暴に引き起こし警官に渡すのを、妙な満足感に包まれながら眺めていたら、急に風呂敷包みを右手に下げた柄物シャツの男がこちらに向き直った。
このとき、はじめて男の姿を真正面から捉えた。一番に目をひいたのはその体躯。大きい。背はすらりと高く、肩はがっしりと逞しい。そこから長く力強そうな腕が続いていて、服の趣味もだけれど、これまで近くにはいなかった種類のひとだった。その上に乗った顔は――。
「ここから離れるぞ」
顔をしっかり確認するより早く、大股でやってきて身を屈めた男にこそ、と囁かれた。低い声。一哉よりずっと。声と同時に手首を掴まれ、強く引っぱられる。力強い大きな手。お父さまのとも、一哉のとも違う。
「えっ……え?」
「察しが悪いな、家に知らされてもいいのか」
「あ」
家に連絡は困る。
そう思っておとなしく腕を引かれるままその場から離れたのだけれど、この男、なぜ私が家に連絡されたくないとわかったのかしら。背中に家出中! なんて黒々書いた半紙が貼ってあるわけでもないのに。
誘拐? まさか書生と仲間とか?
背中に冷たい水が一筋流されたみたいに感じる。
「放して」
掴まれた手をぐいと引いても抜けない。このまま連れて行かれてはいけない。ひと気のない細い路地に連れ込まれたところで踏ん張って立ち止まり、さらに腕に力を入れる。
「放しなさい!」
声を荒げると、手首をつかむ男の指の力が軽くなった。その隙を逃さず手をはねのけ、大通りに戻ろうと踵を返しかけたとき。
「荷物は。くれるのか?」
笑いを含んだ声で問われ、はたと動きを止めた。風呂敷包みをまだ返してもらっていない。
「あげるわけないでしょう、返して!」
「上着と交換だ」
振り返り男を睨みつけ言ったのに、男にはどこ吹く風。飄々とした態度で風呂敷包みを差し出し、顎をしゃくって私が抱いている上着を示してきた。
上着。そうだ、ずっと片手で抱えてたこの上着。忘れてた。
「……」
男に近づきすぎないよう気をつけながら風呂敷包みを奪い取り、空いた手に上着を押し付けた。
よかった。荷物、返ってきたわ。ほっと安堵の息を吐く私の前で、男が上着に袖を通している。やっぱり、力の強そうな腕。
「惚れるなよ、瑠璃お嬢さん」
「はぁ? なっ、そっ、っだだ、誰が……え?」
腕を見ていたら、にっ、と笑った男に言われ、慌てて一歩飛び退いて否定したんだけど、途中違和感があった。今、瑠璃って言った?
「どうして名前を」
知ってるの。それにそうよ、さっきだって家に知らされていいのかって、家出中なのを知っているみたいな物言いを。
「あなた誰なの」
風呂敷包みを強く胸に抱き、じりじりと路地の入り口へ移動しながら尋ねた。男の答えによっては叫んで走るのよ、瑠璃。
「誰って」
上着の襟を整える男が、視線を地面に落とし言った。続く言葉を待ちながら、男の唇をじっと見つめる。軽薄そうな服装には似合わない、きりっと締まりのある口元をしてる。眉や目も、やっぱりお父さまや一哉とは違う。腕と同じに力強い印象の、男らしく精悍な……。
「……亀だ」
「え?」
聞き返すと、男の黒い瞳が逡巡するように揺れた。地面に落とされていた視線がこちらを向く。
「さっき助けてもらった、かっ、亀だ」
「……」
この男。
馬鹿なの?
そんなのを素直に信じる幼子に見えているのかしら、私が。そりゃどう見てもこの男の方が年上だけど、十も二十も離れているとは思えない。せいぜい五つくらい上、ってところ。
それなら、彼本人はそうだと信じているのだとしたらかなり怖い。危機感にうなじの毛がぴりぴりと逆立つ感じがした。でも。
「あー……先ほどはありがとう、助かった」
後頭部を掻きながら礼を口にする男の姿に、それはなさそうだな、と思った。なら私を騙そうとしている?
「いえ、当然のことをしたまでだから……?」
なにを真面目に付き合っているんだろう。
「あのあと河原であの書生があんたをつけてくのに気づいたもんで、恩返しを、とね」
藤乃宮伯爵家の瑠璃、と名乗ったものね。そんな娘が連れもなくひとり歩いていくから、盗っ人に目を付けられたんだ。
助けようと追ってくれたのは本当なのかも。いえ、駄目、そんなすぐに信じては。
「そうだったの。こんな細い路地に連れ込まれたから、あの書生と組んでいる悪人なのかと心配したのよ」
言って、こっそり男の顔を観察する。動揺や焦りは見えない? 黒目が怪しげに揺れたり、鼻の穴が大きくなったりは、していないわね。男の顔の上にあらわれたのは、なんだか楽しそうな笑みだけだった。あ。この男、髪は直毛じゃないわ。短いけれど少し波打ってる。仲間だ。
「そうだ、そうやって疑うのが正解だ、お嬢さん」
褒められた。
「っそ、そんな、答えをはぐらかすのはよしてちょうだい。違うとはっきり言えないの?」
「違う。もし仲間なら警官に差し出す訳がないだろう。適当なところで逃がして、風呂敷包みだけ持って戻るさ」
手のひらを胸に抱えた包みに向けた男に言われ、それもそうだなと納得した。じゃあこの男は本当に私を案じて川から追ってきてくれただけなのね。なぜ亀だなんて嘘をつくのかはわからないけど。
「信じるわ、荷物を取り返してくれてありがとう、ええとあなた、お名前は? お聞きしてもよいかしら」
「名前? ああ。名前は、か、かめ……亀次郎だ、よろしく」
「亀次郎、よろしく」
亀太郎じゃないんだ。単純なのに少しひねって付けられた偽名に可笑しさがこみ上げたけれど、笑うのは我慢した。
ぎこちない挨拶を交わした後には、微妙な沈黙の時間が流れた。これで終わりで、いいのよね。
「そ、それじゃあ失礼するわ。亀次郎さん、もう子供に捕まってはいけないわよ」
言って、今度こそ彼に背を向け大通りに戻った。引き留める声がするかと思ったのになかった。少し残念に感じている自分が不思議。あんな軟派な服装の年上の男と、まだ話していたかったなんて。
人通りがさらに増えている。みんな慌ただしい足取りでどこかに向かっているの。私は、停留所……そう、市電の停留所に行くのよ、それで、桔梗通りに初めて……ひとりで? またさっきみたいな盗っ人に狙われたら。
ふ、と頭を掠めた考えに足取りが重くなる。
盗っ人ならまだいいわ。狙われるのはこの風呂敷包みだもの、大したものは入れてない。お財布は袴の帯にしまってるし。恐ろしいのは人攫いよ、それか、暴漢。複数で襲われたらあっという間に連れて行かれる。
一度浮かんだ考えは、なかなか消えない上に次の不安を呼び寄せる。桔梗通りへ行くんだっていう心を弾ませていた冒険心が、あっという間に濡れた綿飴みたいにしぼんでしょぼくれたものになってしまった。
盗っ人にあとをつけられていたのも気づけなかったのに。そうよ、今だって誰かついてきてるかもしれない。
風呂敷包みを胸に掻き抱いて後ろを振り返った。
「あ」
通りを歩くひとの波、そこからひとつ飛び出た顔がある。見つかった、とでも言いたげに気まずそうに眉根を寄せ、明後日の方向に顔を動かすあの男は。
「亀次郎だわ」
またついてきてる。なんで?
たまたま方向が同じなだけ?
胸にあった不安の種が芽吹き成長して蔦を伸ばし、心を覆っていく。怖い。やっぱり悪い男だったのかしら。
「あっおい、お嬢さん!」
大通りへ飛び出すと、亀次郎の慌てた声がした。馬車が通る隙間を縫って反対の歩道を目指して走った。
「そっちは駄目だ!」
亀次郎がなにか叫んでる。亀になにがわかるのよ。逃げなくちゃ。
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