昼幻想・【猫と五十六】
金沢学院大学 創樹会
満足齟齬
どうも門前通りの始まりである動言聞家の門が、とうとう立て直されているようである。豪奢な西欧風のほりものも、無垢の柱から削り生むらしい。欧州で五〇年讃えられている巨匠が、わざわざ異国の邸宅に来てまで彫刻するのだ。それを見ようと、周辺にはたいそうな人だかりができていた。
通りかかった
「ずいぶんなあ人が多いもんじゃないか」
「おやおや、お兄さん知らないのかい? 蘭国からのほりもの大将が、動言聞家の門を彫るんだよ」
腰より下から声がかかり、五十六は首を傾けて確認した。
眼玉が五十六を見上げる、猫である。
猫の言う通り、人だかりの向こうからコツーンコツーンと音が飛んできていた。石を叩く音だ。
「猫公まで知っていることなぞ、俺も知ってる。すんげえ腕の達人、岩から削り出すものは蟲でも一封ものだ」
「見栄っぱりかいお兄さん。向こうのほりもの師はちんまい蟲なんて彫るものかい。ヴァチカンに仏国街中の墓、猫の低い目線だが見たことないね」
「それはまあ、猫公にしては贅沢な旅だ」
猫が目を細め、フンッと鼻を鳴らした。
背が低いから見下ろされるのはどうにもしないが、見下されるのは気に入らない様子である。
「帰る場所がないんだ。寝る場所が居場所で十分に生きられる。生まれてこの方、旅なんてしたことがない」
猫は気の強い物言いで眉間を力む。居心地悪くする五十六は、短い腕の小突きを甘んじた。
「ほりもの大将はめしを食わんのかねえ。もう昼だってのに」
話題を変えたいと、五十六は腹を押さえる。もともと、昼飯を済ませるつもりだったことを思い出したのだ。その後の楽しみは、まあ道端なんかで見つけるつもりだった。
「お兄さんもまだなのか。こっちも腹が減ってしょうがないよ」
「物欲しそうな目はまさに猫ってか。日頃も寝転げてたら餌の捕り方も忘れたのか?」
「餌のありつき方は心得てるよ。半野良には厳しいもんなんだ」
すきっ腹はいやなんだが、なんて猫はため息を吐いて言う。
それは五十六に見せつけるもので、けれども半分以上本心そのものの嘆き。哀れも哀れな猫に、五十六は左手でポケットの中の財布を確かめ、唸りながら右手で頭をかいた。
「むーん、うどんでいいもんかね」
猫とはいえ一期一会、牛鍋でもフレンチでもおごってやりたいとこだが、あいにく革と鋲で作られた財布はぺらいぺらい。みみっちいまねは恥ずかしいが、意地がついてく金がない。うどんならば一匹増えたとて、五十六も腹一杯になれるだろうが。
うどんしかないが、うどんは貧相に思える。五十六の悩みを機敏に感じ、猫は悩むのも馬鹿らしいほど飄々と笑う。
「悩むだけのもんかい? うどんがいい。麺はコシを残して柔らかく、上には揚げ物がふたつ欲しいもんだ」
「おごるとはまだ言ってねえんだが。そこまで言われちゃ引き下がれん。揚げはキツネか?」
「いーや、揚げ物は磯辺と玉葱だ。キツネもいいが、こっちのは焦げみたいに色が濃いからなあ」
コツーンコツーンと石を叩く音を背に、五十六と猫はうどん屋へと歩を進めた。
カラコロと扉を開け、店主に一声かける。店内はすいていたが、猫の頼みでカウンターに並んで座ることに。
「日に干されちまった。冷たいざるにしようかね」
「人っていうのも不便だね。大将、かけうどんに磯部と玉葱のせてくれ! 量は任せた!」
「猫公もよく食うもんだ。俺はざる、ざるうどんの大で頼む」
しばらく、運ばれてきたのは大盛りのざると小盛りのかけ。かけうどんには注文通り磯辺と玉葱が、ざるの方にはサービスなのか卵焼きが付いている。真っ先に口をつけた猫は、だしが染みた玉葱で頰を膨らませた。
「うん、至福とはこれに違いない。口いっぱいに頬張る贅沢、喉がつまるような幸せ。生きてるって感じだ」
「それじゃ玉葱の味も分からんだろうに。おや、この卵は旨いな。だしよりやっぱ、こってり甘いもんが精もつく。けどまあ、ざるには甘い、甘すぎる。猫公、食え」
「カステラより甘い。奇妙なだし巻きだ。旨い、旨いね」
猫は頰を膨らませ、目を細めて喜びを告げる。そして気まぐれに表情を変えて、五十六へ問いかけた。
「お兄さん、名も聞いていなかったね」
「面白みのひとつもない名だよ」
「そうかい。名前と顔がないより上等だ。顔のない誰かより上等すぎる」
「そんなもんかねえ」
五十六は猫に目を向ける。肌はきれいだが、全体が薄汚れていた。
「そんなもんかもなあ」
くっちゃべって、五十六と猫は腹を満たし終えた。五十六の財布は札一枚と硬貨二枚を吐き出し、新たな硬貨八枚を飲み込んだ。
店を出れば行く当てもなく、自然と足は動言聞家へと向いている。足を進めるごとに、コツーンコツーンと硬い音が大きくなった。
「ほりもの大将がまだ彫ってる。見ろ猫公、花束ができているようだ。きっと次は蟲に違いない」
時間が経ったからか、人だかりははけ始めていた。
日が僅かに傾くも、暑さはそうそう変わらない。異国の巨匠は動く彫刻のように、門になる無垢の柱を的確に叩き続けていた。
コツーンコツーンコツーン、鑿の音が正確に一定に響くと、同じだけの時間が流れていく。動きも少なく、できあがる彫刻も、五十六や猫が思い描いたより見応えがない。
日の傾きと共に人は減っていき、空が紫の帯を生む頃には、巨匠と五十六と猫が残るだけとなっていた。
いかめしく固められた巨匠の顔は鋭い陰影に彩られ、一際濃い影奥に佇む目は己の手と鑿と石を睨んでいる。厚く丸い掌は、鉄の道具や岩の欠片さえものともしない。見定める時間もなく、確認する必要もないのか、隙間なく石を削る音を叩き生む。ただそれだけの巌が巨匠であった。形を与えられた花と虫は玲瓏と遊び、夕の細光に花弁と羽根の先を晒している。たゆやかなたわむれには、さらに鑿の先が振るわれた。若い生肌にしわを刻むように、切片が飛び散っていく。節足が花から現れれば、飛んでいた蟲は花に落ち着いた。花束に道管が通れば、綺麗なだけだった花冠は生命の似姿となった。只人は生き物と遜色なくなれば満足するが、巨匠はそれだけでは足りないと鑿を打ち続けた。
ガリリと、巨匠の指先で火花が咲いた。道路と門の区別も付かない暗がりで、赤黄の火花が消えた。
巨匠の大きなため息が広がり、ガチャガチャと道具を片付ける音が響き始めた。
「ありゃ……真っ暗になっちまってるなあ」
五十六が言った。
「猫はなれてるからな。よく見えてるよ」
猫が言った。
巨匠が道具を片付ける音が止み、街灯に明かりが宿る。
一日中立ちっぱなしで彫っていたというのに、巨匠は確かな足取りで歩き始めた。詰まった大樹のような重みを感じさせる足で、巨匠は五十六の前に来る。
重たく太い首が、前に揺れた気がした。
巨匠は五十六の前から去る。目も合わせず、しかも眼前を横切らない動きである。
動言聞家の門前には、五十六と猫だけが残された。
「ほりもの大将は、明日も彫るのかねえ」
「もちろん彫るとも」
猫の疑問に、五十六が答える。
「これ以上何を彫りたいのかねえ」
「そりゃあ、歳をとらせてるんだ」
「嫌なもん彫ってるよ」
猫は歳月を嫌っているのか、五十六の答えに顔をしかめた。
夜の暗さに五十六の目が慣れ切った頃、猫が話を切り出す。
「お兄さん。夜だよ」
「そうだなあ」
「太陽も月も眠ってしまったよ」
「月もかい」
五十六と猫は、互いを見据えていた。
しばし、じいっと互いに見つめ合う。
しばらく、猫が破顔した。
「一日は終わったかお兄さん」
五十六は顎をなでながら返す。
「うん、こんな楽しみも良いもんだ。すっかり気もなくなった。見えるかい、今日できたあの花と蟲」
「お兄さんに合わないずいぶん落ち着いた蟲だ。簡単に愛でられてしまいそうだ」
「本当に、猫公に合わないすっかり落ち着いちまってる花だよ。勝手に休まれちまう」
「ああはなれないよ」
「俺もなれそうもない」
憂いも後悔もない笑みが交わされ、一言二言交わされ、それだけだ。
門前通りに猫、猫と反対方向に五十六、どうしてかそれだけだ。
昼幻想・【猫と五十六】 金沢学院大学 創樹会 @KG-SOJU
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