朽ちる村の招かれざる客

大学4年の秋だった。民俗学研究室に所属する私と、同期の友人3人(アキオ、サトシ、ミカ)は、卒業論文のテーマである「近代化から取り残された集落における民間信仰の変遷」を調査するため、四国の山深い集落跡を訪れる計画を立てた。その村は「忌谷いみだに」と呼ばれ、半世紀ほど前に最後の住人が離村して以来、事実上の廃村となっている場所だ。


私たちは数少ない文献や古い地図を頼りに、村の麓にあるという管理事務所に連絡を取り、調査期間中の宿泊場所として、かつて村長の屋敷だったという古民家を一週間借りる予約を済ませていた。都会の喧騒を離れ、学問に没頭できる貴重な機会に、誰もが胸を躍らせていた。


しかし、現地に到着した私たちを待っていたのは、予想だにしない事態だった。麓の町役場で管理事務所の場所を尋ねると、職員は怪訝な顔でこう言った。「忌谷に管理事務所なんてありませんよ。あそこはもう何十年も前に放棄された土地で、立ち入りも推奨されていません」。私たちが予約確認のメールを見せても、職員は首を捻るばかり。メールに記載されていた連絡先も、今では使われていない番号だった。


途方に暮れ、役場のロビーでうなだれていると、一人の老人が声をかけてきた。かつて忌谷の近くに住んでいたというその老人は、私たちの事情を聞くと、何かを憐れむような、そして少しだけ怯えたような目で私たちを見つめ、こう言った。「気の毒じゃが……まあ、学生さんたちの熱意もわかる。わしが知っとる空き家がある。そこなら泊まれるじゃろう」。


老人の提案は、まさに渡りに船だった。しかし、彼はいくつかの奇妙な条件を付け加えた。


「いいか、よく聞け。母屋の奥にある土蔵には、何があっても近づいてはならん。それから、日が暮れたら、決して家の外に出てはならん。特に、裏山の祠の方へは目を向けることすらやめておけ。まあ、ただの言い伝えじゃがな」。


その忠告は、私たちの探究心を僅かに刺激こそすれ、計画を中止させるほどの重みはなかった。私たちは礼を言って鍵を受け取り、彼の描いてくれた簡単な地図を頼りに、その古民家へと向かった。


古民家は、忌谷の入り口にひっそりと佇んでいた。巨大な茅葺き屋根は所々が抜け落ち、壁には蔦が絡みついている。しかし、中は意外なほど清潔に保たれており、誰かが定期的に手入れをしているようだった。私たちは早速荷物を解き、その日から調査を開始した。


最初の三日間は、何事もなく過ぎた。昼間は忌谷の廃屋群を巡り、石仏や道祖神の写真を撮り、夜は持ち寄った資料と照らし合わせる。老人の忠告は、いつしか私たちの頭から消えかけていた。


異変が起きたのは、四日目の夜だった。その日、調査の過程で小さな祠を見つけた私たちは、卒論の貴重な資料になると興奮していた。夜、その祠の起源について議論が白熱する中、一番好奇心の強いアキオが言い出した。「あの土蔵、気にならないか? もしかしたら、この村の歴史に関するもっと古い資料が眠ってるかもしれないぜ」。


私とミカは老人の忠告を思い出し、止めるよう言った。しかし、少し酒が入っていたアキオは、「大丈夫だって。少し覗くだけだよ」と言って聞かない。サトシも「確かに、何かあるかもな」と乗り気になってしまった。結局、多数決のような形で、私たちは土蔵へ向かうことになった。


錆びついた南京錠は、少し力を加えるだけであっけなく壊れた。軋む戸を開けると、黴と埃の匂いが鼻をつく。懐中電灯の光が照らし出したのは、乱雑に積まれた農具や古い家具、そして、部屋の中央に鎮座する、黒い布で覆われた大きな何かだった。


アキオが躊躇なくその布を剥ぎ取った瞬間、私たちは息を呑んだ。そこに在ったのは、古びた木製の「神輿」だった。しかし、その形は私たちが知るどんな神輿とも異なっていた。豪華な装飾はなく、まるで檻のように角張った、黒光りする木組みの塊。そして、その担ぎ棒には、赤黒い何かが染み付いていた。


「これ……何だ……?」


サトシが呟いたその時、どこからか、微かに鈴の音が聞こえた気がした。気のせいかと思ったが、ミカも青い顔で辺りを見回している。得体の知れない恐怖に駆られ、私たちは慌てて土蔵から逃げ出した。


その夜から、状況は一変した。夜中に誰かが家の周りを歩き回るような足音が聞こえたり、誰もいないはずの二階から軋む音がしたり。そして決定的だったのは、六日目の夜、サトシが突然「呼ばれている」と言い出したことだ。彼の目は虚ろで、焦点が合っていない。彼は何かに憑かれたように立ち上がると、裏山の祠の方へ向かって、ふらふらと歩き出した。


私とアキオで必死に彼を止めようとしたが、痩身のサトシからは信じられないほどの力が発揮され、振り払われてしまった。ミカの悲鳴が響く中、サトシの姿は夜の闇に吸い込まれるように消えていった。


私たちは恐怖のあまり、夜が明けるのを待って、荷物もろくにまとめずに古民家を飛び出した。麓の町まで無我夢中で車を走らせ、すぐに警察へ通報した。しかし、警察の捜索でもサトシは見つからなかった。私たちが話す土蔵や神輿のことも、警察が現場を検証した際には、土蔵の錠は固く閉ざされたままで、中にはガラクタしかない、と一蹴された。まるで、私たち四人が集団で幻覚でも見ていたかのように。


結局、サトシは行方不明のまま、捜査は打ち切られた。私たちは、あの日以来、忌谷について語ることをやめた。


卒業から5年後、私は仕事の関係で偶然、あの町の近くを訪れる機会があった。罪悪感と僅かな希望に苛まれ、私は役場に立ち寄ってみた。そして、忌谷について尋ねると、若い職員から思いもよらない事実を知らされた。


「忌谷ですか? ああ、あの一帯は、2年前に完成したダムの底に沈みましたよ。今はもう、誰も行くことはできません」。


さらに、私は郷土資料室で古い文献を調べるうちに、忌谷にまつわる一つの記述を見つけてしまった。


「この村では、古来より、山の神を鎮めるための『人身御供』の儀式が密かに行われていた。村から選ばれた者は、『御霊遷しみたまうつし』の神輿に乗せられ、裏山の祠へと運ばれる。それは、村に災いをもたらす『招かれざる客』を神への生贄とすることで、安寧を保つための儀式であったという」。


文献の最後のページには、掠れた文字でこう書かれていた。


「神輿は、自ら次の生贄を探しにくる」。


私は全身から血の気が引くのを感じた。私たちをあの古民家へ導いた、あの親切そうな老人。彼が私たちに言った「ただの言い伝えじゃがな」という言葉が、頭の中で何度もこだまする。そして、あの神輿の赤黒い染みと、サトシの虚ろな目を思い出した。


私たちは、調査に訪れた学生ではなかった。あの朽ち果てた村にとって、私たちは、招かれざる客であり、そして、新たな生贄の候補だったのだ。


ダムの底に沈んだ忌谷と、そこに残されたサトシ。そして、あの神輿。全ては水底の闇に葬られた。しかし、私は今でも時折、夢に見る。暗い水の底から、あの黒い神輿が、鈴の音を鳴らしながら、静かに浮かび上がってくるのを。次の客を探して。

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