丁寧な暮らしに憧れるニンフさんは森でカヌレを焼く
奥森 蛍
°˖✧*✧˖°夏の章°˖✧*✧˖°
1 初夏の雨を引き連れて
バニラビーンズの甘い香りがルーマの花の燐光に照らされた室内に漂っている。森の奥でちぎってきたものを発酵させて瓶にたくさんストックしておいたものだが、そろそろなくなりそうだ。卵黄と小麦粉と液に大好物のハチミツとバター、それにラム酒をたっぷり溶かしこんで泡だて器で静かにかき混ぜると黄金色に輝く極上の生地が出来た。それを漉し器に通して冷暗所で一晩寝かせる。キッチンの横の木製のパントリーは氷の精霊がよく冷やしてくれているので初夏のこの暑さでも生地がきれいに休まる。
さてと、とドリュアデスはシンクにつけたばかりのボールと泡だて器をきれいに洗って小花柄の布巾でふくと台所のわずかな明かりを吹き消した。今日は雨だから町にも出かけられずにすることはほとんどない。
ロッキングチェアに背をもたせて、昨日の続きを読もうと小説を開いたときに雨脚が強まった。窓際のカーテンをそっと開けると雨の森が見える。
湖の睡蓮の上ではカエルが鳴いていて、背を打たれると驚いて水のなかへと飛びこんだ。いつもは活発な水鳥たちは声もなく羽を休めてじっとしている。水環を作りながら元気にしているのはアメンボだ。掠れるようなセミの声が聞こえて梢に目を向けるとどこかへと飛び去った。
初夏の森には命の気配がしている。
「物語と雨ってどっちかドラマティックなのかしら」
ドリュアデスはアメジストのような瞳で雨を見つめながらふとした疑問をつぶやいた。しばらく森を眺め、雨の音に耳を澄ます。雨垂れがぴしゃんと庭石を弾いた。
足にふかふかとした感触があって目を落とすと同居人の幻獣フェンリルが青く柔らかな尻尾をふっていた。うれしそうに頬をすり寄せている。
「きゅお、きゅきゅきゅ」
「そうね、そう。きっとそう。的確な答えね」
二人だけの会話を楽しむと再び小説を開いた。フェンリルは暖炉の前で眠り始める。
気に入りで読んでいるのは『沈黙の人魚』というホラー作品で、リアルな描写が読むたびに緊迫感を醸し出してぞくぞくとする。昨日はいよいよ最初の犠牲者が水のなかに引き込まれたところで終わった。次の犠牲者は、なんて内心は楽しみにしつつ恐々と開いている。今日は一日ヒマだから読了できてしまうだろう。豆から挽いたコーヒーを側に読み入った。
【古い王家に生まれた三兄妹の末っ子のイザベラは水に触れると人魚に変化出来る能力を持つ。そのことを誰にも漏らさずに隠すように生きてきたのだが、ある夜、召使の女性にその秘密を暴かれてそれを隠すために殺してしまう。第一の殺人を城からたまたま見ていた使用人の男がイザベラに迫り彼女は自らを守るために第二の殺人を重ねてしまう】
精霊であるドリュアデスに人の細かな感情は難しい。イザベラが王家に生まれて愛のなかで育てられたこと。でも王家の体裁を保つために父である国王によって捕らえられたこと。父も彼女への厳罰を悔いている。当のイザベラ自身心情はどうだったのだろうか。
大好きな父に追い詰められて苦しみのなかで自らの罪を告白する。理解してくれたのは幼いころから育ててくれた乳母だけ。周囲は国王に抗えずに末娘の死を受け入れる。イザベラは父をそして家族を信じていた、信じてくれているとも思っていた。でもそれは勘違い。
「どうしてイザベラは嘘をつかなかったのかしら」
精霊は息するように嘘をつく。だからこそ正直な告白をしたイザベラの気持ちの理解が難しいのだ。大事な局面で彼女は話さなければいけなかった、と書いている。どうして。
ページとページの間に疑問が深く落ちていく。
ドリュアデスは人間の文字を読むことは出来る。ストーリーも理解できる、でも大事な局面で折れてしまう人の心が分からない。イザベラは泣いていた。鳴いているのではなく泣いていた。それが人と精霊の違いなんだろう。
「理解できないのはわたしが精霊だからね」
読みかけの小説を机に置くと小さな焼き物にいれてあった樫の実をかじった。家の裏の樫の木で採れたものを何度も水にさらして炒ったものだ。灰汁はきれいに抜けている。香ばしさが苦みの強いブラックとよく合う。
しばらく黙考して読書の余韻に浸っているとドアベルを叩く音がした。客だ。こんな場所にやってくるのはもちろん人でない。
「誰かしら。今日は店は休みなの」
開けてみても誰もいない。おかしい、確かに誰かが鳴らしたはずなのに。開いたドアから雨が忍びこんでくる。閉めようとするとむぎゅっとした気配がして、視線を落とすと白いローブを着た人間の男が倒れていた。
ドリュアデスはしばらく考えた。気配で分かる、これは人間だ。精霊なら受け入れて看病くらいしてやるだろう。でも人間となれば話は別。姿を見られることが無いようにと押し出そうとすると首がことと折れて伏せていた面輪がのぞいた。その瞬間ドリュアデスは心を射抜かれた。
「えっ」
透き通るのような白肌とすっと通った鼻梁にバラ色の薄い唇、ハチミツ色の髪の毛は雨でぬれていてとても色っぽい。ドリュアデスはあまりの美しさに言葉を失って呆然とした。
青年は形のいい眉をひそめて苦しそうに呻いている。心音が高まる。どうしよう、どうしよう。起きちゃう。追い出す、帰ってっていう? 何この感情。
「帰ってよ、もう」
ドリュアデスは目をぐっとつむり、意を決すると奥のリビングで眠っていたフェンリルに声をかけた。
「フェンリル、運ぶから手伝ってちょうだい」
フェンリルはのそりと起き上がってやってくると青年の腕をくわえて二人で家のなかへと引きずり入れた。
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