伝える

布団に包まりながら、ハカノはふと、思い出した。


(……あ、魔法。使えば、目、見えたかも)


 外の世界に浮かれすぎて、完全に忘れていた。目が見えなくなってからというもの、魔力を「視覚」に変換する訓練を一度だけ試したことがある。使えば短時間だけでも、光や影の“輪郭”のようなものを感じ取ることができたのだ。


「……くそ、今度はちゃんとやろ」


 世界を、あの温かさを、あの空気の揺らぎを――“見る”ために。


 


 次の外出を待ちわびる日々は、以前よりも色づいて感じられた。朝起きて、体を起こして、声を出す。それだけでも、世界に触れている気がしてくる。


 ある日。病室の窓が開けられ、風が入り込む。


 鼻が、ふっと動いた。


(……ん?)


 春のにおい。草の青さ、どこかで咲いている花の甘い香り。そして――近くの公園に散歩に来ていたらしい、犬の匂い。


 ――何も起きない。


(……くしゃみ、出ない)


(鼻水も、目のかゆみも……ない)


 驚きで心が跳ねた。前世では、犬猫アレルギーと花粉症で毎年地獄を見ていた。くしゃみで背骨が痛むたび、何度魂を抜かれたことか。


「やった……! 俺、無敵だ……!」


 すっごくどうでもいいことで、ひとりで笑ってしまった。


 


 その日の昼、病院の中庭で不定期に見かける教会の人が来た。


「よぉ、ハカノくん。今日は調子良さそうだねぇ」


 白いローブに簡素な十字の刺繍。だけど、全体にラフで軽やか。声も口調も、神官というより旅芸人のようだった。


「今日はね、近くの子たちに絵本を渡しに来たの。ついでに歌でも歌おっかなって思ってさ」


 その人は中庭のベンチに座り、ぽつりぽつりと歌い始めた。


 ――『加護の歌』。


 どこか懐かしい旋律。教典にも載っているらしいが、祈祷というより、むしろ子守唄に近かった。


「それ……歌詞、教えてくれませんか?」


「お、興味ある?」


「はい。ちょっと……歌ってみたくなったんで」


 


 ハカノは声を整え、そっと歌い始めた。


 目を閉じ、言葉の一つひとつに気持ちを乗せる。


 声が空気に染み込んでいく。魔力が震えて共鳴するような、不思議な感覚が胸の奥で広がった。


 神官の人は、しばらく目を丸くしていたが、やがてニッと笑った。


「……こりゃ参った。君、歌の加護でも持ってんのか?」


「いや、ただの喉です」


「じゃ、デュエットしよっか。せっかくだし」


 中庭に、二人の声が重なった。


 高く、穏やかに、風に乗って。


 誰かのためではない。信仰でも、礼儀でもない。


 ただ、音が、心地よかったから。


 


 歌い終えたあと、神官の人は立ち上がって、空を見上げた。


「……ねぇ、ハカノくん。世界ってさ、意外と悪くないでしょ」


「……まだ、全部見えてないですけど。でも……はい」


「そっか。じゃ、全部見えるようになったら、感想聞かせてよ」


 


 手を振って去っていくその背中は、やっぱり神官というより、旅の途中に立ち寄った吟遊詩人みたいだった。




…ハカノはまたひとつ、小さな光を胸に灯した。

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