夏の恐怖夜話 2025
けもこ
第1夜 振り向いてはいけない~祖母の座敷と竹林の声~
我が家は、祖父母、両親、私、妹の六人家族だった。
同じ敷地内には、昔からの母屋と、両親が結婚後に建てた離れがあり、私たち姉妹はその離れで暮らしていた。
離れは、若い夫婦の家らしく、システムキッチンや乾燥機付きの風呂なども備わっていて快適だった。
一方の母屋は、土間や縁側、座敷などが昔のまま残っていて、風情はあるけれど、かなり不便だった。
私は、初孫であり、内孫でもあったことから、跡取りだ、なんだと、特に祖父にかわいがられていた。
祖父は昔気質で、新聞一つ手にするのも、祖母に頼むような、いつでも祖母を”おい”と呼びつけるような人だった。
「お義母さんは、お義父さんの便利グッズじゃないんやから」
その様子に、不快感を表す母と祖父とはあまり折り合いが良くなく、そのせいか、私はよく母に頼まれて母屋へお使いに行った。
そんな祖父が、私が小学校一年の時に癌を患い、手術を受けることになった。
手術は成功したが、退院を目前に容体が急変し、結局、家に戻ることはなかった。
死因は、血栓による心筋梗塞と聞かされた。
祖母は突然の別れに深く落胆したものの、静かにその事実を受け入れていたようだった。
母は「一人暮らしは大変だろうから」と何度も離れへの引っ越しを勧めたが、祖母は「この家がええのよ」と笑って言って、母屋での暮らしを続けた。
母屋の奥座敷には大きな仏壇があり、その中には先祖代々の位牌が所狭しと並んでいた。
そこは昼間でも薄暗く、湿った空気が漂っていて、子ども心に、障子が開いていると思わず閉めたくなるような、そんな場所だった。
祖父の死後、祖母に食事を届ける機会が増え、時には一緒に離れで夕飯を囲むこともあった。
それでも祖母は「やっぱりあの家が落ち着くの」と、新しい家へは移ろうとしなかった。
ある晩、いつものように母に持たされたおかずをお盆にのせて、母屋へ向かった。
玄関の敷石を歩きながら、引き戸を開けて奥へ声をかける。
「おばあちゃん、ご飯やで」
いつもなら、「亜子ちゃん、ありがとう」と祖母の笑顔が出てくるはずなのに、その日は返事がなかった。
不思議に思って、お盆を居間のテーブルに置き、奥に向かってもう一度声をかける。
「おばあちゃん? ご飯持って来たで?」
そのとき、奥の座敷から小さな話し声が聞こえた。
(お客さん?)
こんな遅くにこの家に誰か来ているなんて珍しい。
聞き耳を立てると、祖母の声の他に、もう一人の低い声が混じっているようだった。内容までは聞き取れないが、確かに会話をしている。
「……もう、ここに帰ってくることは……」
「……そんなこと言うても……」
黙って帰ろうかと思ったが、気になってもう一度だけ声をかけてみた。
「おばあちゃん、ご飯持って来たよ」
すると、不意に話し声が止まり、襖が開いて祖母が顔を出した。
「ああ、亜子ちゃん。ありがとうね」
いつもと変わらぬ笑顔だったが、その背後の座敷には誰の気配もなかった。
「今、誰かと話してたん?」と尋ねると、祖母はニコニコと笑ったまま、「仏壇のご先祖様やらとな」と答えて、私の背中を押して居間へと促した。
それから間もなく、祖父の初盆がやってきた。
ナスの牛やキュウリの馬を従兄たちとふざけながら作り、迎え火や送り火を焚いて、賑やかに法要を終えた。
従兄たちが帰ったあと、祖母が「掃除ついでに墓参りに行く」と言い出した。
つい一昨日、送り火を焚いて墓へ行ったばかりだったのだが、母曰く「おばあちゃん、人が多くて落ち着いてお参りできなかったんやろ」ということのようだ。
「悪いけど、莉子が熱出してるから、亜子、ついて行ってあげて」
妹の莉子は、従兄たちとはしゃぎすぎて、熱を出して寝込んでいた。
「おばあちゃん、ひとりで行くし、ええよ」と祖母は言ったが、この炎天下に祖母を一人で行かせることを、母は頑として許さなかった。
祖母が庭で育てた花を新聞紙にくるみ、やかんに水を入れて、私は祖母と一緒に歩き始めた。
「おばあちゃん、あの家に一人でいて寂しくないん?」と尋ねると、祖母は「寂しくないよ、気楽やで」と笑った。
「こないだ、仏壇に話しかけてたやん?」と続けると、一瞬だけ祖母の笑顔が消えた気がした。
だがすぐに、いつもの柔らかな表情に戻って答えた。
「その日一日、こんなことがあったんやでって、おじいちゃんやご先祖様に報告してるだけやよ」
「へぇ……死んだ人って、仏壇にいたりお墓にいたり、忙しいなあ」
軽い気持ちでそう言った私に、祖母は静かにこう返した。
「仏壇やお墓は、あの世とつながる窓みたいなもんで、そこに“いる”わけやないんよ。ほんまはな」
墓に続く細い坂道を下る祖母の足取りは、いつも以上にしっかりしている。
墓の前には、まだ新盆の供え物が残っていた。
祖母は手際よく片付けを済ませ、古い花を抜き取ると、「亜子ちゃん、悪いけど、これあっちの林の中に放ってきてくれる?」と言った。
私が言われたとおり、竹林の奥へと花を投げ捨て、再び祖母のもとへ戻ってくると、
祖母は、墓石の前でしゃがみこんで手を合わせていた。
「ここはあんたのいるところじゃない。早よ行きなさい」
お経を唱えているのかと思ったが、小さな声でそんな独り言をつぶやいていた。
「……おばあちゃん、捨ててきたで」
そう声をかけると、祖母は顔を上げ、「ほんなら帰ろか」と立ち上がり、腰を伸ばした。
やかんを手に、来た道を引き返そうと、祖母の後ろを歩き始めたそのときだった。
竹林にざわっと風が吹き、私の背後に何かが立ったような影を感じた。
「……ちょっと待ってくれ」
背後から、誰かの声がした。
振り向こうとした瞬間、祖母が私の手を強く引いた。
「亜子ちゃん、振り向いたらあかん」
「え……?」
祖母はそのまま、強い力で私の手を握って早い足取りで坂を登っていく。
そして、畑が見え始めるあたりで、ようやく歩を緩めた。
「どうしたん? おばあちゃん」
「なんでもないよ。お母さんが、昼ごはん待ってるやろ。はよ帰ろ」
祖母の声は、いつもどおりだった。
「でも、さっき……誰か……」
「誰もおらん。誰もおらんよ」
祖母はこちらに顔を向けず、淡々と言う。
「……でも、“待って”って……」
「亜子ちゃん。“おる”と思ったら、“おること”になってしまう。あそこには誰もおらんのよ」
その言葉に、私はそれ以上、何も聞けなかった。
あのときの声。あれは何だったのか……誰だったのか。
あの日、小さな一族の墓だけのある墓地には私たちだけだったはずなのに――。
その後も祖母は長生きし、私が社会人になる年まで、あの母屋に一人で住み続けた。
あの晩の出来事について、もう一度祖母に聞いてみようと思いながらも、結局、私は一度もそれを口に出すことができなかった。
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