第40話 空が割れた日

「族長!!逃げろおおお!!」


 空から影が落ちた。鉤爪が、俺の頭上へまっすぐ振り下ろされるその瞬間――


 ザルグが咄嗟に俺の身体を抱えるようにして吹き飛ばした。

 衝撃で体が弾かれ、地面に叩きつけられる。

 砂利と土煙が巻き上がり、耳を貫く衝撃音が胸に響いた。


 咳き込みながら、鼻と口に金属と土の匂いが混ざる。

 呼吸を整え、意識を手繰り寄せる。

 心臓が、鼓膜を震わせるような速さで打っていた。


「……ッ!!」


 痛みに意識を引き戻し、俺は震える視線を上げた。

 霞む土煙の先、空を裂くように巨大な翼が広がる。

 その影は、大地に夜を落としたかのようだった。

 獅子の筋肉が陰影を濃く描き、鷲の嘴が冷たく光る。


「……グリフォン・ライダー……!」


 口が震える。声にならず、唸り声のように漏れた。

 幻獣グリフォン――

 大空の支配者。英雄ユニット。

 その羽ばたきは、風を引き裂き、

 鋭い爪は、鉄鎧をも切り裂く凶刃となる。


 地上の軍勢に対抗手段はない。

 対空能力を持たぬ陣を、空から蹂躙できる兵器。

 通常は王都防衛の切り札。王を護る守護獣。

 だが今、その切り札がこの戦場に舞い降りた。


 ゴドリックが、それを許した――その冷酷さに、鳥肌が立つ。

 王をどう説得したのか。あるいは強権を振るったのか。

 どちらであれ、戦況の均衡を完全に破壊する策だ。


 鷹の目を起動すると、さらに十騎ほどの影が、鉛色の空に弧を描く。

 その姿は、獲物を待つ猛禽の如く。

 ゆっくりと、確実に、我らを崩しに向かっている。


 土煙がゆっくり晴れる。

 その隙間に浮かぶのは、ザルグの姿。

 俺は、信じられない思いでその名を呼んだ。


「ザルグ……!」


 ――立っていた。


 いや、もはや“立っている”とは言えなかった。

 大剣を杖に、肩を震わせながら、それでもザルグは前を睨んでいた。


 その胸に穿たれた大穴。

 鎧は砕け、肉は裂け、肋骨ごと抉られたその傷口からは、血が激しくほとばしっていた。

 普通なら即死すべき傷だ。


 だがザルグは──まだ剣を握っていた。


「……無事か……族長」


 血を吐きつつも、苦しげに振り返る。

 その顔に、かつての豪快な笑みはない。代わりに、静かな覚悟と悲壮さが宿っていた。


「……!」


 その声は震えていた。だがその瞳には確かな意志が宿る。

 限界を超えて、肉と骨と血が叫んでいるのに、そこにあるのは不屈の魂。


 空。

 旋回する翼。

 グリフォンが、再び爪を構えて滑空してくる。


「うおおおおおおおおおッ!!」


 ザルグが叫ぶ。

 全身の痛みを押し殺し、血に濡れた足で地を蹴る。

 身体を捻り、最後の力を込めて跳躍する。


 その跳躍は、命を賭けた一閃となった。

 グリフォンの眼前まで、彼は肉薄した。


「受け取れぇえぇぇ!!」


 振り抜かれた大剣が空に軌跡を描き、鋼の線が闇を裂いた。

 鋼が肉を断ち、軋む骨が砕け、幻獣の断末魔が轟いた。


 グリフォンと騎乗主の首は断ち落とされ、その体は無音で墜ちていく。

 風は一瞬止まり、空気が凍る。

 その巨体が地面へと崩れ落ちた。


 だが、その勝利の余韻に浸る間もなく――


 ザルグが大剣を手放し、血に足を取られるように崩れ落ちた。

 そのまま膝を打ち、呻き声ひとつ上げず、地に手をついて前へ這おうとしていた。

 だが、もうその腕にも力は残っていない。地面が赤黒く染まっていく。


 俺は咄嗟に地を蹴り、デュラハン・ホースの鞍に飛び乗った。

 土煙を裂き、濁流のような戦場を駆け抜ける。

 視界の端で、矢が過ぎ、誰かの叫びが風に消えた。


 ザルグのもとへ滑り込むように馬体を寄せ、

 その巨躯を腕一本で引き上げる――血に濡れた甲冑が滑り、手が震えた。


「……ザルグ!なぜ庇った!」


 返事はない。ただ荒い息と、わずかに首を振る気配だけが伝わった。

 ザルグの腕を引き寄せ、鞍の背へと押し上げるように乗せた。

 重い。体温が急激に落ちているのがわかる。だが、まだ温もりはある。


「ぐっ……」


 かすれた呻き声が耳元で漏れる。

 その瞬間、鋼鉄の蹄が地を蹴り、デュラハン・ホースが風を裂いた。

 背後にザルグの重みを感じながら、俺は前方に集中する。


 視線の先――影が舞う。空の色がまた変わった。


「ッチ!……グリフォン!」


 雲間を裂き、次の刺客が迫ってくる。

 このままでは、逃げ切れない――!


「ヒャハハハ!!!……先に行け。ここは俺様が引き受ける!」


 怒号が、背後から戦場を裂いた。


 振り返ると――アク―バの部隊がいた。

 盾のように、我らと敵との間に立ちはだかっていた。


 スケルトン・ホースの蹄が土を踏み鳴らし、

 オークの斧槍が半月の円陣を形づくっている。


「ジャハンの勇者どもォ!!ここが踏ん張りどころだ!!

 黒鬼とザルグを、死なせるなァアアアッ!!」


 アク―バが斧槍を高く掲げて叫んだ。

 その顔には、どこか狂気じみた笑み――だが俺には、それが何よりも頼もしく見えた。


 すぐさま、彼の部隊が一斉に咆哮を上げる。

 戦馬が突進し、槍が閃き、敵の矢を払い落とす。

 その陣形は乱れず、彼らの意志はまっすぐだった。


「アク―バ……!」


 思わず声が漏れた。


「早く行け、黒鬼!……殿は任せとけ!」


 ジャハンの咆哮が、空を震わせる。

 アク―バの背中は、ただ一つの言葉を語っていた――


 信じろ、と。


 俺は、拳を握った。


 もう振り返らない。

 背を預けるのは、仲間を信じている証だ。


「もう少しだ……絶対に、助ける……」


 俺は前を向いた。

 ザルグの息が荒い。血が肩に伝ってくる。


「……なぁ、族長、聞いて、くれ……」


 ザルグは血を滲ませながら半ば意識を失っているが、かすかに顔をこちらに向ける。

 その頬は蒼白で、呼吸は浅く、血の気は引き、腕がわずかに震えていた。


「話すな、ザルグ!安心しろ、すぐにシャマルクたち――オーク・シャーマンのところで治療を施す!」


「聞け、……!!」


 大きな声ではなかった。

 それでも、俺にははっきりと聞こえた。

 かすれたその声に、俺は引き寄せられた。

 そして――ザルグの目が、真っすぐに射抜いた。


「……俺は、もう長くねぇ。自分の身体だ、そりゃあ分かるさ。だから……お前に伝えておかなきゃいけねぇことがある」


 彼は唇を噛み締め、息を漏らすように続けた。


「バルド、お前は、になるべきだ。……マグ=ホルドに来て、はっきりと分かった。お前は……オーク達を繋げる存在だ。……滅亡する定めだった同胞に、光を見せてくれた。希望を生み出した」


 その言葉は、俺の胸を締め付けた。

 鼓動が重くなる。息を呑む暇もない。

 俺は、震える拳を握った。


「…なぜそう言い切れる」


 俺の問いに、ザルグは微かに笑ったようだった。だがその笑みは力のないものだった。


「……バカが……どれだけ長い間……共に戦場を駆けたと思ってるんだ……」


 ザルグの声は次第に遠くなる。

 一筋の雨が、血の混じった頬を伝ってこぼれ落ちた。


「バルド……頼む……オークの……未来を。安住の地を……」


 その一語が、重く空気を裂いた。


「……許さん。死ぬことなど俺が!」


 俺は吠えた。堰き止めていた感情を、みっともなく。


 そのときだった。


 ザルグの手が、静かに俺の首筋に伸びてきた。

 その手の重みは、温もりでも痛みでもなく――「託す」という確かな意志だった。


「わりぃな……先の景色を一緒に見れなくて……」


 その声は、力なくかすれ、やがて静かに消えた。

 身体から、生命の輝きが抜け落ちた。


 大きな犠牲だった。大きな大きな柱を失った。

 もう戻れない。

 これは戦争だ。

 どちらかの陣営が降伏するまで続く。


 ザルグだけではない、殿を務めた仲間の命と魂が、俺の中に流れ込んできている。

 一人ではない。この誓いは――俺一人のものではない。


「……分かった。ザルグ」


 俺は静かに呟いた。

 迷いは消えた。

 涙は出なかった。ただ、体の奥で何かが焼けるように熱くなった。


「――安心しろ。俺が、必ず……お前の意志を守る。未来を……この手で創る」


 その言葉を吐きながら、俺は背筋を伸ばした。


「――抑止力が必要だ。人間が畏れ、恐怖し、跪くような象徴が!」


 空に浮かぶ影が、何十とあろうと構わない。

 いま、俺は……王になる覚悟を決めた。


 絶対的な悪。魔王へと至る覚悟を。


 雨が本格的に降り出した。

 それはまるで、ザルグの魂が背中を押しているかのようだった。

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