第5章 空白の部屋
霧深きロンドンの夜、二人はある一軒の館の前に立っていた。
地図にも載っていないこの建物は、郊外の廃屋の中でも特に“誰にも使われていない”とされていた。
「ここか?」
ワトソンが囁く。
「“影の持たぬ者が好むのは、誰の視線も届かぬ場所”だ。そこに、痕跡は残る」
ホームズは懐中電灯を灯し、朽ちた扉を開けた。
中は驚くほど整然としていた。
「……綺麗だな。誰かが掃除してる」
「その通りだ、ワトソン。見えない者が“ここで生活している”というわけだ」
二階の一室――
扉を開けたとき、ワトソンは言葉を失った。
そこには、何もなかった。
家具も、本も、装飾も。まるで誰かが“全てを消し去った”ような、完全な空白だった。
「……これは逆に、怪しいな」
ホームズはすぐに、靴を脱ぎ、床を音も立てずに歩きながら壁際を調べる。
「音が……違う」
「え?」
「この部分の壁――叩くと空洞だ。内側に空間がある」
ワトソンが手でなぞると、目には見えないが、冷たい金属の感触がした。
「……パネルか? だが、まったく継ぎ目が見えないぞ」
「いいや、レンズを使え」
ホームズは“視界の鍵”――あの特殊レンズを差し出した。
ワトソンがそれをかざして見ると、壁に奇妙な継ぎ目の線が浮かび上がった。
「あった……!」
慎重に押し込むと、空気が抜ける音とともに隠し扉が開いた。
その中にあったのは、まるで実験室そのものだった。
液体の入った容器、布のような皮膚、そして――
ホームズは棚の上に置かれたノートを開いた。
そこには、こう記されていた。
“私が透明である限り、この世界は私の実験場である。
私は罪を犯さない。なぜなら、誰にも見られぬ者は罪を持たぬ。
私は姿を捨てたのではない。私は神を模倣したのだ。”
「……狂気だな」
ワトソンが吐き捨てる。
「いや、これは“論理の果て”だ。視えない者は、人の目に依存しない。
だからこそ、罪悪感や倫理すら“見られること”からしか生まれないのだ」
ホームズは、ノートの最後にこう記されているのを見つけた。
“そして今宵、私は“観測者”の元へ赴く。
見る者に、見られる者の恐怖を教えるために。”
その瞬間、階下でガラスの割れる音が響いた。
「……来たか」
二人は飛び出し、階段を駆け下りる。
だが、玄関には誰の姿もない。
しかし、開いた扉の隅には、濡れた足跡が一歩だけ――
「……“我々のもとへ来る”と書いていた」
ワトソンが呟いた。
ホームズはランタンを掲げ、扉の外を見つめながら静かに言った。
「これは、“挑戦”だ。
やつは我々に、“本当に見る力があるか”を試している」
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