第3章 グリフィンの亡霊
ロンドン郊外、チャリング・クロスから馬車でおよそ三十分。
古びた石造りの建物が、霧の中にうっすらと姿を現した。
そこが、かつてアルドリッチ光学研究所と呼ばれていた場所だった。
瓦礫と雑草に覆われたその建物は、もはや「廃墟」としか言いようがなかったが、ホームズの目は細部を捉えていた。
「ワトソン、見たまえ。扉の下にうっすらと残る泥の跡……最近、誰かがここへ入っている」
「……まさか、グリフィンが?」
「可能性はある。あるいは彼の“後継者”か。ともかく入ろう」
二人は懐中電灯代わりのランタンを手に、研究所の内部へと足を踏み入れた。
研究室はかつての姿をとどめていた。
割れたフラスコ、崩れかけた書棚、黒ずんだ黒板。
だが、ホームズの眼は“異常な整頓”に気づいていた。
「誰かが……ここを“定期的に使っている”。埃の量が均一ではない」
ワトソンが一冊のノートを拾い上げる。中は、化学式と図解、そして不気味な人体構造のスケッチ。
「“光屈折調整剤による皮膚の透明化”。……これは、実際に人体に投与された痕跡がある。しかも……副作用として“精神錯乱”の記述も」
ホームズは棚の奥から、錠前のかかった木箱を見つけた。
ピッキングで簡単に開くと、中には封筒が数通と、小さな写真が一枚――
白衣姿の男と、歪んだ顔の男が並んで写っている。
「……グリフィン、そして……誰だ、このもう一人は」
そのとき、ホームズが写真の裏に何か書かれているのを見つけた。
“G & V ― 被験体β、初期成功例”
「“V”……? もう一人の研究者か、あるいは……別の実験体?」
ワトソンがさらに封筒の中身を確認すると、そこには日記らしきものが入っていた。
6月18日:試薬G-12の効果、視覚透明率98%。被験者β、皮膚の大部分に反応。
6月20日:視覚からの自己喪失感を訴える。“自分の目が見えない”という恐怖により、精神状態悪化。
6月23日:グリフィン博士、単独実験に移行。自己投与開始。以降、姿見えず。
ホームズがぽつりと呟いた。
「……つまり、グリフィンは自ら透明化したということだ。そしてそれ以降、消息を絶った」
「姿が見えなくなったから、死んだとされただけか……」
「だが、日記は“誰かが見ていた”形跡がある。つまり、彼の透明化後も“観察者”がいた。……その者が今も活動している可能性は高い」
そのとき、建物の奥――地下へ続く階段のあたりから、かすかな物音がした。
ワトソンが肩をすくめる。
「……誰かいる」
「いや、“何か”だ」
二人はそっと階段を下り、地下の実験室跡へ足を踏み入れた。
そこは、薬品の臭いと鉄の錆びついた匂いが混ざった、不気味な空間だった。
中央には奇妙なカプセル装置。そして、その周囲には――足跡が、濡れているにもかかわらず“視えない存在”によって踏みしめられたように残っていた。
「……ここにいるな」
ホームズが小声で言ったその直後、突然――
カプセルが爆発的な音とともに破裂した。
中から放たれたのは、見えない何か。
空気が揺らぎ、照明の光が一瞬歪んだ。
ワトソンが叫ぶ。
「逃げろ、ホームズ!」
その晩、二人は命からがら研究所を脱出した。
翌日、戻ってみると、研究所は跡形もなく焼失していた。
「……証拠隠滅だな。あの“見えない者”が、自分の痕跡を消した」
ホームズは焼け跡の中から、ただひとつ無傷で残っていた“透明レンズ”を拾い上げた。
「だが、これで十分だ。やつの痕跡は“視えない”が、存在しなかったことにはできない」
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