シャーロック・ホームズの怪異録 III:透明人間事件

S.HAYA

第1章 見えざる殺人

 ロンドン、ハイドパークの東側に位置するグレヴァン通り。

 今朝、そこの高級邸宅のひとつから、悲鳴とともに通報があった。


 「鍵は内側からかかっており、窓も閉ざされていた。外部からの侵入は考えられません」


 レストレード警部が眉間に皺を寄せながら言う。


 「にもかかわらず、遺体は喉を切られ、しかもまるで……何かに引き裂かれたように見える。刃物ではなく、鉤爪か何かで」


 ホームズは遺体の周囲をゆっくりと歩きながら、足元のカーペットを観察していた。


 血の飛沫は周囲に飛び散っていたが、最も奇妙なのは濡れた足跡だった。

 玄関にも、窓にも、繋がっていない。床の中央から始まり、被害者のそばで消えていた。


 「……この足跡、サイズは成人男性。だが、左右非対称。裸足、しかも体重のかかり方が異常だ」


 「ホームズ、どういう意味だ?」


 ワトソンが声をかけると、ホームズはひざまずき、足跡の端を指でなぞった。


 「これは普通の濡れ跡ではない。水分の成分に塩分が多い。おそらく――」


 指先に触れたものを嗅いで、顔をしかめた。


 「……消毒液か。だとすると、犯人は“消毒液に浸した足”でここを歩いたことになる」


 「そんな馬鹿な……何のために?」


 「わざとだよ、ワトソン。“見えないものがいた”ことを、あえて痕跡として残した」


 「まさか……透明人間だと?」


 ホームズは立ち上がり、窓の外を見る。


 「いや、“透明人間”という言葉を出すにはまだ早い。だが――これは誰かが“存在しない犯人”を演出している。あるいは、本当に姿が見えない者が犯人か。どちらにしても、合理性の外にある殺人だ」



 被害者はユースタス・ブランド卿。

 元軍医で、化学薬品の研究にも関わっていた人物だった。

 遺体には争った跡はなく、むしろ“待ち伏せされていた”ような様子だった。


 「遺体の指に挟まっていたのはこれだ」


 レストレードが小さな紙切れを差し出す。

 そこには、わずか一文だけが書かれていた。



“あなたには見えない。だから、私は存在する。”



 ワトソンがそれを読んで、思わず呟いた。


 「……まるで、哲学の一節みたいだな」


 「いや」


 ホームズはその紙片を光にかざしながら言った。


 「これは挑戦状だ。犯人は“自分が見えない”ことを利用して、誰かを試している」


 「それが君だというのか?」


 「当然。私でなければ、この痕跡の矛盾に気づけないと思ったのだろう」


 そのとき、ドアの外で警官が走り寄ってくる音がした。


 「警部! ……ベイカー街の221Bに、不審な小包が届いております。中には……紙と、何も見えない瓶が」


 ホームズの目が鋭く光る。


 「さあ、始まったぞ、ワトソン。“姿なき殺人者”との、見えざる対決が」



 その日の午後。

 ベイカー街221Bには、例の“瓶”と手紙が届いていた。


 瓶は、まるで空のように見えたが、確かに中身があった。

 微かに液体が揺れ、空気とは違う“重さ”を持っていた。


 手紙は無署名。だが、あの紙片と同じ筆跡だった。



「私はあなたの目には映らないが、論理には抗えない。

もしあなたが真に世界を見抜く者なら、私の存在もまた“見える”はずだ」



 「……どうやら犯人は、“姿が見えない”ことを、武器ではなく哲学にしているらしいな」


 ホームズは微笑んだ。


 「いいだろう。見せてやろう、“視えない者”に対する探偵のやり方を」

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