3
昼食を食べ終えた私はあの野球ボール、そしてスマホをポケットに入れて家を出た。叔父がいるということもあって汚れは洗い落せなかった。その代わりに叔父からの熱い視線が注がれた。自身の罪を清算するための視線である。
堤から河原を見下ろすと、昨日と同じ服を着た彼は足を折りたたんでぽつねんと座っていた。美しき少年の肉体は夏の陽光に焼かれていた。その滅びの様に見とれながら私はゆったりと河原に降りて行った。
足取りに従って砂利が擦れる。その軽妙な音に彼は振り向いて「来てくれたんだ」と呟く。喜びと寂しさが滲む声音、女性的な柔らかさを含む端正な顔に私の心は揺らぐ。憂いを纏う彼はこちらを見上げ、私の股間を見つめる。
仄暗い視線が捉えた未熟な雄蕊はその一瞬で成熟する。私は「今日はキャッチボールをしよう」と、膨らみから彼の注意を逸らす。
黄ばんだ野球ボールをポケットから取り出すと、彼は艶やかな微笑とともに「あっ、それだったんだ」と呟く。真実の言葉を前に雄蕊は瞬く間に萎んだ。
昂りへの悪戯な干渉に関する復讐のため、私は彼の薄い左肩に手を置いた。掌から伝わる少年の体温が私の心を昂らせる。他方、彼は顔を顰める。それは痛みのために。
罪悪と嗜虐が精神を浸す。彼はそんな私の欲求に応えるように誤魔化しの微笑を浮べて立ち上がる。純朴な少年の幼気な嘘がどれほどの興奮を誘うか彼は知らないのだ。
思い出のボールを投げ合いながら、私たちは各々の生活について語った。私は東京の話を、右腕で投げる彼は学校と友人に関する話だけを。
少年の日常生活はかつて私が経験した生活と何ら変わらない。この村では子供の時間が止まっているのだろう。それゆえに生活には張り合いがなく、無気力が張り巡らされているのだ。
「東京って自由でいいなあ……」
彼は羨望を言伝の世界に向けて呟いた。時折、袖から覗く滑らかで微かに酸い匂いを漂わせる窪みに私が見とれているように。
三十分ほどすると私の肩は限界を迎えた。彼は投擲の中止に際し、こちらを揶揄う微笑を浮べて「おじさんじゃん」と漏らした。悪意なき悪意にあてられた私は唾を飲み込んだ。そうしてスマホを取り出してその表情を撮影した。
意図しないタイミングのシャッター音に彼は目を丸くした。一瞬間後、なにが起きたかを把握した彼は首を傾げた。少年よ、君を騙す私をどうか赦してくれ。
純真無垢な彼に私の祈りは通じたらしい。彼は私を糾弾せず「ほらほら!」とボールを求める。その姿は父と遊んでいたかつての私に酷似しているように思える。
自転車の耳障りなブレーキ音が聞こえる。錆び付いた金属が擦れ合う甲高い音だ。それが過ぎ去ると、今度は柔い靴底が慌ただしく地面を蹴る音がする。
期待に胸を膨らませていた彼の表情は憂いに満ちる。その視線は私の手ではなく、堤の上に向いている。彼は一言「お母さん」と呟く。
彼の言葉が消え入る前に後ろを向くと、そこには彼と瓜二つの美貌を携えた女性が息を切らして立っていた。短い黒髪、日に焼けていない白い肌、無地の黒いTシャツとジーパン、ゴム底のサンダル、そんな細身の女性は「カナタ」と彼の名前を呼ぶ。その声音からは神経の摩耗と攻撃性を汲み取れた。
彼は「明日も来てくれる?」と不安と期待を交えながら尋ねる。
私は「もちろん」と返す。
彼は満面の笑みを浮かべると、私の脇を通り過ぎ、堤の上へと駆け上がっていく。そうして母親に左腕を引っ張られ、耳障りの悪い音とともに川向こうへと消えて行く。
*
翌日。
叔父が再び手伝いに来てくれたということもあり遺品整理は終わった。向こうへ持って帰るアルバムやボールは、父がかつて使っていた旅行鞄へ入れた。
実家はすっかり片付いた。父の生活の痕跡が消えたために実家だとは思えない余所余所しさが広がった。それは寂しくもあり、悲しくもあった。
「叔父さん、今日帰るよ」
仏壇と骨壺に手を合わせながら、私は背後に立つ叔父にそう言った。彼は「随分と急だ。もう一泊くらいしていけば?」と、申し訳なさそうに心配してくれた。そこには実兄との別れをじっくりと味わってほしいという彼の要求の含まれていたのだろう。彼の要求を捉えていた私は「それなら」と答えることもできた。だが、私はもうここにいたくなかった。父の前にいることが耐えられなかった。それゆえに「向こうでやることもある。あと、ここにいると父さんに見られているような気がして落ち着かないんだ」と口早に答えた。叔父はそれを喪失による現実逃避として受け止めたのか、ひたすらに優しい声音で「そうか。なら、駅まで送っていくよ」と返してくれた。やはり、叔父はあの優しき父の血を引いているのだ。
昨日と同じように名荷の入った素麺を食べ、私は荷物とともに叔父のNワゴンに乗り込んだ。叔父は「それじゃ、忘れ物はないかい?」と尋ねた。私は「また四十九日に帰ってくるから大丈夫」と返した。
車が出発する。
開け放たれた車窓からは土と堆肥が混じった匂いが入り込んでくる。その道は慣れ親しんだ畑への道だった。
雲一つない蒼穹、悠々とした山脈、風に稲を靡かせる青田、真っすぐと伸びる農道。駅に向かうには遠回りだ。ただし、そこを走る理由を私が把握できないわけがなかった。
贖罪の走行は清流に掛かる橋にたどり着く。
叔父は橋を通り過ぎる前、河原を一瞥すると「あ、カナタ君」と呟いた。その声音に私はスマホから目を離し、過ぎ行く河原を見た。そこには少年がぽつねんと立っていた。
ただ、私の興味関心が彼の後ろ姿に向けられることはなかった。私はスマホに視線を落とし、雄蕊を一瞬で成熟させる純朴な少年の微笑に興味を注いだ。
残響 鍋谷葵 @dondon8989
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