第1章:名前を呼ばないで

「じゃあ、明日までに提案書まとめておいて。できるよね、綾瀬さん?」


午前0時を回ったオフィス。冷めきったコーヒーと、蛍光灯の光だけが、沙耶の疲れを照らしていた。


「……はい。大丈夫です」


綾瀬沙耶、33歳。

外資系広告代理店・LARK JAPANのプランナー。仕事はできるが、決して目立たない。オフィスでは「控えめで地味な人」。それが今の彼女だった。


「もう、あの名字では呼ばれたくない」


離婚後、旧姓である「綾瀬」に戻してから半年。だが剛志は、業界の有力者としていまだに沙耶の行く先々に影を落としていた。


仕事のコンペでも、メディアのタイアップ企画でも、剛志の会社「東條ホールディングス」の名前はいつもどこかにあった。


皮肉なことに、彼の成功の土台には、かつて自分がプランニングした広告キャンペーンがあった。

今や「業界のカリスマ」と崇められる男――その背中を、沙耶は後ろから静かに見つめていた。


しかし、沙耶の中ではすでに復讐のシナリオが動いている。


その第一歩。それは、東條剛志の“今カノ”に近づくことだった。



数日後・銀座


「初めまして、沙耶です。今日、お時間いただいてありがとうございます」


「こちらこそ〜♡東條さんから“素敵な人だから仲良くしてあげて”って言われてて。私、真帆って言います!」


彼女の名前は、桐谷真帆(きりたに まほ)。モデル事務所に所属する元アイドルで、剛志の“最新の恋人”。年齢は25歳、計算高く、可愛く、そして――軽い。


だが沙耶は、そんな真帆を笑顔で迎える。


「ねえ、沙耶さんって、もしかして…元奥さんじゃないよね?」


「ううん、違うわよ。私、“東條さんのことを一番知ってる元部下”ってところかしら」


一瞬だけ、真帆の目が警戒の色を浮かべる。でも、すぐに興味と優越感にすり替わった。


「じゃあ、いろいろ教えてくださいよ〜♡彼の好みとか、何を喜ぶかとか」


沙耶は微笑んだまま、ワイングラスを傾けた。


「もちろん。たくさん教えてあげる。……彼がどんな嘘をつくか、どんな風に女を利用するかも、ね」


その言葉に込めた本音を、真帆が気づくのはまだ先のこと。


沙耶はこの“愛人”に接近し、利用し、剛志の裏側を暴く材料にしようとしていた。


そして――真帆自身も、沙耶が狙う“鍵”の一つだった。



同時刻・東條ホールディングス 会長室


「……沙耶?何を企んでる?」


剛志は報告を受け、眉をひそめていた。

彼の情報網は広く、沙耶の動きなど簡単に掴める。だが、なぜ今――彼女は表に出てきたのか。


「まさか、まだ俺に未練があるわけじゃないよな」


笑い飛ばそうとしたその瞬間、机の引き出しにしまった離婚届のコピーが目に入る。


“提出日:令和4年10月10日”


署名欄の「綾瀬沙耶」の筆跡を、彼はまだ忘れていなかった。



沙耶の独白


「愛なんて、いらなかった。

でも、尊厳だけは、取り戻す。

それが私に残された最後の戦いだから」


高層ビルの窓から見下ろす夜の街。

あのとき、結婚という名のドレスを着せられ、檻に閉じ込められた。

今度は自分で着る。真紅のドレスで、舞台の中央に立つ――“私”として。


すべてを壊す準備は、もうできていた。

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