紅いドレスをもう一度

稲佐オサム

プロローグ:壊れた指輪

指に残された結婚指輪の跡が、なぜかまだ痛む気がした。


――あの瞬間、すべてが終わったはずなのに。


東京・港区の高層マンションのリビング。夜景のネオンがガラス越しにきらめくなか、綾瀬沙耶(あやせ さや)は静かにグラスを傾けた。冷えた白ワインの味は、もう何も感じない。苦しさも、悔しさも、怒りさえも、とうに飲み干したはずだった。


三年前、彼女は広告代理店の社長・東條剛志(とうじょう たけし)と結婚した。華やかなウエディングドレス、拍手喝采の披露宴、そして「おめでとう」の言葉の数々。幸せは約束されたはずだった。


だが、それは――虚構だった。


「外に女がいたなんて、もう笑うしかないよね…」


沙耶は自嘲気味に呟いた。


彼の浮気は一度きりではなかった。業界では有名な“愛人囲い”社長。沙耶が気づかなかっただけで、結婚の誓いなど最初から彼にとっては「飾り」にすぎなかった。けれど、沙耶はすべてを我慢した。愛していたから。信じたかったから。


……それでも、限界は来た。


そして離婚届を突きつけたとき、剛志は鼻で笑った。


「おまえみたいな女、俺がいなきゃ何もできないくせに。離婚?好きにしろよ。でも忘れるな、俺を敵に回すってことがどういう意味か。」


脅しと侮蔑と、嘲笑の混じったその声が、今も耳に残っている。


沙耶はグラスを置き、ゆっくりとソファから立ち上がった。足元に置かれた赤い箱を開く。中には、3年ぶりに見る真紅のドレス。かつて舞台女優として活躍していた頃、ラスト公演で着た勝負服だった。


――もう一度、このドレスを纏う日が来るとは思っていなかった。


けれど、今の沙耶には“舞台”が必要だった。


表の顔は「広告プランナー」、裏の顔は「復讐者」。


東條剛志の不正経理、愛人スキャンダル、隠された隠し子の存在――。すべての証拠は、もう沙耶の手元にある。3年間、彼の身の回りに潜り込み、情報を集め、仕込んできた。すべてはこの夜のために。


「さあ、ステージの幕を上げましょうか。あなたが最も信じた女に、足元を掬われる夜が来たのよ。」


彼女の唇に浮かんだのは、かつて愛した女の顔ではなかった。


それは、すべてを奪われ、すべてを取り戻すために“化けた”女の微笑みだった――。

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