嘘と真実

のりべん

第1話 疑念という名の棘

朝の光が、東側の窓からゆっくりと差し込んでいた。

リビングの壁にかけられた時計の針が「7:06」を指している。

四季を意識して選ばれたシンプルな掛け時計。沙耶が結婚一周年の記念に買ってきたものだった。

あの時は、なぜだか少し子どもっぽいデザインだと思ったが、今ではこの家の静けさに馴染んでいる。


直樹はトーストをかじりながら、沙耶の姿を探すように視線をキッチンへと向けた。

いつもなら彼女はすでに起きていて、髪をまとめ、コーヒーを淹れているはずだった。


ソファに目をやると、そこには丸くなって眠るような格好の沙耶の姿。

化粧もせず、服も部屋着のままで、スマホを手にしたままうたた寝していた。


「……おい、沙耶。もう7時過ぎてるぞ」


声をかけると、彼女は小さく肩を揺らしたが、目はうっすらと開けただけだった。


「あ、ごめん……昨日、帰るの遅かったから……」


「仕事?」


「うん……ちょっとトラブルがあってさ。帰ったの2時すぎ。」


彼女はそう言いながらスマホを伏せて、クッションの隙間へ押し込んだ。

そのしぐさが、どこかひっかかった。

無意識に、直樹は眉をひそめた。


「なんかあったのか?」


「何もないよ。ちょっと疲れてるだけ。」


それ以上、深くは聞けなかった。


 


そのとき、台所に置かれていたマグカップに視線が止まった。

見慣れないマグカップ。色は濃紺で、ロゴは英語表記のホテルチェーンのものだった。


あれ、こんなのあったか?


沙耶が最近買い替えたのか?それともどこかでもらってきた?

だが、そんな話は聞いていない。


「このマグ、いつ買ったんだ?」


「ああ、それ?取引先の人にもらったやつ。出張先の記念だって。いらないからもらったの。」


一見、自然な説明だった。


でも、なんだか言葉に“間”があった。

日頃、早口で説明を飛ばすように喋る彼女が、そのときだけ妙に慎重に言葉を選んでいるように思えた。


そう。ほんの数秒の沈黙。

そのわずかな違和感が、心の奥に小さな石を投げ込むように、静かに波紋を広げていった。


 


直樹はその日、いつものようにスーツに袖を通しながら、気づかないふりをすることにした。

だが、その“気づかないふり”が、逆に彼の内側で疑念を増幅させていくことになるとは、この時はまだ気づいていなかった。


 


玄関で靴を履きながら、ふと振り返ると、沙耶がスマホを見ていた。

画面には、LINEのトーク画面が表示されていたが、そこに映る“トーク名”はさりげなく指で隠されていた。


「……じゃ、行ってくる。」


「うん……行ってらっしゃい。」


その言葉は、今までと何も変わらない。

けれど、何も変わっていないはずの声が、どこか薄っぺらく響いた。


玄関を出た瞬間、胸に残ったのは、“何かが静かに壊れ始めている”という予感だった。


雨の匂いが、まだ湿ったアスファルトから微かに上がっていた。


その週、直樹の中で何かが変わり始めた。

それは突如としてやってきたものではなかった。

むしろ、ずっとそこにあったはずの“違和感”が、ようやく正体を帯びて目の前に姿を現した。そんな感じだった。


沙耶は以前と比べて、明らかに笑わなくなっていた。

会話が減ったというより、“心ここにあらず”な返事が増えた。

「うん」「そうだね」「まあ、そんなとこ」

言葉の内容より、心が宿っていないことに直樹は敏感に気づいた。


それでも、彼は自分を納得させようとした。

「仕事が忙しいんだろう」「女の人は季節の変わり目に情緒が不安定になる」

そうやって、自分に言い聞かせていた。



ある夜、仕事を終えて帰宅し玄関を開けると、お洒落をしてどこかへ出かけようとしている沙耶。

誰かと電話をしている様子だった。だが、次の瞬間、「買い物するの忘れてたから買ってくるね」という沙耶の言葉であっさりと流されることになる。


その場では、それ以上追及できなかった。

けれど、その晩の彼女の挙動はいつもと違った。


帰宅が深夜3時。

買い物してきた物が食パン1斤。

シャワーを浴びる時間が長い。

携帯を持ったまま浴室に入る。

そして、風呂上がりもスマホを手放さない。まるで肌身離さず持ち歩く“命綱”のように。


 


直樹は、その夜、眠れなかった。


ベッドの隣にいる沙耶の寝息を聞きながら、彼の視線は天井に固定されていた。

その目は、ただ闇の中で沈黙をたたえる天井を見つめながら、心の奥底で何かが崩れていく音を、確かに感じていた。


彼女のスマホに手を伸ばすべきか。

それは、男としての“最後の一線”を越える行為だった。

信頼を疑うこと。愛を疑うこと。

自分の中で守ってきた「夫婦の線」を、自ら引き裂くことになる。


けれど、何も知らないふりをして、ただ時間を消費していく方が、ずっと残酷だった。


 


午前5時過ぎ。


沙耶が深く寝入ったのを確認し、直樹はベッドの足元にそっと置かれたスマホを手に取った。

画面にはロック。だが、指紋認証が設定されているのを知っていた。

彼女の右手の親指を静かに添えると、画面はあっさりと開いた。


そのとき、心臓がひとつ大きく跳ねた。

寒くもないのに、手のひらには汗が滲んでいた。


LINEの通知一覧を開く。

その中に、**“翔太”**という名が目に止まった。


聞いたことのない名前。

そして、開いたトーク画面には──


「今日はありがとう。

君といると、ほんとに癒されるよ。」

「次は、例のフレンチ行こうか?

ワイン、君に似合いそうだなって思ってた。」


直樹は、画面をスクロールする手を止められなかった。

続くメッセージには、ホテルの予約画面のスクショ。

時間指定された待ち合わせ。

そして、沙耶の「楽しみにしてるね♡」という返事。


それが、全てだった。


頭の奥で何かが“バチン”と切れる音がした。


目の前の現実が、ぐにゃりと歪んだように感じた。

あれほど信じていたはずの妻が、知らぬ間に別の男の特別な時間の中にいたという事実。

直樹は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。


ベッドに戻ると、沙耶は変わらず穏やかな寝息を立てていた。


その寝顔に、直樹は何の感情も抱けなかった。


怒りでも悲しみでもない。

ただ底の抜けた感情の器に、何も残っていないだけだった。


スマートフォンの画面を閉じたあと、直樹はしばらくベッドに腰を下ろしていた。

何も考えられなかった。


ただ、耳に響くのは寝息だけ。

隣で静かに眠る沙耶は、何も知らないふりをしていた。そう思いたかった。

けれど、きっと気づいていたはずだ。

自分がスマホを見たことも。

そのとき、彼女が目を閉じながら少しだけ手を引いたことも。


でも直樹は、その夜、何も言わなかった。

怒鳴ることも、問い詰めることも、ただ感情を爆発させることもできなかった。


怒りよりも先に湧き上がってきたのは

「これでもう、終わってしまうかもしれない」という恐怖だった。


 


次の朝、いつも通りの時間に目覚めた。

沙耶はキッチンで味噌汁をかき混ぜていた。

後ろ姿は、何も変わらない妻の姿だった。


「……おはよう」


ようやく絞り出した声に、沙耶はわずかに遅れて「うん、おはよう」と返す。

その“1テンポのずれ”が、直樹の胸に深く突き刺さった。


いつも通りに過ごすことが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。


 


その日から直樹は、決意した。

**「問い詰める前に、もう一度だけ、彼女に振り向いてもらう努力をしてみよう」**と。


自分に何が足りなかったのか。

なぜ、彼女は他の男に心を向けたのか。

あれほど“家族”として一緒に歩んできたつもりだったのに。それは“つもり”でしかなかったのだ。


 

仕事帰り、彼はジムに通い始めた。

年々緩んできた体を引き締めるために。

週末はSNSで見かけた「簡単レシピ」を再現しては、沙耶の反応を待った。

時には花を買い、時には手紙を書いた。

どれも、かつて付き合っていた頃のような、拙く、青くさい努力だった。


けれど


沙耶の心は、こちらを向いてはくれなかった。


「……ありがとう」

「嬉しいね」

口ではそう言っても、目が笑っていなかった。

食卓に飾った花は次の日には捨てられていて、手紙はリビングの棚の裏に落ちたまま、拾われることはなかった。


それでも、直樹は諦めなかった。


たとえ心が返ってこなくても、努力をやめたらそれは「終わりを認めること」になる気がして


必死に前を向いていた。


 


やがて別居が始まったのは、それから2か月後のことだった。

沙耶は「少し一人になりたい」と言った。

理由は語らなかった。

でも直樹は、その裏にある本当の意図を、黙って飲み込んだ。


「わかった。……落ち着いたら、また戻ってきてほしい」


そう伝えると、沙耶は少しだけ目を伏せて「うん」と頷いた。

その“うん”が、どこまでも遠く感じられた。


 


彼女が出ていった家は、急に広く、静かになった。

音のない夜。

空のコップ。

誰もいないベッド。

ただ、彼女のマグカップだけが、シンクの奥にまだ残っていた。


直樹はそのカップを洗えなかった。

洗ってしまったら、もう完全に“日常から妻が消える”ような気がして。


 


そんなある日、大学時代からの友人・今井に相談をした。


居酒屋の個室で酒が進み、ようやく話せた。


「……実は、沙耶が浮気してるかもしれないんだ。いや、たぶん、してる。もう確信してる」


今井は眉をひそめ、グラスを置いた。


「……おまえ、それで何もしなかったのか?」


「問い詰めて壊れるのが、怖かった」


「壊れてるだろ。もう」


直樹は黙った。


「いいか、直樹。浮気するやつは変わらない。おまえがどれだけ頑張っても、相手が外を向いてたら無意味なんだよ。……悪いけど、俺は離婚した方がいいと思う。じゃなきゃ、おまえが潰れる」


今井の言葉は、鋭く心に突き刺さった。

けれど

それでも、直樹は首を振った。


「俺は……まだ信じたいんだよ。

戻ってきてほしいって、心から思ってる。

沙耶とやり直したい。ただそれだけなんだ」


そう言いながら、グラスを傾けた。

その酒の味が、やけに苦かった。


 


それからも、直樹は自分を磨き続けた。

食事、筋トレ、本、ビジネスの勉強、自己啓発。

すべてが彼にとっての“希望”だった。



季節は、秋へと差し掛かっていた。

街路樹が赤く染まり始め、どこかもの寂しげな風が家々の間を吹き抜けていた。


日曜の午後、直樹は意を決して、沙耶の実家のインターホンを押した。

足元の枯葉が、風に巻かれてカサカサと音を立てている。

指先が冷たくなるほどの緊張感の中、扉が開いた。


現れたのは、沙耶の父。高橋栄一。

銀行を定年退職した元管理職の男。

年齢の割に背筋が伸びており、眼光は今も鋭かった。


「……直樹くん、か」


「ご無沙汰しています……突然ですみません。少し、お話できませんか」


無言のまま数秒、父親は直樹を見つめた。

その視線は、明らかに冷ややかだった。

やがてドアが開き、「上がれ」とも言わずに中に通された。


居間には沙耶もいた。

薄手のニットを着て、膝に手を置いたまま俯いている。


「……家に入れないでって言ったのに」


小さく漏れたその声に、直樹の心が痛んだ。

けれど、彼は一歩も引かなかった。


「……どうしても、話したかった。

俺は、まだやり直せるって思ってる。

この一年、沙耶のために、やれること全部やってきた。

自分を変えようって、本気で思ったし、まだ気持ちは変わってない」


沈黙が流れる。


沙耶は黙ったまま、視線を逸らしていた。


 


その時だった。


「……ふざけるな」


低い声が居間に響いた。

振り返ると、沙耶の父が立ち上がり、拳を握っていた。


「おまえは……うちの娘をどれだけ苦しめたかわかってるのか。

“努力”だ? “やり直したい”?

……そんなもの、今さらだ。おまえの勝手な“自己満足”なんだよ」


「……違います」


「黙れ!!」


 


ドンッ──!!


 


拳が、直樹の頬を打った。


一瞬、世界が傾いた。

視界の端がぐにゃりと揺れ、左側の顔に鈍い衝撃が走る。

倒れかけた身体をなんとかテーブルで支えながら、直樹は顔を上げた。


「……どうして、俺だけが悪いみたいに……っ」

「沙耶のこと、愛してるだけなんです……!」


「“愛してる”? ふざけるな!!」


怒鳴り声と同時に、二発目の拳が振り上げられた。


その瞬間


「やめて!!」


沙耶が立ち上がって父親の腕を押さえた。


「……もうやめて。もういいから」


息を荒げた父親は、黙ってソファに座り直した。

重苦しい空気が部屋を満たしていた。


直樹は、頬に手を当てながら立ち上がった。

震える声で、沙耶を見つめた。


「……それでも、俺は……まだ、諦めたくない。

このまま他人になんて、なりたくないんだ……」


沙耶はしばらく何も言わなかった。

けれど、ゆっくりと視線を合わせ、静かに言った。


「……私はもう、直樹にとっての“沙耶”じゃない。

……あの頃のままじゃ、もういられないの。

あなたは変わったかもしれない。……でも、私も変わってしまった」


その言葉は、拒絶よりも残酷だった。

変わってしまった“事実”そのものが、すべてを断ち切るには十分だった。


直樹はもう、何も言えなかった。

沈黙のまま、深く頭を下げて玄関へ向かった。


振り返ると、沙耶の父親がまだこちらを睨んでいた。

その視線が突き刺さるように痛かった。


玄関を出た時、空は鈍く曇っていた。

風が冷たく、頬の痛みがさらに沁みた。


直樹は歩きながら、呟いた。


「……ああ、終わったんだな」


その時、ようやく“現実”を受け入れるしかないと悟った。


そして、その数週間後、弁護士から正式に離婚届が届く。

1年間の努力と想いは、法的な一枚の紙によって、完全に閉じられた。


離婚が正式に成立した夜。

直樹はひとり、旧居の元・寝室で眠れずにいた。

いや、眠ることはすでに生活の一部から消えかけていた。

夜になると心が騒ぎ、昼間の喧騒でようやく気が紛れる。

そんな“昼夜逆転した情緒”が続いていた。


壁にかかっていた夫婦の写真が時間をいやに生々しく主張していた。


「……もう戻れないんだな」


つぶやいたその声が、想像以上に掠れていたことに自分でも驚いた。


別れとは、音もなく終わる。

“最後の言葉”なんてものは、映画の中にしか存在しない。

現実の別れは、紙と判子で淡々と決まり、誰も拍手も涙もくれない。


それからの日々は、まるで霧の中をさまようようだった。


直樹は仕事には行っていたが、会話も少なく、上司からも「休め」と言われる始末。

頑張ろうとすればするほど空回りし、真面目さが裏目に出る。


コンビニで買った冷えた弁当を、温めもせずにそのまま口に入れた夜、

味がまったくしなかった。

何を食べているのか、何をしているのか、自分がどこにいるのか──まるで何も分からなかった。

それから半年が経ち藤原直樹は、季節がひとつ変わったことさえ、どこか他人事のように感じていた。

街に咲く紫陽花が雨粒を弾いていたが、それすらもどこか遠くの風景のようだった。


それでも、人は生きなければならない。

会社に向かい、案件をこなし、営業先で笑い、帰宅して酒を飲み、眠れない夜を数えてはまた朝を迎える。

そんな、どこか感情の抜け落ちたような日々を、直樹はただ“こなして”いた。


結婚という居場所を失い、

愛していた人に「もう戻らない」と言われ、

彼の心の中には、ぽっかりと“空白”ができていた。


そして、その空白は、表面上は平穏な日常を装いながら、じわじわと彼を蝕んでいった。


そんなある日

その“空白”に、ひとつの出会いが舞い降りた。


「すみません、このビルって、◯◯コンサルって会社、入ってますか?」


ビルのエントランス前で不意に声をかけられ、直樹は一瞬、声の主を見返した。

前髪の流れに自然な癖のある、明るい栗色の髪の女性。

小柄で華奢なシルエットに、白のブラウスとベージュのワイドパンツ。

目元は柔らかく、だがどこか鋭さと知性を感じさせる。


「あ、僕もちょうど向かうところなので、ご一緒にどうぞ」


自然にそう答えた自分に、直樹自身も少し驚いた。

この半年、人と話すこと自体、億劫で仕方がなかったはずなのに。


エレベーターの中で、彼女は軽く頭を下げた。


「ありがとうございます。こういうとき、ビルの中って迷路みたいで……」

「初めて来たんですか?」

「ええ。今日は派遣されて、ここの会議に出ることになってて。緊張してるんですよ、これでも」


柔らかな笑みが、心の隙間に染み入るようだった。


「藤原直樹さん、ですよね?」


「えっ……? なんで?」


彼女は少し照れ笑いを浮かべた。


「実は……数日前の企画資料に、お名前載ってました。私、企画サポートに入ることになってて」


そう言って差し出された名刺には、

《篠原真希 ― マーケティングサポーター》と印字されていた。


その日の会議後。


「本当に助かりました。会議室まで案内してもらったおかげで、変に緊張せずに済みました」

「そんな、僕なんて案内しただけですよ」


直樹がそう返すと、真希は少しうつむきながら微笑んだ。


「……でも、話しかけたとき、なんだか“疲れてる人”って感じがして」


「え?」


「だから、助けてもらったのは私のほうなんです、多分」


直樹は、何かを見透かされたようで、少しだけドキリとした。

それでも彼女の声のトーンは優しく、責めるようなものではなく、ただ“そこにいてくれる”ような雰囲気を持っていた。


それは、どこか、かつての沙耶に似ていた。

いや、むしろ沙耶が見せなかった“共感”という優しさが、彼女にはあった。


それから数日後、また偶然が訪れた。


営業帰りの夜道、ふと入った裏路地に面したバーの前。

ドアの前に立っていた真希が、驚いたような目でこちらを見ていた。


「藤原さん?」


「篠原さんじゃないですか。偶然ですね」


「藤原さん……こんなとこで会うなんて」


「入るところでした?」


「いえ……ちょっと悩んでて。でも、せっかくなので、ご一緒しませんか?」


その夜、ふたりはグラスを傾けながら、初めて“過去”について語った。


直樹は、自らの離婚については多くは語らなかった。

だが、言葉の端々から漏れ出す“傷”を、真希は静かに受け止めてくれた。


彼女もまた、離婚経験者だった。


「……私、騙したんです。元の夫を。別の人を好きになって……嘘ついて逃げたの。

でも……それでも、なんとなく、彼の中に私は生き続けてる気がして。

ひどい話ですよね?」


その言葉が、まるで沙耶のことのように聞こえて、直樹は思わずグラスを強く握った。


「……“裏切る側”が、一番後を引くんですね」

「うん……きっとそう。いつまでも罪悪感が残る」


その夜、ふたりは夜更けまで語り合った。

恋ではなかった。まだ、それは温度のない関係だった。

けれど、どこかぬくもりのような、同じ痛みを持つ者同士の“静かな寄り添い”が、確かにそこにあった。


それから、自然に会う頻度が増えていった。

取引先で顔を合わせるだけでなく、食事をするようになり、夜を共にする日もあった。


真希は仕事も有能で、思考も柔軟だった。

何より、直樹の話を否定せず、時には導くように助言もくれた。


「直樹さんって、なんで会社に居続けてるの?」


「……どういう意味?」


「いや、もったいないなって。

プレゼンも上手いし、交渉力もある。自分で起業したら、私、応援するよ」


そう言われたとき、直樹は初めて、自分が“可能性”という言葉に触れた気がした。

離婚で崩れた自信。

あの日、義父に殴られたときに潰された“男としての尊厳”。


そのすべてを、真希は何気ない一言で、もう一度すくい上げてくれた。


直樹自身も、気づけば彼女に対して警戒心を解いていた。

否、それどころか、心のどこかで“癒やされている”自分を感じ始めていた。


そんなある日。


都内の小さなホテルラウンジでの打ち合わせが終わった後、

真希がふと財布を開いた。その瞬間、直樹の目に、彼女の名刺入れから滑り落ちそうになった“あるカード”が目に留まった。


それは、見慣れた企業のロゴだった。

だが、それは“彼女の経歴”には含まれていなかったはずの会社だった。


「……あれ? そのロゴ……『レヴェナンス企画』? あそこって、マーケじゃなくて、ファイナンス系の…」


言いかけたその時。


真希の手が、驚くほど素早くカードを名刺入れに戻した。


「あ、これ? 昔ちょっとだけ関わってたところ。ほんの短期で。たいした話じゃないよ」


その返しは、軽やかだった。

けれど


軽やかすぎた。


直樹は、その瞬間の目の動きに微かな違和感を感じ取った。

“何かを隠す人間の仕草”に、彼はかつて似たようなものを、沙耶にも見たことがある。


「あの会社、今話題になってたよね。投資詐欺だか、なんだか……」


真希は、笑った。

けれどその笑顔の“温度”が、それまでと違った。


「そうなの? 私、ああいう話って全然疎くて……ニュースもあんまり見ないし」


その場は、それで終わった。

だが直樹の胸には、鈍い音が残った。


 


違和感は、それだけでは終わらなかった。


数日後、真希と一緒にいた都内のバーで、彼女が一瞬、化粧室に立った時のことだった。

彼女のスマートフォンがカウンターに置きっぱなしになっていた。


ふと、画面が明るくなり、通知が表示された。


《〇〇組・佐久間:今日中に指示が必要です》


組?


直樹は反射的に顔を近づけ、もう一度見た。

しかしその直後、スマートフォンの画面はロックされた。


まるで何か、深い底に手を差し込んでしまったような感覚が背筋を這い上がってくる。


あれは、本当に“偶然の出会い”だったのか?


今までの出来すぎた展開。

仕事への自然な関わり方。

自分への距離の詰め方。


振り返ると、真希の行動には、計算の匂いが混ざっていたような気さえしてくる。


 


真希が席に戻ってきた。


「どうかした?」


「……いや。ちょっと考えごとしてただけ」


微笑む彼女は、相変わらず魅力的だった。

だが、さっき見た“通知の名前”と、その笑顔がどうしても噛み合わない。


酒を飲む直樹の手が、少しだけ震えていた。


「……真希さんって、さ。過去に何やってたか、あんまり話さないよね」


彼は、試すように言った。


真希はグラスを持ち上げたまま、少しだけ動きを止めた。

一瞬の沈黙。


だが、その沈黙の後の彼女の笑顔は、完璧だった。


「話してないかな? まぁ、話すほどの人生じゃなかっただけかもね」


その返しはあまりに洗練されていて、むしろ“違和感”さえ感じさせなかった。


直樹はその夜、ひとり眠れぬままベッドに横たわり、

彼女のSNS、過去の名刺、名刺に書かれた住所……すべてを何度も見返していた。


どこかに嘘がある。

でも、どこかが“本当”でもある。


そう感じている自分の直感を、彼はまだ、信じきることができずにいた。


けれど確かに、足元にはすでに“落とし穴”が掘られつつあったのだ。


真希との時間は、直樹にとって心地よい「避難所」になりつつあった。

職場での評価は少しずつ回復し、週末には真希と過ごす時間が増えていった。


映画、ランチ、ホテルラウンジ、時には郊外の小さな温泉旅館まで。

真希はあらゆるシーンで“完璧な女性”を演じていた。直樹が求めていたものを、彼女は不思議と正確に察知し、それを与えた。


 


「直樹くんって、繊細でまっすぐな人だよね」


ふいに真希がそう言ったのは、二人で夜の海を眺めていたときだった。

防波堤に座りながら、潮の香りと遠くの波音が夜に溶けていた。


「昔、そう言われたことはあった。でも、たぶん…そういうのって、大人になってからは弱さだよね」


直樹が自嘲気味にそう言うと、真希はゆっくり首を横に振った。


「私は、そういう人の方が信じられる。だって、弱さをちゃんと見せられる人って、誠実なんだと思うから」


その言葉に、直樹の心はじわりと揺れた。

“もう一度、誰かを信じたい”そう思わせるには、十分すぎるほどに優しい声色だった。


けれど、その直後。


真希のスマホが震えた。

ちらっと画面を見た彼女の表情が、ほんの一瞬だけ硬くなった。


通知は「T」とだけ表示されたメッセージアプリから。

真希はスマホをすぐに伏せたが、直樹の視線はそれを逃さなかった。


「大丈夫? 誰かから?」


「ううん、ただの仕事の人」


笑顔の裏に、ほんの一滴の“冷たさ”が垣間見えた。


 


数日後。直樹は思い切って真希にこう切り出した。


「ねえ……ちょっと、変なこと聞いてもいい?」


「なに?」


「真希さんってさ……俺のこと、どう思ってる?」


真希は不意を突かれたように見えたが、それもわずか数秒のことだった。


「……好きだよ? 直樹くんみたいに優しい人、あまりいなかったから」


その言葉は、真っ直ぐに、まるで迷いのない矢のように飛んできた。


でも直樹の胸には、奇妙な残響が残った。

それは言葉そのものではなくその「完璧さ」だった。


“まるで、準備された答えみたいだ。”



次第に、直樹の頭にはふたつの声が同時に鳴るようになっていた。


「信じろ、彼女はお前を癒してくれてる」

「待て、本当にすべてが偶然だったか?」


その矛盾を抱えたまま、ある夜、真希がふいに口にした言葉が、直樹の人生の流れを変えていく。


「ねえ……直樹くん。ちょっと“ある話”があるんだけど──もし興味があれば、だけど」


「……ある話?」


「投資の話。正確には、ある海外企業の短期流動資産運用なんだけど。

私、少しだけ関わってて、パートナーとして動ける人を探してるの」


「……投資って、株とか?」


「ううん。株じゃない。もっと限定的な案件。内部的に情報が回ってくるような内容だから、表に出せない話なんだけど」


「……それって、合法なの?」


直樹の声に、一瞬だけ沈黙が走る。


「もちろん。……ただ、“グレー”だと思う人もいるかも。

でも、今の時代って“合法だけど倫理的に問題”って話、いくらでもあるじゃない?」


その笑顔は、やはり美しくそしてどこか“危うかった”。


その夜、直樹は眠れなかった。


癒しを与えてくれた人が、もしかしたら落とし穴の入り口に立っているかもしれない。


だが彼は、心のどこかでこうも思っていた。


「この人を、信じたい」


そしてその一歩が、やがて彼を“地獄の入口”へ導いていくことになるとは、その時まだ知る由もなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嘘と真実 のりべん @noriven

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ